一片の冷奴を前に、彼は固まる。
 特務三課主任、桐野藍は、口内に五つの口内炎を抱えていた。




愛?の口内炎  
by(宰相 連改め)みなひ




「藍さん。この冷や奴、『豆の屋』の絹こしですよ。朝六時に西町通りへ買いに行きました」
 にこにこと上機嫌の笑みを浮かべながら、彼の情人にして同居者、社銀生が飯をよそう。
「みそ汁は藍さんの好きなワカメだし、漬物は『壺ノ屋』、海苔は『海鮮屋』の焼き海苔です。ささ、どうぞ」
 ほかほか湯気の立つご飯まで差し出され、藍は嫌々茶碗を取った。口内炎は唇の裏に三つ、舌の横に一つ、そして舌のつけ根に巨大なものが一つ存在していた。
 馬鹿野郎。いらねぇよ。
 心の中で藍は毒突く。しかし銀生には伝わらない。ならば、口を開いて告げればいい。けれど、舌のつけ根で噴火口のように開いたヤツが、それを許してくれない。しゃべれば口内炎に歯が当たり、堪えがたい激痛をかもし出すのだ。
 畜生。なんでこんな日におれの好物ばかり。
 それも藍の怒りを引き出す。「豆の屋」の絹こしの噂は藍も知っている。「こだわりウォーカー・和の国編」で紹介され、「食の匠」コンクールで金賞を受賞した一品。毎日限定百二十個しか作らないその豆腐は、和の国でも一部の人にしか許されていない味だった。はっきり言って、藍だって食べたい。もしこれが普段の日であったのなら、これを買ってきた男にちょっとくらいつき合ってもいいかと思ってしまったかも知れない。
「藍さーん。どうしたんですか?美味しいですよ?」
 とぽとぽ。豆腐に醤油がかけられた。びきり。藍の額に青筋が立つ。まだ醤油をかける前なら、そろそろと食することができたかも知れない。だが、もうダメだ。
 醤油なんてかけたら、沁みるじゃないか!
 藍は無言で激怒した。ならばさっさと食べたらよかったんじゃないかという気がしないでもなかったが、彼にその言葉は聞こえない。いや、言っても更に怒りを煽るだけだ。
「あ、生姜を忘れてました。ミョウガがいいです?さ、ぐっといってください」
 喜色満面な顔で、目の前の男が生姜を盛る。藍の殺気は全開だ。
「やだなー、藍さんったら朝から殺気だして。そんなにうれしいなんて〜」
 てれてれと照れながら、社銀生が豆腐を食う。彼の『豆の屋』の絹こしは、あっという間になくなった。ぎりり。歯ぎしりをしながら藍は睨む。それを見つめ、銀生はかくりと首を傾げた。 
「あれー?藍さん、食べないんですか?」
「・・・・・です」
 口が痛いんです。そう言ったつもりだった。その言葉さえも、口の中の奴らが打ち消してしまう。
「そうかー、キライでしたか。んじゃ俺、頂きますね」
 銀生の箸が藍の豆腐を狙った。なんだと?おれの分まで食うつもりか! 
 ごくり。
 桐野藍は豆腐を丸のみした。絹こしの滑らかさも、豆の味も、彼の味覚中枢には伝わらなかった。ただ彼が感じたのは、口内炎に醤油が沁みる痛みだけ。
「なんだー、藍さんの意地悪。わざと俺に狙わせたんですね?」
 銀生が勝手に思いこんでいる。意地悪にされてしまった。そりゃ、藍とて時々(しょっちゅうではないか?)銀生をこらしめる(あくまで藍は指導だと思っている)ことはあるが、意地悪などという低俗なことはしていないつもりだ。
「愛のコミュニケーションですね?嬉しいですよ」
 ばしゃり。
 桐野藍がみそ汁にご飯を突っ込んだ音だった。ぐりぐり。みそ汁がこぼれるのも気にせず、みそ汁かけご飯ならぬご飯突っ込み汁を掻き混ぜる。
 ごくり。ごくり。ごくり。
 それは、桐野藍がご飯だらけの汁を飲み干す音だった。といっても全く咀嚼なしで飲み込める訳ない。もぐもぐと口を動かすたびに、舌に、唇の裏に、舌のつけ根に激痛が走る。みそ汁の塩分も涙をさそう。いつしか、桐野藍は目を潤ませていた。目の前の社銀生が、『藍さん涙ぐんでる。イイなぁ』とか勘違いしている事にも気付かず。藍は根性一本で、朝食を乗り越えたのだった。


