『寒椿』


byつう

十七の章

 腕の傷は、日に日によくなっていった。
 直後の処置が、適切だったのだ。かなり深い傷だったにもかかわらず、化膿もしていないし、ひきつった感じもない。
 まるで医者のようだな。
 イルカはカカシの手元を見ながら、そう思った。
「はい。いいですよ。腕を戻してください」
 包帯を巻き終えて、カカシは言った。
 イルカは夜着に袖を通し、上衣を着た。あの日から、カカシはずっと自分の側にいる。火影に休暇をもらったと言っていたが、本当だろうか。里を代表する上忍で、ナルトたちの教官でもあるのに。
 印のことは機密扱いだろうから、医療棟で療養するわけにはいかない。そんなことは承知しているが、それなら、五年前のように暗部の研究所に搬送すればいいのだ。
 それを、この男は自宅に留め置いている。ご丁寧に、二重の結界を張って。
 イルカは中忍だが、間者をしていた経験と、この五年のあいだに得た知識とで、結界の波長や質といったものを分析できるようになっていた。
 この家には、二種類の結界が張ってある。ひとつは、余人を侵入させない防御結界。もうひとつは、中にいる者を外に出さない封印結界。これまで、この男が自分を訪なうときに張っていたのは防御結界だけだったのだが。
 おれが逃げ出すとでも、思っているのか。
 ばかばかしい。いまさらそんな真似はしない。
 カカシが、取り替えた包帯を手桶に入れて出ていく。その背を見送りながら、イルカはこれまでのことをぼんやりと考えた。
 半ば強制されるように関係を結んだ。この身が目的なら、それでいいと思った。心をかき回されるよりは、体を供している方が楽だったから。
 いや、かえって、体を繋いでいるあいだは安心さえしていた。この男を感じている自分がいる。この男に応えている体がある。少なくとも、こうしているうちは自分は自分でいられる、と。
 イルカは脇息にもたれて、脚を崩した。体がだるい。きのうから、食事をほとんど摂っていなかった。
 食事といっても、シギに送ってもらう高カロリー流動食が主な栄養源になっているイルカである。自宅にストックしてあった分はカカシが取ってきてくれたが、それももう底をついた。
 いつもなら毎月十日ごろまでには届いていた荷物が、なぜか今月分の配送が遅れているらしい。
 研究所内で、なにか不測の事態が起こったのかもしれない。カカシに頼めば栄養食品を調達してきてくれるだろうが、それは嫌だった。
「晩飯ですよー」
 声とともに、カカシが座敷に戻ってきた。手には土鍋を持っている。
「お待たせしました」
 カカシは座敷机の上に鍋敷を敷いて、土鍋を置いた。
「熱いですからねー。気をつけてくださいね」
 言いながら、そっと蓋を取る。
「……なんですか、これは」
 イルカは眉をひそめて、鍋を一瞥した。
「なにって、粥ですよ」
「泥みたいですね」
 その粥は消し炭を砕いて混ぜたような、濁った色をしていた。
「ひどいですねえ。これは薬草の灰汁ですよ」
 カカシは土鍋からその灰色の粥をすくって、茶碗に入れた。
「はい、どうぞ」
「これが、今日の晩飯ですか」
「ええ、まあ」
 カカシはにっこりと笑った。
「だって、常食は食べられないでしょ? でも、研究所の補助食品はもうないし……で、仕方ないんで、これを作ったんですよ」
 この男はふだんから自炊をしている。仮にも上忍。外に行けばどんなご馳走でも食べられるだろうに、任務のとき以外は家で食事をしているらしい。きのうも煮込みうどんやら雑炊やら、消化によさそうなものを作ってもらったが、結局、二、三口食べただけで箸を置いてしまった。
「もしかして、嫌がらせですか」
「は?」
「おれが、あなたの作ったものを食べないから……」
「まさか。嫌がらせなら、あんたの目の前で肉でも焼いて食べますよー」
