『寒椿』
byつう
十四の章
体の隅々まで、調べた。とても口には出せないような、秘められた場所までも。
それでも、「印」は見つからない。もしかしたら無意識の状態で浮かび上がるのかもしれないと思って、一度ならず極限まで追い上げてイルカの意識を奪ってみたが、結局、無駄だった。
責めても責めても、イルカは声を上げない。気を失う寸前になって、ようやくそれを自分のこととして認識する。
体はカカシの思う通りに色づいて、その瞬間を待っているというのに。
素直な体。こんなふうに、抱きたくはなかった。少しずつ近づいて、求めて、手をのばして。そしてこの人に、その手を取ってもらいたかった。
いまさら言っても詮ないこと。自分はもう、決してこの人を手に入れられない。この人の心を、開くことはできない。
「イルカ」
声に出して、呼んでみた。
愛しい人は夜具に突っ伏して、死んだように眠っている。肩と背に広がった黒髪が、呼吸のたびにわずかに揺れた。
「イルカ……」
声をしぼりだす。名前を呼ぶのが苦しかった。しばらく逡巡してから、黒髪に手を遣る。まっすぐな、やわらかい髪。
自分に許されるのは、ここまでだ。愛していると言えるのは、この人が眠りの中にいるあいだだけ。
そう。いまだけは、この人を想うことができる。
カカシはイルカの髪を撫でながら、まんじりともせずに夜を明かした。
ふたりの関係は、その後も続いた。
時々、アスマに明確な殺気を送られることはあったが、表面上は穏やかに日々が流れていく。カカシは焦っていた。
イルカが背負っているであろう時限印。その発動は間近に迫っている。
はっきりしたことは不明だが、シギの話によれば、森の国の忍に施された時限印は五年目に発現したという。イルカが東部国境で救出されてから、まもなく五年。同じ性質の印だとすれば、もういくらも時間は残っていない。
もし、間に合わなかったら。
『あいつを殺せないなら、近づくな』
アスマの言葉が蘇る。
『いつか、だれかがあいつを殺さにゃならん』
できるだろうか。自分に。
ぼんやりと、手を見る。幾多の命を奪ってきた手。里のために、自分のために、迷いを封じて刃を振るってきた。
この手で、あの人を殺せるだろうか。たとえ、禍々しいものに侵食されていたとしても。
ふいに、指先が震えた。小刻みに、ふるふると。
『ダメだよー』
蒼天のごとき澄んだ瞳が、幼いカカシに寄せられる。
『そんな手でクナイ握っちゃ』
見る者を魅了せずにはいられない微笑みを浮かべて、四代目は言った。
『それじゃ、おまえ、ただの人殺しになっちゃうよ』
『ヒトゴロシ?』
『そ。つわものでも忍でもない。行き当たりばったりで人を殺しちゃうようなやつ』
四代目はカカシの頭をぽんぽんと叩いて、そっとクナイを取り上げた。
『相手倒すのに気力は必要だけどね、感情は要らないよ』
感情のままに動くことは、自殺行為だ。四代目はいつもそう言っていた。
『忍は、いつもニュートラルな状態でいなくっちゃ』
仕事も遊びもふだんの付き合いも、軽やかにこなしていた彼の持論である。
十代で火影の後継者として擁立され、だれもがその器量を認めていた男。九尾の件で「英雄」となり、いまではもう神格化されているが、カカシにとっての彼は、いまでも「きれいなおねえちゃん」、もとい「きれいなにいちゃん」だ。
震える手を空にかざす。冬晴れの蒼穹に向かって。
『大丈夫だって』
あのとき、彼は言った。カカシの手を、大きな手で包んで。
『おまえは、めっちゃラッキーなんだから。オレとおんなじぐらい、いい男になるよ』
なれてないよ。まだ。
半分の視界の中で、きらきらと光が流れていく。
彼なら、どうしただろう。あの人を守るために、どんな方法をとっただろう。心を砕いて話しただろうか。あの人の中に、もっとまっすぐに入っていっただろうか。
『さあねー』
苦笑まじりの、そんな声が聞こえた。