「ねえねえ、藍兄ちゃん」
「・・・・・・なんだ(小声で)」
「調子悪いの?」
「・・・・ちょっとな(聞こえるか聞こえないかの声で)」
「ひょっとして、やりすぎ?」
「何でそうなる!(思いっきり大声+激痛)」
 叫んで桐野藍は口を押さえた。場所は特務三課オフィス、時間はばっちり勤務中だ。激痛を堪える藍を、義弟桐野碧がきょとんと見ている。
「だって水木ってねーちゃん、違う、にーちゃんが言ってたよ。昨日、斎兄ちゃんにやられすぎちゃって、声が出ないって」
「あいつは何を言ってる!(思いっきり大声+やっぱり激痛)」  
 桐野藍は再び口を押さえた。如月水木。桐野藍の宿敵?かわいい義弟桐野斎を、横から掠め取って行った奴。
 斎も斎だ。何故あんな下品の見本みたいな奴と・・・。
 桐野藍は思いだした。まだ藍は二人の仲を認めていない。(ついでを言えば昏と碧の仲も、だ)ぐるぐる、ぐるぐる。A型環状線は回りだした。その問題は答えが出ないからやめたほうがいいのに。
 ぶつぶつ。ぶつぶつ。桐野藍は呟き始めた。当然、口の中が痛いから、明確な発音ができていない。したがって、回りの人間には何を行ってるのか皆目不明だった。それでも言う。言わなきゃ気がすまない。痛みなんてなんのその。(そのわりには痛がってる)
「つまんないのー。兄ちゃん、何言ってるかわかんないよー」
 桐野碧は藍のそばを離れた。義兄が何を言っているのか、根気よく聞き出す義弟ではない。言わなくてもすぐ伝わる恋人、昏が碧にはいるのだ。
「昏ー、今日は何弁当にする?」
「藤食堂のおかみが、ジンギスカン弁当を始めたと言っていた」
「おいしそー、おれ、それにしよ」
 藍が注意できないのをいいことに、若者たちは甘い(?)会話を楽しんでいる。さすがはエージェント、状況を読むのが早い。
 許せん。
 この恨み墓場まで持って行ってやるぞと藍が思っていた時、昼休みを告げるベルが鳴った。がたり。即行で碧が立ち上がる。
「やったー!昏、弁当買いに行こっ」
「碧っ(ずきり)」
「だって昼休みだもーん!昏、先行ってるぜっ」
 呼び止める藍を軽く退け、桐野碧は脱兎のごとく去った。後には特務三課主任と、黒髪の部下が残される。ちなみに課長は総務部に行ったきり帰らない。(おそらくサボっているものと推測される)
 どさり。
 何かが藍の机の上に置かれた。藍は目をやる。これは、簡易栄養食。(しかも、流動食)
「めぐんでやっても、いい」
 桐野藍の前に、昏一族の男が立っている。たった一人残された、昏の末裔が。
「不要だ(小声で)」
「しかし、ろくに食事を摂っていないのだろう?」
 珍しいことを言うのものだと、主任は部下を見つめた。漆黒の瞳が、硬質に輝いている。
「何を企んでいる(半分掠れた声で)」
「何も」
「・・・・・・」
 桐野藍は疑いの眼差しを昏に向けた。昏は無表情のまま微動だにしない。
「疑うのなら、もういい」
「いや、もらおう。いくらだ?」
 値段を訊いた藍に、昏は不敵に笑った。藍は眉をひそめる。
「・・・・何が言いたい」
「俺は『めぐむ』と言ったのだ。『売る』とは言ってない」
「貴様!」
 憤怒に苛まれる藍に、昏一族の末裔は告げる。その辺の遊女など敵わぬような、婉然とした微笑みを浮かべて。
「必要ない」
「そうか?なら、俺は行く」
 やっとのことで言った藍に、昏はくるりと踵を返した。スタスタと出口へ歩いてゆく。昏は後ろ姿なのに、笑みを浮かべたままなのが藍にはわかった。許さん。この口内炎が治ったら、必ず仕返ししてやる。
 桐野藍は結局、昼食を麦茶で済ませた。口は痛くても胃袋は健康。藍の胃の腑は空腹を訴えつづけた。


 はらへった・・・・。
 桐野藍はごろりと寝ころんだ。もう、空腹で一歩も動けない。
 思えば口内炎が出来てから、一日一食摂るのが精一杯だった。
 肝心な時に、いつもいない。
 辺りを見回す。屋敷の主、銀生はまだ帰ってきていないようだった。
 早く帰って来いってんだ。食事当番はそっちだろうが。 
 ぼそぼそと毒づいてみる。毒づく相手がいないのはつまらない。たとえ全然効いてなくても、変な理論ではぐらかされても、相手がいないよりましだ。
 なんか食わせろ・・・。
 藍は弱々しく目を閉じた。


 桐野藍は夢の中にいた。
『あれえ。疲れてるんですね』
 銀生の声が聞こえる。やばい、起きなければ。また寝込みを襲われてしまう。
『そこで寝ててくださいね。すぐに、いいもの作りますから』
 足音が去ってゆく気がする。助かった。身体を動かそうとしても動かなかったから。
 コトコトコト・・・・。
 何かを炊いている音がする。ほんのりと米を炊くにおい。粥だろうか。
 いつもと全然変わらなかったけど、それなりに気付いてたんだな。
 しみじみと藍は思った。やはり一緒に暮らしているだけある。銀生は自分の不調に気付いていた。(ああいう朝飯の食べ方をして、気付かないほうがおかしいと思うのだが)
 口内炎が治ったら、ちょっとはつき合ってやってもいいか。
 藍がそう思った時だった。なんか、おかしい。においがどんどん変わってゆく。うわ、すっぱ苦いみたいなにおい。
「うん、もうちょっとですねぇ」
 銀生の声が聞こえる。屋敷はいつの間にか、漢方のにおいが立ちこめる空間になっていた。藍も少しぐらいの漢方のにおいは平気だ。だけど、ものには限度がある。
「藍さーん、待っててくださいねっ。槐の国特産、薬草粥です」
 薬草粥。聞きしに勝るその粥を、もちろん藍も聞き及んでいた。が、聞くのと実際に経験するのは雲泥の差がある。あのすごいにおいの物体を、おれに食わせようというのか?おれは口内炎なんだぞ?
「できました〜」
 のほほんとした銀生の声が上がる。座敷に横たわる桐野藍には、それが死刑宣告にも思えた。

 結局。
 桐野藍の口内炎は、社銀生の薬草粥の助力も得て無事完治した。
 自らの功績を誇示する銀生の主張を、桐野藍は未だ黙殺しつづけている。 

 ああ、愛?の口内炎。
 ビタミンCを摂らなきゃねと。


おわり 

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