その傷を初めて見た時、オレは、息が止まるかと思った。
 あいつの白い背中。肩口から腰へと走る、赤い線。
 オレが、愚かだった印。




 「呼ばない海」番外編3           by(宰相 連改め)みなひ




「おーい!そっちの方どうだ?」
「こっちはそう深くない。遠浅だな」
 声に波の音が混じり合う。オレ達は淮の国に来ていた。
「こっち来いよ!結構、いろんな魚が泳いでるぜ」
「そりゃあ魚も泳ぐだろう。ここは海なんだから」
 淮の国に来たのは、あいつと海に来たかったから。淮は和の国の南、海に面した国だ。
「とにかく来いって!」
「はいはい」
 ため息一つついて、海瑠が波の中を進んで来た。オレは目を見張る。
「来たぞ」
「・・・・・」
「なんだ?そのびっくりした顔。何かあったのか?」
 言葉を出せないでいるオレに、怪訝そうな顔で海瑠は尋ねた。尋ねられたオレは、我に返って口を開く。
「おまえ、泳げたんだな」
「は?」
「てっきり、カナヅチだと思ってた」
 すいすいと泳いでやって来たあいつに、オレはただ驚いていた。だって、海瑠は今まで一度も海に入らなかった。何度も海に来たがったくせに、海で泳ぐことはなかったのだ。いつも海を見るだけだった海瑠。そんなあいつをオレは今日、初めて海に入れた。ブンと投げ入れてやったのだ。
「失礼な奴だな。学び舎でやっただろう?北都湖での遠泳訓練。それとも、『御影』組にはなしか?」
「そんなワケあるかよ!もちろんやったぜ。あん時オレ、張り切り過ぎちゃって足つっちゃってさー!斎が筋伸ばしてくれたんだ」
 懐かしく語るオレに、海瑠は困った顔をした。オレは眉を顰める。ん?なんだよ。
「お前、桐野には世話になりっぱなしだな」
「そうか?」
「一度、なんか持っていったほうがいいぞ」
「えーーっ、なんでだよ。あっちが勝手にやったんだぞ?」
「それでも、助かっただろう?」
「まあな。だから、ちゃんと『さんきゅ』って言ったぜ?」
「・・・・やれやれ、桐野も人がいいよな」
 海瑠がまたため息をつく。オレはその海瑠の姿を、いまいち理解できずに見つめていた。ん?なんだってんだよ。礼だけじゃダメなのか?
「流」
「何?」
「ともかくな、御影宿舎帰ったら、土産くらい桐野に渡せよ」
「はいはい、わかったよ」
 内心面倒だなとか思いながらも、一応返事する。オレ達は長期休暇でここに来ていた。いや、正確には長期休暇ではない。御影長公認の雲隠れだ。
『おぬしは何もなしでは済まぬと思うておったが、相方がやらかすとはな』
 オレたちが入院していた御影研究所を訪れ、御影長は言った。
『全く、普段おとなしい奴にはかなわん。やらかすとなったら、とんでもないことをやりおる』
 海瑠は特務三課という新設される課の面接を、放り投げてオレの所に来たらしい。書類審査はパスしており、後は面接だけの状態だった。あいつの書類や成績、書いた企画書や報告書を見て、先方の主任とやらは乗り気だったらしい。それをあいつは土壇場でキャンセルした。結果。激怒した先方は、御影本部に抗議書を提出した。現在御影長始め御影本部の事務方は、その始末に追われているらしい。
『とにかくおぬしの為に、ここまでやれる者は他にはおらぬ。せいぜい、大切にすることじゃな』
 皺だらけの顔を更に歪めて、隻眼の老人は言った。オレは御影長の言葉を心に刻み、海瑠と生きることを決心した。
「本当だな、流」
「あ?」
「ここ、魚がたくさん泳いでいる。水もきれいだ」
 首を傾げるオレに、水面を見つめながら海瑠が言った。濡れた髪が張りつく頬。肌に散らばる滴と、少し笑んだ唇。それらが房事を思い出させてしまって、オレは一気に血が騒いでしまった。思えばずいぶん長い間、海瑠としてない。あいつに守られていたことを知って、一方的に「対」の解消宣言をする前だから、もう三月は軽く過ぎている。
「何見てるんだ?」
「え?ああ、その・・・・」
「魚見に来いって言ったのはお前だろ。自分も見ろ」
「わ、わかってるよ!見りゃあいんだろ。見るよ!」
 海瑠に指摘されて、オレはムキになって水面を見つめた。内心、ヒヤヒヤしている。もしかして、もうバレただろうか。あいつに欲情してしまったこと。

