愛?のカレンダー by近衛 遼 その日、社銀生はカレンダーの前でピンクの蛍光ペンを構えていた。 「ねえねえ、藍さん。今日は残業、あります?」 「いまのところ、ないです」 「持ち帰りの仕事は?」 「たぶん、ありません」 「あしたは公式行事は入ってないし、と」 めずらしく、スケジュール帳を確認する。 「……じゃ、今夜、いいですよね?」 思いっきり期待を込めたまなざし。 ばかばかしい。朝っぱらから、どうしてこんな「打ち合わせ」をしなくてはいけないんだ。たしかに、それらの条件を呑んだのは自分だが。 桐野藍は小さくため息をついた。 事の起こりは、昨夜のこと。 藍はやり残した仕事を抱えて、帰宅した。本当はオフィスで片付けてしまいたかったのだが、昨日は食事当番だったので、仕方なく書類を持ち帰ったのだ。 「あ、おかえりなさーい」 一足さきに帰っていた銀生が、台所から顔を出した。 「早かったんですねえ。今日は残業かと思ってましたよ」 終業間際に参謀室から書類が回ってきたことは、銀生も知っている。 「ちょうどよかった。腹が減ったんで、いま、ラーメンを作ろうと思ってたんですよ〜。藍さん、何味がいいですか? 『本場の味』シリーズの生ラーメン。『濃厚とんこつ白湯』と『さっぱり海鮮しお味』と『辛味噌たっぷりバターコーン』と『鶏がらコクしょうゆ』と、あとは……」 いったい、いくつ買ってきたんだ。 「具もねー、イロイロあるんですよ。『ラーメンに最高なチャーシュー』とか『これで満足!豚の角煮』とか『黄身トロ煮卵』とか『クセになるメンマ』とか」 どうして、こう変わったネーミングのものばかり買ってくるのだろう。碧もよく名前につられて、わけのわからない商品を買ってくるが。 「で、どれにします?」 ずい、と顔を寄せて、銀生。 藍はぐっと唇を結び、商店街で買ってきた食材を調理台の上に置いた。 「ラーメンは、けっこうです。いまから夕食の準備をしますから、しばらくお待ちください」 台の上に広げられたラーメンの袋を脇へどける。 「えー、いまからですか? 俺、もう腹ペコなんですけど」 「今日の食事当番は、おれです」 「それじゃあ、藍さんがラーメン作ってくださいよ。俺、『濃厚とんこつ白湯』がいいなー」 冗談じゃない。せっかく商店街で夕飯の材料を買ってきたのに。だいたい、二日続けてラーメンなんてご免だ。 「きのうもラーメンだったでしょう。同じものばかり食べていては、栄養が偏ります」 「きのうは『麺の王様』シリーズの『王道担々麺』でしたよ〜」 「『麺の王様』だろうが『本場の味』だろうが、ラーメンであることに変わりはありません!」 ぴしり。藍は調理台を叩いて、宣言した。 「三十分以内に食事が食べたければ、即刻、台の上を片付けてくださいっ」 今夜は鍋料理の予定だ。米さえ炊ければ、三十分後には食卓に着ける。 猛然と白菜や大根や春菊を切り始めた藍を後目に、銀生はこそこそとラーメンやチャーシューなどを冷蔵庫に仕舞った。 そして、二時間ばかりのち。 滞りなく夕食は終わり、藍は鍋や茶碗を洗っていた。さっさと食事を済ませて持ち帰ってきた仕事にかかりたかったのだが、銀生が「どうせなら、うどんだけじゃなく餅も入れましょうよ〜」とか「シメはやっぱり、雑炊ですよねえ」などと細かい注文をつけてきたため、予想以上に時間がかかってしまった。 ここを片付けたら、今日の当番は終わりだ。藍は布巾をすすいで、流し台の横に干した。よし、完了。 台所の明かりを消して、自室に向かう。いざ書類を広げようとしたところに、子泣き爺のように背中に引っ付いてきた男がいた。振り返って確認するまでもない。銀生である。 「お風呂、わいてますよ」 まるで睦言のように囁かれ、藍はじろりと横をにらみつけた。 「お先にどうぞ。おれはまだ、やることがありますんで」 「そんなの、あとでもいいじゃないですか。一緒に入りましょうよ」 「これは、明日提出しなければいけないんです」 「藍さんなら、お風呂に入ってからでも間に合うでしょ」 風呂だけだったら、な。藍は心の中でうそぶいた。この男の魂胆は見え見えだ。風呂場で仕掛けて、そのまま奥の間になだれ込む気だろう。そうはいくか。 「この書類は、書式が複雑なんです。正確に書かないと参謀室からクレームが来ます」 「クレームぐらい、べつにどうってこと……」 「罰金や減俸の処分が下されてもいいんですか?」 「うーん、それはちょっとイヤかも」 「だったら、邪魔をしないでください」 「仕事が終わったら、俺のこと、構ってくれます?」 