*ゴキブリネタです!苦手な人は御回避ください!




 かさり。
 その物体が動く音を聞いた時、桐野藍は全神経を研ぎ澄ませた。スリッパ片手に集中する。そこか。
 バシン!
 間髪入れずに藍はスリッパを振り下ろした。一撃必殺。相手は瀕死の重傷だ。
 ピクピクとケイレンするそいつの足を、桐野藍は瞬き一つせずに見つめていた。




愛?のコッ○ローチ  
by(宰相 連改め)みなひ




 話は昏と碧が一緒に暮らし始め、ほぼ同時期に銀生と藍が暮らし始めて二ヶ月を過ぎた頃に遡る。
「碧。今日、うちにこないか?」
 ある平穏な昼下がり。特務三課主任、桐野藍が義弟桐野碧に尋ねた。
「夕食、なんでもおまえの好きなものをつくってやるぞ」
「えっ、ほんと?」
 特務三課ルーキー、桐野碧は即座に反応した。さすが食欲星人、タダ飯には弱い。
「本当だ。じゃ、決まりだな」
「あ、待って」 
 決定に持ち込もうとした藍に、碧は待ったを掛けた。珍しいぞ碧、いつもは考えないで返事するのに。
「なんだ?」
「うーん、おれは行きたいんだけど、昏が嫌がるかも。それに、藤おばちゃんが今日は茶碗蒸し作るって言ってたし」
 かわいく小首を傾げながら、碧は答えた。現在弁当を買いに行ってる相棒が気になるらしい。ぴきり。藍のこめかみに青筋が浮く。断わるのか碧。奴のことなど放っておけ。茶碗蒸しくらい、おれが作ってやる。
「それよりさ兄ちゃん、どうしてなの?」
 密かに怒る藍に、質問返しがきた。藍はぐっと息を詰める。
「・・・それはだな、普段おまえが何を食べているかわからないから、たまには精のつくものをと・・・」
「だって、いつもは週末に誘うじゃん」
 素朴な突っ込みに藍はまた息を詰めた。確かに今まで碧を自宅(とはいっても、もとは同居人、社銀生の家なのだが)に招いたのは、休日前ばっかりだった。それはゆっくりくつろげるようにとの配慮と、奴と二人っきりの時間を少しでも減らしてやるとの策略からだったが。 
「そんなことはどうでもいい!碧、来るのか来ないのか?」
 急に、逆切れよろしく藍は言った。明らかに態度がおかしい。焦っているのか?
「えー、兄ちゃんなんで怒ってるんだよっ。じゃあ行かないっ」
 ぷくりと頬を膨らませ、碧は藍に宣言した。藍はむすりと口を結ぶ。低く「わかった」と告げ、すたすたと藍はオフィスの出口に向かった。扉の前で立ち止まる。
「総務部に行ってくる。打ち合わせで遅くなるから、今日は時間になったら戸締まりして帰れ」
 ぼそりと言葉を残し、桐野藍は特務三課のオフィスを出て行った。後には桐野碧一人が残る。
「なーんか、藍さんらしくなかったですねぇ」
 今まで碧しかいないと思われた空間に、一人の男が現れた。特務三課課長、社銀生である。
「あれ銀生さん、出張じゃなかったの?」
「出張だったよ?愛する藍さんのために、さっさと片付けて帰ってきたのよ〜」
 へらりと顔を緩めながら、社銀生は言った。
「しかしさ、藍さんいつもカリカリしてる方だけど、さっきは更にいらだってたねぇ」
「うん。ギャーギャー喚かないのも変だったよな」
「平日にお前を家に呼ぶって、よほど来て欲しかったのかねぇ」
「うーん、ああいう感じの兄ちゃんって、どこかで見たような・・・・・・って、あれかな?」
 腕組みをしていた碧が、ぽんと手を打った。何か思いついたらしい。
「なんなの?」
「あのさ、銀生さんちって食べ物いっぱいあるよね?」
「もっちろん!特に今週は一文字屋の大感謝祭だったから、せんべいがたーっぷりと・・・」
「ふーん、じゃあ、アレも出るか」
「はあ?」
 うんうんと一人納得顔の碧に、社銀生は首をひねった。アレ?それってなんだ?
「実は藍兄ちゃん、一つだけ苦手なものがあるんだ」
「ふうん、苦手なものねぇ・・・」
 ずいと銀生は乗り出した。顔はにっこり、嬉しそうである。ごそりとポケットに手を入れて。
「教えなさいよ」
 部下桐野碧の掌に、ポンと『八花亭』のチョコが置かれた。


