『寒椿』


byつう

十八の章

 やっと、眠ったか。
 カカシはほっとして、筆を置いた。
 今日はいつもより寝つきが悪かったようだな。
 襖ごしでも、イルカの様子は手にとるようにわかる。何度も寝返りをうって、ため息をついていた。
 味覚が戻ってきたことに、戸惑っているのだろうか。印によって縛られていた年月を取り戻すのは、容易ではあるまい。しかし、イルカならそれを乗り越えていくだろう。敵さえも認めた、強さを秘めた彼ならば。
 カカシの腕に中にあるときも、イルカは決してあきらめてはいなかった。体はカカシの思うままになっていても、心はつねにべつの場所にあった。どんなに乱れても、どんなに声を上げても、それは彼のすべてを奪うことはなかった。
 心と体を完璧に切り離すことのできる人間。
 イルカを評して、シギはそう言った。
 たしかにそうだ。抱いても抱いても、実感がない。そのときに触れている、体温すらも虚構のようで。色づく肌も、荒い息も、当然のように応えてくる体も、なにもかもがうたかたの夢のようだった。
 印を探しながら、自分はその夢に酔っていた。印を見つけたら、もうこの夢を見ることはない。それがわかっていたから、なおさらその瞬間を惜しんだ。
 なにひとつ、見逃すまい。震える指も、わななく唇も、のけぞる喉の曲線も。
 汗のひとしずく、髪のひと筋までも脳裡に刻もうと思った。永遠に、手に入れられぬものだから。
 そして。
 あの人を束縛していたものはなくなった。傷が癒えて、常食が摂れるようになれば自分の役目は終わりだ。
 休暇はあと二日。それまでに、ふつうの粥や味噌汁ぐらいは食べられるようになってくれればいいのだが。
 カカシは明日の献立を頭の中で組み立てつつ、休暇の延長を申請しようかと真剣に考えていた。





 結局、カカシの休暇は十二日に及んだ。
 七班の指導を肩代わりしていたアスマが「半月超えたら、カカシの給料を差し押さえろ」と事務局にねじ込んだらしく、火影もそれ以上の延長を認めなかったのだ。
「お世話になりました」
 イルカは私物を詰めた風呂敷を手に、深々と頭を下げた。
「気をつけて」
 まだ五分粥ぐらいしか食べられないのは心配だったが、これ以上、引き留めることもできない。カカシはイルカの姿が見えなくなるまで、玄関の前に立っていた。
 本当は、家まで送りたかった。が、イルカはそれを、やんわりと断った。
 それはそうだろう。ようやく解放されるのだ。自分などに付いてきてほしくはあるまい。
 夜中に降った雪が、庭一面を覆っていた。イルカの足跡が、ひとつ、またひとつ。
 きっちりと結わえられた黒髪が遠ざかっていく。
 行ってしまった……。
 白い景色の向こうにその影が消えたとき、生け垣の寒椿が音もなく落ちた。濃い紅の、一重の椿。
 カカシはそれを、そっと両手で包んだ。やわらかな雪とともに、赤い花をすくいあげる。
「……風流ですねえ」
 てのひらで、雪が解ける。その雪が雫になるまで、カカシはそこに佇んでいた。





 翌日。
 カカシが久しぶりに七班の予定表を取りに行くと、イルカは奥の席で、新任の事務局長と茶を飲みながら資料のチェックをしていた。
 きのうの今日で、もう通常の業務に就いているのか。
 カカシはイルカの白い横顔を見遣って、小さく息をついた。あいかわらず、馬鹿がつくほど真面目な人だ。せっかく自宅に戻ったのだから、もう一日ぐらい休めばいいのに。
「七班には、Dランクの依頼がふたつ、来ていますね」
 受付にすわっていた職員が、書類を差し出した。イルカと同期の、茶目っ気のある青年だ。
「今日中に二件ともお願いします」
「はーい。じゃ、行ってきまーす」
 しばらく休んでいたのだ。掛け持ちは仕方ない。ナルトたちには嫌味を言われるだろうが。
 戸口で、もう一度中の様子を窺う。イルカはファイルを手に、なにやら熱心に説明していた。
 今度の局長とは、うまくやっていけそうだねえ。
 ほんの少し安心して、カカシは事務局を出た。





 その後も、何事もなく日々は流れていった。
 この三カ月近くのことなど、なにもなかったかのように。
 カカシが報告書を出すと、イルカがそれを受け取ってチェックを入れる。語句や書式の不備を指摘されるのも以前と同じ。
「訂正箇所が多すぎるので、書き直してください」と、新しい用紙を突きつけられることも多かった。
 もう大丈夫だろう。新しい事務局長は政城という名の特別上忍で、火影の奥殿に勤めていたこともある人物だった。イルカが働きやすいように、うまく現場を動かしているようだ。
 月が変わり、里にわずかながら春の気配が近づいてきた。茶色かった土手に早緑の草が生え、梅はすでに花弁を散らしている。
 まもなく啓蟄。イルカが前線から帰還して五年が過ぎる。本当に、間に合ってよかった。あの人が、ふたたび新しい季節を迎えられて。
 任務を終えてアカデミーに向かいつつ、カカシはほんの少し埃っぽくなった春の風を感じていた。
「おつかれさまでーす」
 いつものように事務局のドアを開けると、なぜか受付に事務局長がすわっていた。
「あれえ、どうしたんです?」
 カカシの声に、政城は銀縁の眼鏡を直しつつ、顔を上げた。
「ああ、はたけ上忍。おつかれさまです」
 のんびりとした声。確認印を手にして、
「七班の報告書ですか?」
「あー、すみません。まだ書いてないんですよー」
「困りますねえ。Dランクの報告書は即日提出していただかないと。いつも、うみの君がそう言っているはずですが」
「はあ、それはまあ、そうなんですが……ところで、どうして局長ともあろう人が受付なんかにいるんです」
 率直な疑問を口にする。
「今日はみんな、いろいろと忙しくて。頼みの綱のうみの君が早退してしまったものだから、私が代わりに受付をやってるんですよ」
「早退?」
 カカシは眉をひそめた。
「なにか、あったんですか」
 声音が、わずかに変わる。
「いや、どうも朝から体調がよくなかったみたいで。貧血でしょうね。顔色も悪かったし」
 貧血だと?
 きのうまで、そんな様子は微塵もなかったが。もしかして、また食事を摂っていないのだろうか。
「報告書は、あしたまでにお願いしますよ」
 茫洋とした政城の声を背に、カカシはイルカの家に向かった。






十九の章へ続く

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