 面白そうに笑って、カカシは自分の茶碗にも粥をよそった。
「これはね、暗部にいたころにある人から教えてもらったんですよ。どんなに調子が悪いときでも、たちどころに治ってしまうというスグレモノでしてねー。ほんとは三十種類ぐらいの薬草をブレンドするんです。いまの時期には手に入らないものもあるんで、厳密に言うと、俺のオリジナルですけど」
 粥の上に、揚げたはるさめをパリパリと崩して散らす。
「まあ、騙されたと思って食べてみてください」
 カカシは匙を手にして、はるさめと粥を軽く混ぜた。ふうふうと冷ましながら、口に運ぶ。ちょっと首をかしげて、
「んー。やっぱり、本家本元とはだいぶ違うなー。ま、材料が足りないし、仕方ないか」
 独り言のように呟きつつ、さらに匙を運ぶ。それを見て、イルカも茶碗に手をのばした。
「いただきます」
 「食べ物」には到底見えないが、ひと口だけでも食べねばなるまい。そう思って、匙を運んだ。その途端。
 不味い。
 口に入れるなり、強烈な臭いが鼻腔に突き抜けた。たしかに薬草臭いとは思っていたが、これほどとは。
「あれ、どうしました?」
 カカシが平気な顔をして、粥を食べている。
「どうって……」
 旨いものを食えなどと言っておきながら、この男こそ味覚音痴ではないか。こんなものを人に勧めるなんて。
「もしかして、不味いですか」
「……はい」
「へえ。そりゃよかったですねえ」
 カカシの顔が、ぱっと明るくなった。
「なにがですか」
 イルカはむっとして、カカシをにらんだ。
「だって、味がわかったんでしょ」
「え……」
「いままで、なにを食べてもわからなかったのに」
 そう言えば、そうだ。九尾の一件以来、ただ死なないためだけに食物を摂取してきて、五年前からはほとんど薬と人工栄養で命を繋いできた。食べ物の味など、もう十年以上忘れていたのに。
「よかったですよ。本当に」
 カカシは微笑みながら、イルカを見つめた。
 なんて顔をするんだ。なんて、うれしそうな。
 イルカは匙を置いた。もう食べる気がしなかった。粥が不味かったからではない。ただ、カカシを見ているのが嫌だった。
「あれ、もういいんですか」
「はい。ごちそうさまでした」
「うーん。駄目でしたかー。これなら、消化もいいし、体もあたたまるし、いけると思ったんですけど……味がわかるのも、良し悪しですねえ」
 カカシはしきりと残念がっている。
「さきに、休ませていただきます」
 イルカは奥の座敷に入った。
 印を滅却するときに壊した室内は、もうすっかり元通りになっている。粉砕した飾皿のかわりに壺が飾ってあり、そこには真っ赤な寒椿が生けてあった。
 この家の庭には、花の咲く木がたくさんある。かつてここに住んでいた庄屋の妾が、四季の花を楽しんでいたのだろうか。いまは何種類かの椿や蝋梅や山茶花が咲いていて、カカシはときおり、それらの花を切って玄関や座敷に飾っていた。
 床の間の小さな灯に、寒椿の赤が浮かんでいる。
 横になっても、なかなか寝つかれなかった。カカシはとなりの部屋で、なにやら書き物をしているようだ。
 いつまで、ここにいればいいのだろう。夜具の中でイルカは考えた。
 印を消滅させてから、カカシはイルカに指一本触れていなかった。やはり印を見つけることが第一義で、自分のことは、それこそ「おまけ」だったのかもしれない。
 カカシによって付けられた標が、だんだんと色あせていく。煩わしくて、見るのも嫌だったこの跡。
 これが消えるころ、自分はどうなっているのか。漠然とした不安に包まれて、イルカはきつく目を閉じた。






十八の章へ続く

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