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青の碑 by近衛 遼
懲罰房から出てきた次の日に、与儀は「アオ」を土に還した。
『アリガトウ』
『サヨナラ』
ふたつの思いをこめて。
しばらく行李の中に入れっぱなしにしていたせいで、アオにはカビがはえていた。洗濯をして半日ばかり干したあと、部屋の窓から見える場所に穴を掘り、そこにきちんとたたんだアオを入れた。土をかけるとき、ほんの少し迷ったらしい。でも。
「ちゃんとお別れしなくちゃ、って思ってさー」
そのときのことを思い出したのか、与儀は視線を宙に飛ばした。
与儀にとって、アオはシェルターだった。つらいとき、苦しいときに逃げ込むための。
しかし、それは結局は幻影でしかない。いつまでたっても。どこまで行っても。
そして与儀は、幻と決別した。
その話を聞いたのは、与儀と篝が南館に引っ越した日のことだった。
三年ぶりに再会した与儀は、御影の中で燭や飛沫に次ぐ地位を確立していた。篝が与儀の「水鏡」となってからは、ますます信頼性が高まったらしく、指揮権を持つ者のみが住む南館に移ることが決まったのは、夏のはじめのことだった。
南館の部屋は、広かった。寝室と控えの間、小さな台所に厠に浴室までついている。
寄宿舎というよりは、借家の一室みたいだな。篝は室内を見回して、そう思った。
「ねえねえ、篝」
荷解きもそこそこに、与儀がうしろから抱きついてた。
「お風呂、一緒に入ろうよー」
にこにこしながら、続ける。
「ここなら、ほかのやつらもいないし」
心なしか不穏な匂いはするが、それもまあいいだろう。ため息まじりに、篝は「いいですよ」と返答した。
ゆっくりと……本当にゆっくりと風呂に入ったあと、篝は倒れ込むようにして夜具に横たわった。
目眩がする。耳鳴りがする。全身がだるい。とくに下半身が。
わかってはいたが、与儀は浴室を出るまで待ってはくれなかった。湯船の中で体を作られ、昂められ、貫かれた。いつもとは違う感覚。天井に響く声も、むろん常とは異なる。倒れる寸前に、与儀はようやく篝を解放してくれた。
「篝ー。水、持ってきたよ」
目の前に、コップが差し出された。なみなみと注いできたのか、いくらかこぼれて夜具を濡らしている。
「あれ、起きられない?」
「……ええ」
まぶたの裏に銀色のものがちかちかしている。
「ごめんねー。ちょっと長引いちゃったから」
どこが「ちょっと」だ。もう少しというところになってから、さんざん焦らしたくせに。もっとも、それがあったから、自分も痺れるほどの悦楽を味わうことができたのだが。
いつも、そうだ。この男は限界まで求めてくる。そして自分もそれに応えてしまう。ときには、こちらもさらに多くを欲して。
互いに熱を出し切らないと、落ち着かないのかもしれない。なにもないところから始めたふたりだから。
そっと、あごに手がかけられた。薄く目を開ける。金色に輝く瞳が、すぐそこにあった。
濡れた唇が押しつけられた。流れ込んでくる液体。ごくり。喉元を通り過ぎていく。
「飲めた?」
うれしそうに、与儀が訊いた。
「もうひと口、どーぞ」
同じことが繰り返され、篝は目を閉じたままそれを受けた。
まずいよな。そう思う。こういうことをしているうちに、きっとまた……。
わかっていた。十分に。それでも、やはり自分は受容するのだろう。この男のすべてを。
「篝……」
声。甘えるような、ねだるような。
いいですよ。
言葉のかわりに、深く唇を繋いだ。
その話を聞いたのは、眠りに落ちる直前だった。懐かしそうに、与儀は言葉を紡いだ。
「ちゃんとお別れしなくちゃ、って思ってさー」
どれほどの勇気が要ったことだろう。たったひとつの支えだったものと決別するのは。
土に汚れて、よすがとしていた匂いが失われていたとしても。それでも「アオ」は、そのときまで与儀にとって特別な存在だったのだから。
アリガトウ。
サヨナラ。
それが、言えたんだな。
「あれえ、どしたの」
与儀の指が頬に触れた。なんのことだか判然とせず、篝は顔を上げた。視界が歪んでいる。
「あ……」
涙。その向こうで、与儀が首をかしげている。
「オレ、なんか悪いことでも言った?」
「……いいえ」
うれしくて。
あのときすでに、与儀がそれほどまでに心を決めていたなんて。
自分は驕っていた。思い上がっていた。与儀を導くことができるなどと、一瞬でも思ったのだから。
愛すればいい。ほかにはなにも要らない。
この男は自分で道を見つけるだろう。愛することを、愛されることを知ったから。
不安げに、与儀がこちらを見ていた。篝は与儀の手をとった。そっと、てのひらに口付ける。
愛している。愛している。愛している……。
眠りが訪れるまで、篝はその言葉を繰り返していた。
(了)
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