『寒椿』


byつう

十九の章

  昨日から敷きっぱなしの夜具の上に、イルカは横たわっていた。
 目の奥が熱い。体全体が、内部に吸い込まれていくような不安定な感じがする。朝から少し、ふらつくとは思っていたが、まさか事務局で倒れるとは。
「ったく、鍋のひとつぐらい買っとけって言っただろ」
 台所でアスマが文句を言っている。
 正直なところ、この男がいてくれてよかった。あのまま医療棟へ運ばれていたら、腕の傷のことを詮索されたかもしれない。
 偶然、報告書を出しに来ていたアスマが早退届を代筆して、家まで送ってきてくれたのだ。
「洗濯用の金盥で湯を沸かすなんて、前線でも滅多にしねえぞ」
 レトルトパックの粥を温めているらしいが、イルカとしてはそんなことはどうでもいい。どうせ食べられないし、食べられたとしても味などわからない。
 そう。わからないのだ。なにを食べても。
 なんだか、前よりもさらにひどくなったような気がする。カカシの家にいたときは、五分粥や味噌汁などは口にしていたのだが。
 カカシは料理が上手かった。凝ったものではないが、咀嚼するごとに味が染み込んでくる、懐かしいものをたくさん作ってくれた。
『冬はねえ、やっぱり白い野菜ですよ。大根とかカブとか白菜とか。もう少し食べられるようになったら、鍋料理をご馳走しますね』
 大根の味噌汁をすすりながら、カカシは言った。
 ふだん、味噌汁に入れる大根は銀杏切りか短冊切りにするらしいが、そのときはイルカが食べやすいように千切りになっていた。ほとんど噛む必要もなく、喉元を過ぎていく。
 美味しい、と思った。あのとき。
 昔、苦手なものをなんとか食べられるようにと、手を代え品を代え、工夫していた母を思い出す。ほんのひとくち食べただけでも、うれしそうな顔をしてくれたっけ。
「できたぞ」
 とん、と、畳の上に椀が置かれた。
 当然ながら、イルカの家には盆もない。
「箸があって、よかったよ」
 半ば本気なのだろう。アスマはため息をついた。
「食いたくないのはわかるが、これも任務だと思え」
「任務、ですか」
「ああ」
「……わかりました」
 アスマの物言いは、いつも自分に逃げ道をくれる。イルカは上体を起こした。
「いただきます」
 椀を取って、粥を口に運ぶ。
 やはり味などわからなかった。ただ、熱くてどろどろした物体が、食道を通過していく。
 吐き気は起こらなかった。それだけでも、まだましだ。
「それ食ったら、薬、飲めよ」
 アスマは栄養剤や造血剤を枕元に置いた。
「これは?」
「医療棟から失敬してきた」
「薬事法違反ですよ」
「上忍は、自らの判断で薬物を摂取することも、他人に処方することも許されている」
「それは、任務中の特例でしょう」
「固いこと言うなよ」
 アスマはイルカの頭をぽんぽんと叩いた。
「俺とおまえさんの仲だろ」
 手が、肩に下りる。
「またこんなに、やせちまって」
「すみません」
「俺に謝るこっちゃねえよ」
 それはそうだ。自分のことなのだから。
 イルカは黙々と箸を運んだ。嚥下するのがつらいが、無理をしてでも食べなければ。
 少し気負いすぎたのか、何口めかで気管に粥を吸い込んでしまった。咳き込んだ拍子に、椀が手から滑り落ちる。
「うわ、やっちまったな」
 アスマは慌てて、風呂場からタオルと手桶を持ってきた。
「着替えた方がいいぞ」
 粥は夜着の膝の部分にべったりとついている。
「そうですね」
 イルカは箪笥から着替えを取り出すと、するりと帯を解いた。畳を拭いていたアスマが、まじまじとイルカを見る。
「なんですか?」
「いや、色っぽいと思って」
 あっさりと、言う。
「こりゃ男でも、その気になるねえ」
「……なったんですか」
 べつに、それならそれでかまわない。自分は夜具の上。相手は上忍。カカシのときと、状況は同じだ。
 イルカは上半身を顕にしたまま、かつての上司を見据えた。
「おまえさん、何年、俺と付き合ってるんだ?」
 アスマはイルカに新しい夜着を着せかけた。
「隊長……」
「隊長じゃねえよ」
 煙草の臭いのする顔が近づく。
「カラダだけがほしいんなら、とっくにやっちまってるよ」
 にんまりと、アスマは笑った。
「で、いまごろ、おまえさんは生きてない」
「え?」
「五年前の印が、発動してただろうからな。そうなっていたら、俺はおまえさんを殺してた」
 アスマの大きな手が、傷が癒えたばかりの右腕をそっと撫でた。
「よかったよ。本当に。悔しいが、カカシの野郎に感謝せにゃ」
 その名を聞いた瞬間、ぴくりと体が震えた。
 たしかにカカシは、自分を助けてくれた。印を見つけ、排除してくれた。しかし。
 イルカはそれを素直に喜ぶことはできなかった。結局、また死ねなかっただけ。また、死なないために生きていかねばならないのだから。
「なあ、イルカ」
「はい」
「おまえさん、やつのこと……」
 アスマが何事か言おうとしたとき、玄関を叩く音がした。やや強めに、五回。しばらく間をおいて、また五回。
「だれだよ、うるせえな」
 アスマが舌打ちしながら立ち上がった。
 ナルトだろうか。自分が早退したと聞いて、様子を見に来たのかも。
 いや、違う。
 イルカは、はっとして顔を上げた。ナルトなら、もっと目茶苦茶に戸を叩くはずだし、近所に響き渡るような声で「イルカせんせーっ!」と叫ぶだろう。
 この静かな、しかし鋭利な刃物のような「気」は……。
「隊長!」
 思わず、声が出た。羽織っただけの夜着の前を合わせて、六畳に出る。
 この気は、カカシだ。なんらかの感情を意志の力で抑えている、磨ぎ澄まされた「気」。アスマにも、それぐらいはわかっているだろうに。
 いま、あの男に会いたくはなかった。カカシはいつも、自分をかき乱す。かろうじて繋ぎ止めている心を遠慮会釈なく鷲掴みにして。
「え、なんだ?」
 玄関の戸に手をかけて、アスマが振り向いた。扉はすでに開いている。隙間からさらりとした銀髪が見えた。
「あれえ。なんでおまえが、ここにいるのよ」
 同僚の姿を認めて、カカシは藍色の目を丸くした。
「なんでって、そりゃ……」
 アスマが事の経緯を説明しようとしたとき。
 カカシの視線がこちらに向いた。瞬時に、隻眼が薄く細められる。
「……なーんか、お邪魔だったみたいねー」
 声音が、冷たく変わった。
「ま、そーゆーことなら、俺は退散するよ」
 三和土に足を踏み入れもせず、カカシは踵を返した。
「おい、ちょっと待て!」
 アスマが叫びながら、飛び出す。
 イルカの頭の中で、二人の上忍の不協和音のような足音が木霊した。





二十の章へ続く

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