「約束はできません」 「そんな〜。俺、いい子で待ってますから」 なにが「いい子」だ。以前、似たようなことを言っておきながら、仕事の最中に押し倒したくせに。 あのときは、書類が反故になるんじゃないかと気が気ではなかった。公文書の破損や汚損は罰金の対象になるし、書き直す手間も膨大だ。 とにかく、仕事中、この男が部屋に入ってこないようにしなくては。 「では、はっきりと申し上げます」 「はあ、なんです?」 「今日は、無理です」 「ええーーーっ。きのうもダメだったじゃないですか。その前は藍さん、出張だったし……俺たち、もうずいぶん『ごぶさた』してるんですよ?」 「それが、なにか?」 「なにかって……俺と藍さんは『対』でパートナーで同居人でコイビトなわけですから、やっぱり夜の営みもそれなりに……」 「それなり」が「あれ」か。藍は前回の「営み」を思い出して嘆息した。さすがに徹夜とまではいかなかったが、なんだかんだとけっこうねばられて、就寝したのは丑三つ時をとっくに過ぎたころだった。 「無理なものは、無理です」 ふたたび断言する。 「藍さ〜ん、俺と仕事と、どっちが大事なんですか」 「仕事に決まってます」 「あーっ、藍さんたら冷たい〜」 「忙しいときにばかり、そういう話をするからです」 「そんなこと言ったって、藍さん、いっつも忙しそうじゃないですか。いつだったら、二つ返事でオッケーしてくれるんです?」 だれがするか、そんなこと。 もう少しで出かかった言葉を、なんとか意志の力で封じ込める。そこまで言ってはいけない。自分がここにいるためには。この男の側に、居続けるためには。 「残業がなくて、持ち帰りの仕事がなくて、家事当番のない日で、体調が良好で、碧が外の任務に出ていないときなら、いいです」 考えうる限りの条件を羅列する。銀生は大きく頷いた。 「じゃ、あしたの家事当番、ぜーんぶ俺が引き受けます!」 ヤル気満々である。藍はあわてて、もうひとつ条件を追加した。 「翌日に公式行事のある日は、困ります」 気力体力ともに消耗した状態で、公の場に出るのは避けたい。 「わっかりましたー。ちゃーんと調べて、該当する日にマルつけておきますね〜」 鼻唄まじりに、銀生が引き上げていく。 とりあえず、「勝利」だな。藍は深く深呼吸して、目の前の書類に視線を移した。 それが、昨夜のこと。そして、いま、銀生は満面に笑みを浮かべてカレンダーの今日の日付に大きくハートマークを書いている。 丸をつけるだけならまだしも、ハートマーク。しかも、蛍光ピンクだ。 「晩ごはん、ご馳走たーっくさん作りますからね〜。うーん、楽しみだなー」 やたらと盛り上がっている。機嫌がいいのは結構だが、テンションが高すぎるのは問題だ。ハイな気分のまま、あれやこれやと要求されてはたまらない。 なんとか、残業に持ち込めないものか。藍は考えた。総務部にかけあって、来週の定期報告会の日程を繰り上げてもらえば、その資料作りが三課に回ってくるだろうから、居残りできるんだが。 なおもウキウキとした様子で朝食の後片づけをしている銀生に、「先に行きます」と声をかけ、藍は家を出た。 参謀室に出向いたついでに、室長の伊能に打診してみよう。理由はなんでもいい。来週は忙しくなりそうだから、事務の仕事は早めに済ませたいとかなんとか……そのあたりは適当に。 昨日、自分は参謀室からの急な依頼を引き受けている。その書類はもう完璧に仕上がっているから、今度はこちらの都合も少しぐらいは考慮してもらえるだろう。 夜半までかけて書き上げた書類を抱えて、藍は職場へと向かった。 その夜。銀生はカレンダーの横で半ベソ状態(どうせ嘘泣きに決まっている)になっていた。 「藍さ〜ん。またお預けなんて、ひどいですよおー」 「急に残業することになってしまったんだから、仕方ないでしょう」 「でも、俺、ちゃーんと家事全部やったのに〜」 「予定は未定であって、決定ではありません」 「そんなあ。じゃあ、あしたは?」 「わかりません。報告会の資料がまだ三分の一ばかり残ってますし」 にこやかにそう言って、カレンダーの蛍光ピンクハートマークの上に、真っ黒な油性ペンでひときわ大きく×印をつける。 「あああああーーーーっっ。俺と藍さんの愛の約束が〜」 情けない叫びを背に、藍は今日も勝利を実感した。銀生が密かにリベンジを計画したのは、言うまでもない。 ……to be continued? |