 まっずいよなぁ。
 いくらなんでも、大ケガ治ったばかりの人間を、組み敷くってのはダメだよな。やっぱり。

 普通に装ってはいるけれど、実は頭は欲望ではちきれそうだった。海瑠と離れて自覚した。自分がどんなにあいつを好きか。求めているのか。欲しくてたまらないか。

 自信ねぇよな。
 オレ、いつまで我慢できんだろ。

 最初の交わりはゴーカン。いくらなんでも、今度はそれはできない。かといって、どう言ったらいいかも知らない。「やりたい」ってのはダメだろう。自分のワガママ通すだけじゃ、それまでのオレと変わんねぇ。それ以前に、やっていいのかもわかんねぇ。
『俺は、お前が好きだ。だから・・・・できない』
 すべてを投げ捨て、オレを助けに来た海瑠。それこそ命がけでオレを守った。つまんない意地はって、自滅しかけてたオレなのに。あいつにはオレを救う義理などなかった。全部、自業自得だったんだ。
『流』
 研究所で目覚めた時に見た、あいつの顔が浮かんできた。あの日敵を倒したオレは、御影研究所へと転がり込んだ。その時あいつは眠ってて、意識が戻ってない状態だった。オレは不安でたまらなくて、あいつの眠るベッドの脇で眠った。床で眠ってしまったオレ。目覚めて最初に見たのは、あいつの藍色の瞳だった。
『お前、床で寝るの好きだな』
『海瑠ッ!』
『だから言っただろう。二重結界、覚えろって』
『う・・・わかってるよ。ちぇっ』
『まあいいか』
『へ?』
『二人で始めばいい。最初から。お前も俺も、まだまだ鍛錬が足りない』
 ゆるく笑んだ海瑠の顔。離すもんかと思った。離してたまるか。こいつは髪の毛一本だって、オレのものだ。
 進歩するんだ。
 オレは進歩する。術も強さも人格も。
 あいつにおんぶじゃ、洒落にならない。
「・・・・・・」
「見てるぜ?魚」
「・・・・・もう、上がろうか」
 じっとこっちを見ていた海瑠が告げた。異論のないオレは、「ああ」と答える。そういえば、日も傾きかけていた。腹が減ったな。
「行こう」
 短く言葉を発して、海瑠は陸地へと泳ぎだした。腰までの深さになったところで立ち上がり、ざぶざぶと砂浜へと歩いてゆく。見える後ろ姿。背中を隠す髪。
「塩で髪がベタベタだ。洗わなくては」
 あいつが結わえた髪を体の前にしたとき、背中の傷がはっきりと姿を現した。オレはその傷が目に入って、わざと視線を逸らせる。
「どうしたんだ?」
 海瑠が振り向く。
「お前も早く上がれ」
「あ、うん。そうだな」
 相棒に促されて、オレは慌てて海から上がった。波が足元に寄せてくる。足の指を、踵を滑ってゆく砂。波と共に退いてゆく。
「飯より先に風呂だな」
「えーっ。オレ、飯がいい」
「砂が入るぞ」
「気にすんな」
 足を砂だらけにしながら、オレ達は海近くの宿屋へと戻った。


