『寒椿』
寒椿
byつう

一の章

 生きろ。
 それが、イルカが聞いた最後の言葉だった。
 九尾が里を襲った夜。父が、母が、愛しい人たちが。
 次々と死んでいった。自分の目の前で。
 ああ、人は、こんなにもあっけなく死んでしまうのだ。それならば。
 死ぬことは、なんて簡単なのだろう。死ぬことができたら。





 生きろ。
 その言葉が、いまも重くのしかかる。
 あれは遺言。だから、死なない。どんなことがあろうとも、生き延びてみせる。ほかになんの目的もないのだから。
 イルカは、死なないためだけに生きていた。





 アカデミーの事務局で、うみのイルカは上司と向き合っていた。
「この場合は、先にわれわれに事情を説明していただければ、調整がついたはずです」
 イルカは何種類かの予定表を机に広げて、見解を述べた。
「上には上の都合というものがあるのは承知していますが、二度手間、三度手間は経費の無駄です。経理課で試算してもらったところ……」
「ああ、わかったわかった」
 とうとう事務局長は片手を上げて、イルカを制した。
「経理課には私から話を通しておこう。それで、いいかね」
「それなら、結構です。ただし、上忍の方々のシフトがかなり混乱しますので、そちらの方面にも配慮が必要かと思いますが」
「あした、ブリーフィングをするよ」
「局長御自ら、ですか?」
「いちいち確認せんでもいい。やるよ。ただし、資料は揃えておいてくれ」
「了解」
 イルカは短く答えて、卓上の書類を集めた。自分の机に戻って、それらを個別のファイルに納める。
「おい、うみの」
 隣席にいた同僚が、こそっと話しかけた。
「さっき言ってた資料ってさ、これでいいのかな」
 どうやら、イルカは上司に直談判する前に資料の作成を依頼していたらしい。
「ん。こんなもんかな。あと、砂の国国境の地形図も付けておいてくれ」
「わかった。書庫に行ってくるよ」
 同僚は戸棚から鍵を取って、事務局を出ていった。
 とりあえず、ひとつ片付いた。イルカはふうっと息をついた。
 上は現場を軽視しすぎる。たまには、強行に主張してもいいだろう。上司に文句を言うのも、ある意味では部下の務めだ。下の意見を取り上げられないような上司は、はっきり言って無能である。
 部下の意見に耳を傾けつつ、そのうえで指示を的確に伝えて納得させられなければ、上に立つ意味はない。
「すみません、お願いします」
 机の前に人影。イルカは顔を上げた。
「ああ、おまえ、ずいぶん早かったなあ」
 途端に顔がほころぶ。そこにいたのは、中忍になったばかりの、かつての教え子だった。
「はいっ。雨の国までの文遣いだったので……これ、報告書です」
 まだ十代前半の、栗色の髪の少年が書類を差し出した。
「どれどれ……うわ、おまえ、こりゃひどいな」
 イルカはすっかり教師の顔で、言った。右手には、すでに赤ペンを持っている。
「まず、件名だ。こんなに詳しく書かなくてもいいんだよ。『文遣いの件』だけで十分だ。それから本文だが、一文が長すぎる。書く前に報告する事項を箇条書きにして、どういう順番に並べるのがいちばんわかりやすいか考えるんだな」
 言いながら、赤ペンで添削していく。
「とにかく、あしたまでに書き直してこい。このままじゃ受理できない」
「はい、わかりました。ありがとうございましたっ」
 少年は修正だらけの報告書を受け取ると、ぺこりと頭を下げて出ていった。
 まったく、事務書類の書き方も教えておいたはずなのに。イルカは苦笑した。もっとも、下忍のあいだはスリーマンセルの教官が報告書を書くのが通例だし、授業で何時間かやっただけでは身についていなくても仕方がない。
 中忍になれば、自分でなにもかも処理しなくてはいけなくなる。しっかり覚えてもらわねば。
「イルカ先生って、コドモにはやさしいんですねえ」