 夕刻。
 社邸の台所の片隅で、桐野藍はその物体と対峙していた。こいつを仕留めたのは今朝、そろそろ死骸を片付けねば。
 意を決し、藍は右手を伸ばした。物体の上にかぶせていた、新聞紙を持ち上げる。
 やっぱりいた。
 その物体は朝と変わらず、新聞紙の下に鎮座していた。当たり前である。確実に絶命はさせたのだ。
 早く片付けないと。あの男が帰ってきたら厄介だ。
 それは藍にもわかっていた。しかし、アレを処理しようとする度、伸ばした手が止まる。正直、嫌なのだ。
 悔しい。どうしてたかが昆虫ごとき、処分できないのだ!
 ぎりり。桐野藍は奥歯を噛み締めた。屈辱。藍はその物体を殺すことはできる。しかし、触れないのだ。新聞紙ごしでも箸でつまむのも不可能。生理的嫌悪感に身が竦む。
 すべては、あのことさえなければっ。
 藍は彼を襲った、ある事件を思いだした。
『藍、お風呂に入りましょう』
 その日も藍は母と共に、入浴することになっていた。服を脱がせてもらい、風呂場に入る。
『さあ、お湯かげんはどうかしら』
 言いながら母が風呂の戸を閉めた時、何か黒いものが飛び立った。ぴたり。同時に藍は、顎の辺りに何かを感じる。
『きゃああああああーーーー!』
 劈く母の悲鳴。ばしりと叩かれた痛み。三才児桐野藍の柔肌に、その黒い虫はとまったのだった。
 あれから。
 藍はその虫だけは苦手になってしまった。虫に対する憎しみから、殺すことは難なくできる。が、しかし。その死骸の処分ができないのだ。近づくだけで感じる恐怖。ぬぐい去れない。碧や斎たちと住んでいる時は、彼らに処理を頼んでいた(押しつけていた?)。だけど。
 この家には藍と、奴しかいない。奴に処理を頼むなど、まっぴらごめんだ。そんなことをしたら、何を要求されることか。だったら放置しておけばいいのだが、自分が食事当番の時に、この虫を出したと思われるのも不愉快だ。
「何してるんですか〜?」
 どきり。悩みこむ藍の背後で、声がした。嫌でもわかる声。あの男だ。
「ああ、ゴキブリですか。そんなの新聞紙にくるんで、さっさと処分しちゃってください」
 ピラピラと片手を振って、銀生は言った。唇を噛み、藍は見上げる。それができれば、どんなにいいか。
「・・・・・・・」
「どうしたんですか?早くやっちゃってクダサイよ」
 睨みつける藍に、銀生は促した。心なしか嬉しそうな表情。畜生。人ごとだと思って。
「・・・・あの」
 ぽろりと出てしまった。その虫を怖れる藍が漏らす。ダメだともう一人の藍が止める。二人の藍が今、藍の中でせめぎ合っている。
「なんですか〜?」
 ずい。銀生が覗きこんできた。
「・・・・・なにも」
「じゃあ俺、向こうに行ってますね」
 くるり。銀生が背中を向けた。すたすた、立ち去ろうとしている。台所の板の間が、終わる。
「社課長」
 思わず零れた。
「はい」
 銀生が振り向く。切れ長の一重が、この上もなく細められられて。
『選ぶんだ藍』
 頭の中で、誰かが言った。
『この男かゴキブリか、二つに一つ』
 拳を握り、藍はある取り引きを銀生に持ちかけた。


 ホウ酸ダンゴを、作っておくんだった。
 その行為の最中、藍はずっとその思いに囚われていた。あの虫はどこにでもいる。これだけお菓子やらなんやらある、しかも屋敷の主がそれをボロボロ落として食べているのなら、あの虫を発見しても仕方のない状況だったのだ。やはり予防は大切。掃除と害虫駆除はまめにしなくては。
「ステキでしたよ」
 肩口に、ゴキブリを処理した男が口づける。僅かに、反応する身体。
「いつでも言ってくださいね。あれ位、お安い御用です」
 奇麗に微笑む銀生を、藍はじろりと睨んだ。こんなこと、今回限りで終わりだ。二度と口にするものか。
 立てるようになったら即、薬局だ。銀生の腕の中で、桐野藍は固く心に決めた。

 
 翌日の午後。
 桐野藍はその日の欠勤届けを提出し(実際、出したのは銀生だが)、商店街の薬局に足を運んだ。
 新製品だという処理した害虫を泡で包み込むスプレーと、ホウ酸を買ったとか買わなかったとか。すべては未確認情報である。


 ああ愛?のコッ○ローチ。
 虫よりマシなの、あの人は。


おわり

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