「あー、食った食った。うまかったなー」
「さすがに海沿いは違うな。久しぶりに、うまい刺し身を食べた」
 一階で少し早めの夕食を摂り、オレ達は二階の自分たちの部屋へと戻ってきていた。宿屋の飯は新鮮な魚介類が中心で、魚好きな海瑠も堪能したようだ。やはり、海に来てよかった。
「明日はどうする?朝早く出るのか?」
「別にゆっくりでもいいんじゃねぇの?どうせ親父には、何も知らせてないし」
「便り出さなかったのか?」 
「だって行くほうが早いじゃん。親父の慌てた顔見るのも、楽しいだろうし」
「・・・・知らないぞ。お義父さん、ああいった人だし」
「いーじゃねぇかよ!子供が親んとこ戻るんだ。悪いことやってるわけじゃねぇ」
 呆れ顔の海瑠に、胸を張って答えた。実は、親父は海瑠の学び舎入学に反対だった。無理もない。海瑠は死んだ海瑠の母親にそっくりに育っていってたから。親父としては、手放したくなかったのだろう。だから、オレ達はかなり強引に家を出てきた。それ以来、家に帰ることもなかった。もし帰ってしまったら、二度と出してもらえなくなる気がしたから。
「何事もなければ、いいんだかな」
 髪をほどきながら海瑠が言った。荷物から手ぬぐいを出している。
「どこ行くんだ?」
「風呂」
「また入んのか?」
「さっきは誰かさんに急かされて、ろくに時間が取れなかったからな」
 ちらりとこちらへやられた、いじわるっぽい視線。
「ふーんだ。悪かったな」
「ということだ。じゃあな」
 海瑠はさっさと着替えをまとめ、風呂へと去って行った。オレは一人、残される。
「あーあ、つまんねぇの」
 寝台にごろりと横たわり、古ぼけた天井を見上げた。しみがいっぱい浮いてる。ランプの光しかないから、余計に部屋が古臭く見える。
 どーしたもんかな。
 なんかぐちゃぐちゃになってる頭で、オレは考えた。昨夜までは御影研究所にいた。今日は、二人だけの夜。
 オレ、進歩しなきゃならねぇんだけど、できないかも。
 自分はもともと我慢強い方じゃない。どっちかというと、己のやりたいことは、真っ先にやってきたタチだ。 その時になったら全部飛んじまって、あいつに襲いかかっちまうかも。あー、でも。アレがあるからダメかもな。
 海瑠の背中の傷。あの傷がオレは見られなかった。己の愚かさが原因で、あいつが受けてしまった傷。
 ちくしょーっ、オレの馬鹿。あーんなきれいなモンに傷つけちまって、取り返しつかねぇよ。
 内心、歯がみする。あいつの白い背中。滑らかな肌も無駄なくついた筋肉も、オレはとても好きだった。二つとないものだったのに、自分が穢してしまった。
 ・・・でも。ダメんなるのはつらいよなぁ。って、オレ、やっぱ自分勝手だー!
 ゴロゴロ。もんどりうって悶えていた。その時部屋の扉が開く。あ、海瑠だ。
「・・・・なにやってんだ?」
「海瑠!は、早かったな」
「早かったら悪いか?先着がいたから、やめたんだ」
 あいつはスタスタと部屋に入ってきて、ばさりと着替えを寝台に放った。着ている服の前を緩めて、肩を滑らせてゆく。現れる白い肌。
「風呂はいいのか?」
 目を奪われながら聞いた。
「もういい。明日の朝入る」 
「そうか」
 あの傷も姿を見せた。オレは心持ち視線をずらす。やっぱり、面と向かって見ることができない。
「・・・・・来ないのか?」
 後ろを向いたままの、海瑠が言った。
「お前なら、海辺で襲いかかってくるかと思ったんだがな」
「なんだよそれ!って、オレってそんな奴なのかよっ」
 的確に痛いところを突かれて、ドキドキしながら返す。
「違うのか?俺の知ってる上総流は、自分がやりたいと思ったら、後先なく突っ込む奴だったけどな」
「なっ・・・悪かったな!」
「・・・・それとも恐いか?この傷が」
 ちらり。海瑠がこちらを見やった。切れ長とも言える目の中に光。扇情的に煌めく。
「恐くなんかねぇよ!」
 あいつに向かって突進した。本能が言ってる。挑発だ。海瑠がオレを誘ってる。
「馬鹿にすんじゃねぇ!」
「どうだか。何度も指咥えてたくせに。この腰抜け」
「こんのやろー!」
 両腕を取って組み伏せた。敷布に長い髪が広がる。その中で、微笑むあいつ。
「覚えてろよ!」
「ああ」
「オレは腰抜けじゃねぇっ!」
「・・・口先だけじゃなきゃ、いいんだがな」
「ぬかせ!」
 後は止まらなかった。今までの渇きを潤すごとく、あいつを求め続ける。どこもかしこも全部。もっと。さらにもっと。
「・・・流」
 海瑠の手。背中へと伸びる。オレはその手が温かくなっていくのを味わいながら、あいつの海へと沈んだ。


 考えたんだ。
 傷は消えない。
 けれど、やがてそれは薄く、目立たなくなってゆく。
 時が解決するのかもしれない。だけどオレは、その傷を何かに変えたい。
 返したいのだ。
 いつか、この借りを。
 あいつに。