 のほほんとした声が、奥から聞こえた。衝立の向こう側。一応は応接間として区切られている場所から。
「なーんか、違うヒトみたいですよ」
 ボールペンでこめかみのあたりをかいている銀髪の男が、衝立から首だけ出してこちらを見ている。藍色の隻眼、斜めに付けた額宛て。左眼の写輪眼で千以上の術をコピーしたとされる上忍、はたけカカシであった。
「イルカ先生、もしかしてAB型?」
「だったら、どうなんですか」
「いやー、いかにもだなって思って」
「血液型は四タイプしかないんです。そんなもので類型的に判断されては困ります」
 イルカは視線を机に戻し、次の仕事にとりかかった。
「類型的って言いますけどねえ、人間の行動や思考のパターンって、けっこう単純なんですよー。たとえば……」
「訂正、終わったんですか?」
 イルカは衝立の方を見もせずに、言う。
「日付や時間を直すだけに、一時間以上かかってますよ」
「あー、いやあ、その……じつは、はっきり覚えてなくて」
 カカシは苦笑いを浮かべた。
「覚えてない?」
 イルカは立ち上がった。つかつかと衝立の側に寄る。
「はたけ上忍」
「カカシでいいですって」
 初対面のときから、彼はそう言っていた。
「では……カカシ先生」
「はい」
「仮にも上忍ともあろう者が、任務遂行中に時間の確認もせず、武具の選択もせず、行き当たりばったりで仕事をしたとおっしゃるんですか」
 直立不動のまま、はっきりとした口調でイルカは言った。瞬時に、事務局全体がしん、となる。
 それはそうだろう。中忍であるイルカが上忍に意見したのだ。軽くて減給、うっかりしたら懲罰房行きだ。
「行き当たりばったりじゃありませんよー。臨機応変と言ってください」
「臨機応変なら、きちんと記憶しているはずです」
「そう言われてもねえ……。ちゃんと任務は果たしたんだから、いいじゃありませんか」
 カカシは心底、困った顔をした。
「事務手続きに関して特例が許されるのは、突発的な事項か、三代目の勅命のみです」
「イルカ先生って、ほーんと、事務局の生き字引みたいですねえ」
 しみじみと、カカシは言った。
 なにが「生き字引」だ。カカシの履歴を考えれば、自分などものの数ではない。なにしろこの男は六歳で中忍になり、十を超えるころには暗部に入り、数限りない任務をこなしてきたのだ。
 そのエリート中のエリート忍者が、イルカの真ん前に立ってひょいと顔を覗き込んだ。
「たまには肩の力、抜きません? そうしないと、いつか馬に踏まれたカエルみたいにグシャッと潰れちゃいますよー」
 なにがきっかけだったのか、自分でもわからない。
 気がついたときには、イルカはカカシの顔を思い切り叩いていた。口布と斜めの額宛てのせいで鈍い音しかしなかったが、手の感触からそれがしっかり頬にヒットしたのはわかった。
 途端に、事務局全体が騒然となった。
 なにしろ、中忍が上忍を公衆の面前で殴ったのである。体術の演習ではない。これはもう、懲罰房どころの騒ぎではなかった。
「あっ……謝れ、うみの。すぐに、はたけ上忍にお詫びするんだ!」
 事務局長が真っ青な顔をしている。それはそうだろう。一歩間違えば、自分の首も危ないのだから。
 イルカはそんな事務局長を冷ややかな目で一瞥した。
 たいへんだよな。本当に。生きるってことは、それだけでたいへんだ。
「申し訳ございません、はたけ上忍。わたくしの監督不行き届きで……」
「そーんなの、どうでもいいよ」
 邪魔臭そうに、カカシは言った。
「それより、イルカ先生、借りてくよー」
 カカシはイルカの腕をがっしりと掴んだ。事務局長は、ただ口をぱくぱくとさせている。イルカは顔色ひとつ変えず、粛々として従った。



二の章へ続く

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