『そーゆーことは、自分で考えなきゃ意味ないでしょ』
わかってるよ、そんなことは。
でも、想像するぐらいいいじゃないか。あなたはもう、心の中にしかいないんだから。
『あきらめちゃ駄目だよー』
ふたたび、声。
カカシは目を閉じた。そうだ。彼は、きっとあきらめない。たとえ印を見つけられなくて、イルカがイルカでなくなってしまっても、決してあきらめないだろう。
万にひとつの可能性があるのなら。いや、なかったとしても、彼なら「可能性」までも自分で作り出してしまうかもしれない。彼にとって、可能性は無限だったから。
目を開けたとき、指先の震えは止まっていた。大きく息を吸って、立ち上がる。
集合時間に、また遅れてしまった。想わず頬がゆるむ。
ナルトは今日も元気よく、罵声を浴びせてくれるだろう。サスケは氷点下の視線を投げて、サクラは頭の中で円周率を延々と唱えつつ、見事な作り笑いを浮かべるだろう。
今日は外注の任務はなし。模擬戦で攻撃と防御のフォーメーションでもやるか。
カカシは教官モードに頭を切り替えて、演習場へ向かった。
「二対一じゃ、きついってばよ」
ナルトが大の字になって、土の上に転がった。模擬戦が一段落ついたあとである。
「そーんな甘いこと、言ってていいのかなー」
カカシはナルトを覗き込んで、言った。
「実戦じゃ、複数相手にすることだってめずらしくないんだよ。二対一ぐらいで根を上げてて、よく火影になるなんて大ボラ吹けるもんだねえ」
「ホラじゃないってば!」
むきになって、ナルトは叫んだ。
「オレはいつか火影になる。ホラだっていうんなら、なれなかったときに言えよな」
可能性は、ゼロではないのだから。
カカシは無性に可笑しくなった。やっぱり、血は争えないねえ。
蒼い双眸に、彼を思い出す。意志の強さと、人を引き付けるなにか。すでにナルトは、それを持っている。
「はいはい。わかったよ。でもねえ、模擬戦でぼろぼろになって言っても、説得力ないよー」
サスケがふん、と鼻で笑った。サクラは訓練で乱れた髪を真剣な顔で直している。訓練のときより気合いが入っているように見えるのは、決して気のせいではあるまい。
「あーっ」
手鏡を覗いていたサクラが、素っ頓狂な声を上げた。
「サクラちゃん、どうしたっ」
ナルトが飛び起きた。サスケの視線がちらりと動く。
「やっだー、こんなところに……」
サクラは鏡を握り締めて、舌打ちした。
「冬だからって、油断したかしら。んー、でも、これ、シミじゃないわよね。ほくろかなあ」
「え、なになに? サクラちゃん、シミ、できたの?」
横から口出ししたナルトが、盛大にサクラに叩かれた。
「失礼ねっ。ほくろよ、ほくろ! ねえ、カカシ先生。これ、ほくろよね?」
サクラは右頬を指さして、カカシに迫った。
「んー、そうだねえ。色素は薄いけど、ホクロじゃないかなー」
「でしょ? ほーら、見なさいっ」
再度、サクラはナルトの頭を小突いた。
まったく、「おんなごごろ」って複雑だねえ。カカシは苦笑した。たかがほくろひとつのことで……。
そこまで考えて、カカシは思考を停止した。
ほくろ?
イルカの体を思い出す。耳のうしろ、首すじ、肩、腕、背中、脇腹、下肢のあいだ……。
いままで、ほくろのことは完全に失念していた。小さな印かもしれないとシギは言った。もしかしたら、ほくろに隠れているのかも……。
「今日はここまで。解散!」
一方的に宣言して、カカシは演習場を出た。
事務局のいつもの席に、イルカはいた。
「イルカ先生!」
つかつかと受付に近づき、腕を掴む。
「はい?」
「来てください」
「は、しかし、まだ仕事が……」
「一刻を争うんです」
強引に、カカシはイルカを事務局から連れ出した。またいろいろ噂になるとは思ったが、そんなことは言っていられない。
ほくろを調べなければ。いますぐに。
邪魔をされたくはない。カカシは素早く印を結び、里のはずれまで飛んだ。
十五の章へ続く