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ついさっきまで激しく揺れていた体が、いまは死んだようにぴくりとも動かない。呼吸のたびに肩がわずかに上下するので、眠っているのだとわかるけれど。 また、無理させちゃったかな。 毛布をずり上げながら、与儀はため息をついた。 このあいだも、そうだった。なかなか放せなくて。もう少し、もう少しだけ、と思っているうちに、篝は気を失ってしまった。 ちゃんと、ふつうに眠れるあいだに、手を放せたらいいのに。でも、それができない。一度触れたら二度、二度触れたら三度。どんどんほしくなって、きりがない。 会えない時間が長すぎた。なんたって、二年と十一カ月と二十日なんだから。もっと細かく言うと、一〇八五日。まさか千日超えるとはねー。 篝の寝顔を見ながら、埒もないことをつらつらと考える。 ずっと、想っていた。篝が篝であると知る前から、ずっと。 先に篝が、くれたから。雪解けの川原で、篝はオレに「アオ」をくれた。見ず知らずのオレに。 あたたかかった。やわらかかった。その服からは、いい匂いがした。人間の体温の匂いが。 服の色は青だった。だから、オレはその服を「アオ」と呼んだ。 だれとも話をしなかった日の夜は、アオと話をした。たくさん人を殺して、だれからも誉めてもらえなかったときは、アオを抱いて眠った。大丈夫だよって、慰めてくれるような気がして。 何年かたつうちに、ぼろぼろになってしまったけど、アオはアオだった。あたたかさもやわらかさも匂いも、オレにとっては宝物だった。 はじめて、もらったもの。なんの見返りもなく、与えられたもの。なにものにも代えがたい、たったひとつのもの。 与儀はそっと、篝の髪に口付けた。 この匂いだ。ずっと自分をあたためてくれたのは。そしてこれからも、ずっとあたためて……。 ふいに、目頭が熱くなった。 涙。悲しいときに、苦しいときに、目の奥から流れ出るしょっぱい水。 最初に泣いたのは、アオを窓から捨てられたとき。 次に泣いたのは、篝が離れてしまうと思ったとき。 それがどうして、いま出てくるんだろう。おかしいな。オレはこのうえもなくうれしいはずなのに。 ぽたり。雫が黒髪の上に落ちた。すっと染み込んで、消えていく。 ぽたり。ぽたり。いく粒もの涙が、同じようにして篝に注がれる。 「ん……」 篝がわずかに、眉を寄せた。指先がぴくりと動く。どうやら、起こしてしまったらしい。 「あ……ごめん」 思わず、あやまった。あわてて涙をぬぐう。 篝はゆるゆると顔を上げた。まだはっきりとは意識が覚醒していないのか、しばらくのあいだ、ぼんやりとこちらを見ていた。 焦点の定まらぬ、潤んだ目。なんとも言えず、艶めいている。 ダメだぞ。 自分に向かって、必死に言う。今日は、もうダメだ。篝はあした、夜衛勤務なんだから。 「どうか、したんですか」 ようやく、篝が言葉を発した。ひどく掠れた声で。 先刻までのあれこれが脳裏をかすめる。自分の下で、あるいは上で、篝はこの声を散らしていたのだ。 だーかーらー……ダメだって。 自分で突っ込みを入れる。与儀は大きく息をついた。 「与儀?」 「んー。べつに、なんでもないよー」 「でも、涙が」 「へ?」 ちゃんと拭いたはずだけど。 「なにかあったんですか」 手がのびてきた。体温。篝の、生きている証し。 ああ、もう、いいや。篝には悪いけど。……篝が悪いんだからね。 ばっと毛布を蹴って、与儀は篝を組み敷いた。驚いたような顔。でも、もう遅いよ。 「くれるんでしょ?」 否と言わないのを百も承知で、訊く。篝はじっと与儀を見つめた。 「目が……」 「え?」 「赤いですね」 赤い? そりゃ、さっきこすったから……。それがなんなのだろう。篝の言葉の真意が掴めず、与儀は首をかしげた。 「……いいですよ」 ひっそりとした声。それが自分に対する答えであると気づくのに、数秒かかった。 篝の手が力なく肩にかかる。与儀は篝の体を呼び起こすため、首筋に唇を近づけた。 結局、ガマンできなかったけど。でも、だいぶセーブした。 ほんとは、もっといろいろ動きたかったし動いてほしかったけど。声も聞きたかったけど。 これ以上、わがまま言うのはやめよう。篝はいつだって、オレのいうことを聞いてくれるんだから。 「……悲しい夢でも、見たんですか」 うつらうつらとしながら、篝は言った。もう半分は眠っているだろうに。 「ちがうよ」 短く、否定した。 「悲しいこともあったけど、いまはすっごくしあわせだなーって思って。そしたら、なんでだかわかんないけど、涙が出てきてさー。ヘンでしょ」 「変じゃ……ないですよ」 うっすらと、篝は笑った。 「よかったですね」 「え?」 「うれしいときに、泣けて……」 消え入りそうな語尾。与儀は目を見開いた。 そうか。人間って、うれしいときにも泣くものなんだ。 『よかったですね』 うん。よかったよ。篝に喜んでもらえたんだもの。 あ、まただ。 じん、と目の奥が潤む。 「篝……」 静かな寝息が聞こえてきた。もう起こしてはいけない。与儀は毛布にくるまった。 涙がこめかみを伝って落ちていく。あたたかな、やさしい涙が。 これも、あんたがくれたもの。あんたがくれた、心の雫。 その雫に洗われて、記憶の中の暗く冷たく哀しいものが、どんどん溶けていくような気がした。 (了) |