その日、夕餉の終った社邱では、主である社銀生が雑誌片手に語っていた。




愛?の足裏マッサージ  
by(宰相 連改め)みなひ




「というわけでね。つまり、『足は第二の心臓』なのよ。わかる?」
「わかんない」
「え〜?どしてよ」
「だってしんぞーはひとつっきゃないじゃん。学び舎でならったもん」
 えへんとばかりの口調で、桐野碧が銀生に言い返している。台所でそれを聞いていた藍は、食器洗いの手を止めた。ふと思い出に浸る。心臓は身体に一個。解剖学十九点の碧に、それを覚えさせるのに何時間かかったことか。
 碧、よく覚えていたな。えらいぞ。
 義弟がその知識をまだ覚えていることに、拍手したい藍だった。
「だからー、それは比喩よ。比喩」
「ひゆ?なにそれ」
「例えのこと」
「あ、そっかー」
 碧、もう忘れたのか。
 桐野藍はがっくりした。言葉の意味はもちろん、比喩の「比」も「喩」も藍が懇切丁寧に教えたはずだ。たしかに「比喩」の「喩」は上手く字のバランスが取れなくて、碧には最後まで書けなかったけれど。
「とにかくね、『百聞は一見にしかず』って言うでしょう?足、出しなって」
「何すんの?」
「足裏マッサージよ。お前、今まで何聞いてたの?ほら、靴下脱いで」
「靴下脱ぐの〜?面倒くさいよ〜」
 銀生の言葉に碧が文句をたれた。藍は頷く。そうだ碧、あんなやつに足なんか揉ませるな。
「騙されたと思ってやられてみな。『八花亭』のチョコ、買ってやるから」
「ちょこれいと?やったー!んじゃ、はい」
 ドンという音がして、碧が足を投げ出したらしい。藍は情けなくなる。悲しいぞ碧、チョコくらいおれが買ってやる。
「それじゃ、いくよ〜」
「うん」
「これで最後だ」
 銀生と碧の会話に全聴力を傾ける藍に、ぼそりと声が投げられた。じろりと目をやる。漆黒の無表情な瞳。食器を手にした昏だ。
「そこに置け」
 目で指示する。昏は流しの横に食器を置いた。
「後は何だ?」
「わからないのか!」
 桐野藍は声を荒げた。黒髪の部下を睨み付ける。だいたいお前が碧にチョコを買ってやらないから、碧がチョコごときで懐柔されるのだ。
「食器を全部引きあげたのならば、次は食卓を拭け!」
 その程度のことで怒る必要はないと思うのだが、桐野藍には通じない。相手は昏、かわいい碧を略奪していった(と、藍は思っている)、無礼千万な奴なのだ。
「なら、渡せ」
「何?」
「お前が先に手渡すのが、筋というものだろう」
 右手を藍の目の前に出し、昏一族の男は言った。藍は眉を顰める。略奪者は表情を変えずに語を継いだ。
「濡れ布巾を渡せと言っている。食卓を手で拭くことは無意味だし、乾拭きだけでは汚れが落ちない」
 桐野藍は唇を噛んだ。布巾掛けは藍の左側にある。藍の右側に位置する昏が布巾を取るためには、藍を押しのけねばならない。それに。流しは今、藍が使用している。
「もっていけ」
 射殺しそうな視線とともに、藍は濡れ布巾を昏に渡した。昏がそれを受けとり、座敷へと消えてゆく。銀生と碧が迎えた。
「い〜所に来たよ。足裏マッサージ、お前もどう?」
「昏もやってみろよ。全然痛くないし、けっこう気持ちよかったぜ」
「俺はいい。食卓を拭いたら家に帰るぞ」
 能天気な二人の誘いを、昏はばっさり切り捨てる。桐野藍はパキリとコップを割った。自分だって足裏マッサージを断るだろうに。しかし、怒りの観点が違ったのだ。

 許せん。
 誰が帰っていいと言った。
 帰るならお前一人で帰れ。
 
 桐野藍は思った。碧とてここにいたい筈なのだ。義弟はまだ、義兄であるおれとゆっくりしゃべってない。けれど・・・。
「うんわかった。もうメシ食ったしな。眠くなってきたよ〜」
 義弟は虚しいくらいにあっさりしていた。藍はコップの欠け片をぽろりと落とす。あんまりだ碧、兄ちゃん悲しいぞと。
「食卓は拭いた。これで後片づけは終ったはずだ」
 かがんで欠け片を拾う藍に、布巾を差し出し昏は言った。
「碧を眠らせねばならない。俺達は帰る」
 本当に眠らせるんだろうなと布巾をひったくる藍に、さあなと昏は不敵に笑った。


「藍さん、おつかれさまでーす」
 ようやく台所を片づけ藍が座敷に入ると、ゴロンと寝ころんだ銀生が迎えた。両手には月刊誌「健康スクラム」が広げられている。
「ねえねえ、藍さんも如何ですか?足裏マッサージ。身体にいいらしいですよ」
『特集:足裏マッサージ』の頁を開きながら、銀生が擦り寄ってくる。正座した藍は、一瞥して言った。
「結構です」
「ええ〜、藍さんの為に覚えたのに〜。ちょっとだけでもやってみません?」
「必要ありません」
「でもね。本当に効くんですよ?確かに、痛い場合もあるみたいですけど。手加減しますから、ね?」
 びきり。桐野藍は青筋をたてた。馬鹿にするんじゃない。痛みを怖れているわけではないのだ。自分とてエージェントのはしくれ、拷問訓練だって経験している。
 藍は銀生を睨み据えた。きゅっと唇を結び、ドンと右足を銀生の前に出す。
「わかりました」
「へ?」
「してください」
 藍は宣言した。銀生が嬉しそうに微笑む。手の雑誌を脇に置いた。
「じゃ、座ったままじゃやりにくいですから、うつ伏せで寝て頂けます?」
「こうですか?」
「そうそう」
 藍は言われた通りにした。銀生が藍の足を取る。「いきますよ〜」と声が掛けられた。
 何が「手加減します」だ。
 たかが、マッサージじゃないか。
 そうタカを括っていた藍の下肢を、次の瞬間何かが駆け抜けた。
「!・・・・・く・・・・う・・・」
「ほら、気持ちいいでしょう?」
 気持ちいいなんてもんか!痛い。ものすごく痛い!
「・・あ・・・ぎん、せ・・・」
「うーん、ここら辺がこってますねぇ。ここは消化器官全般なんですよ。ほぐしときます」
「!!」
 銀生の台詞と同時に、更に痛みが増強した。痛い。痛すぎて声が、でない。
「んん、ん!んん----------!!」
 桐野藍は首を振った。なんとか痛みから逃れようとする。けれど。
 彼の右足は、銀生にがっちり握り込まれていた。
「んん、あ、はっ!」
「やだなー藍さん、そんな色っぽい声出しちゃダメですよ。そそられちゃう」
 そんなもん出してないっ!痛い。おれは痛みに苦しんでるんだ! 
「じゃ、サービスです。こっちも揉んじゃおうっかな」
 そろりと内股に銀生の手が回る。片手で足の裏押されてるだけなのに、どうしておれは抵抗できないんだ-------------------っ!!
「あ、いいこと考えちゃった。術でツボ部分圧迫すれば、じっくりこっちを楽しめますね」
 するりと腿の手が離れた。数秒後。足の痛みはそのままに、二つの手が身体にまとわりついてきた。
「んー!・・・く・・・・んんんっ!」
「うれしいですよ。藍さんにこんなに喜んで頂いて。俺、がんばりますね」
 痛みとなんとかの刺激。双方が強すぎ且つ混じり合って藍を襲う。何がなんだかわからない感覚の中、桐野藍は足掻き続けた。

 
 翌日、桐野藍はここ数日彼を悩ましていた胃痛が消えていることに気付いた。銀生は消化管の部分を重点的に揉んだと言っていたから、マッサージの効果が出たのかもしれない。だが。
 藍はその日から半月間、銀生の誘い(と、哀願)を黙殺した。
 なぜなら、その日の藍は胃のみが健康であり、後の部分は全身、不健康と言えたから。

 ああ、愛?の足裏マッサージ。
 人によっては地獄の痛みよと。


おわる

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