更け行く春の夜
 〜『本日モ荒天ナリ』その後〜 by近衛 遼




 その日、特務二課課長の鬼塚修造を幹事とする「打ち上げ」は、「鳥八」を皮切りに四軒ハシゴして、ようやくお開きと相成った。
 やっぱり、サバイバルだったな。
 夜も更け、四捨五入すれば夜明けに近い時間になって、社銀生は有志(といっても、じつは銀生以外全員)たちの五次会の誘いを丁重に断り、家路に着いた。
 郊外にある自宅。いまは愛しい人とともに暮らすスイートホーム(だと銀生は思っている)である。
「ただいまー」
 真暗な玄関の前に立って、声をかける。いらえはない。からからと引き戸を開け、
「遅くなりました〜」
 長い廊下の向こうを見遣って、言ってみた。やはり、応答はない。
 怒ってるのかな。怒ってるんだろうな。約束の時間までに帰ってこなかったから。
「飲みにいらっしゃるのは結構ですが、明日も通常通りの業務があります。それに、あしたの食事当番は課長です。くれぐれもお過ごしになりませんように」
 なにも、役職名で言わなくてもいいと思うのだが、こういうときのあの人はこれでもかというぐらいに厳しい。
 桐野藍。特務三課の主任にしてデスクワークの達人。そしていまは、三課長である社銀生の「対」で同居人(「同棲」とは決して言わない)で情人(「恋人」でも「愛人」でもないらしい。なぜだ?)である。
 翌日に通常業務がある日は、たとえ飲みに行っても日付が変わるまでに帰宅するというのが、藍と銀生のあいだでの取り決めになっていた。しかるに。
 もうユーレイさんたちの稼ぎ時だもんなあ。
 銀生は玄関の戸を閉めて、そっと家の中に入った。どこにいるかな。自室か、あるいは台所か、はたまた居間か。きっと、こまごまとした仕事をしながら、待ってるんだろうな。氷点下のオーラを漂わせながら。
「藍さーん、いま帰りまし……た?」
 いない。
 自室にも、台所にも、座敷にも。しかも、どの部屋も明かりひとつついていない。
 おかしいな。なにか急用でもできて、出かけたのだろうか。しかし、それなら遠話ででも連絡をくれそうなものだが。
 それともこれは、新手の嫌がらせかもしれない。こっちがあちこち探し回っているのを、どこかで高見の見物してるのかも。
 もう〜、藍さんたらイジワルなんだから。
 自分も、つい先日似たようなことをしたのは棚に上げて、銀生は唇をとがらせた。べつに、いいですけどね。あんたの遮蔽結界ぐらい、見つけるのは造作もない。なんたって、あんたは俺とほとんど同じ性質の結界を張るようになったんだから。
 今回の夏氏の件で、それがはっきりとわかった。藍は、間違いなく銀生の「気」に同化しつつある。
 うれしいですねえ。たとえそれが、俺への「愛」に由来するものではないにしても。
 あんたはまた一歩、俺に近づいてきた。俺の核の部分に。
 目を閉じる。目を開く。蒼い瞳で想い人の体温を探す。
「へっ……?」
 瞬時に、瞳の色が戻った。
「どういうことよ、これって」
 思いっきり、シリアスな雰囲気に浸っていたのに。
 銀生はため息をつきつつ、寝室になっている奥の間の襖を開けた。
「これって、まさか幻術………ってことはないよねえ」
 そろそろと、枕元に進む。夜具の中で、藍は熟睡していた。
「藍さ〜ん。ただいまー」
 そろっと言ってみる。
「約束破って、すみません。鬼塚は酒注げってうるさいし、伊能は愚痴たらたらだし、錦織は今後の特務課はこうあるべしだとかなんとか一説ぶち立てるし、怜は秘書課に『一文字屋』のせんべいと『鳩屋』のサブレを差し入れろってしつこいし、なかなか抜けられなかったんですよ〜。それに、カラオケボックスでマイクの順番を巡って、賭けにするかあみだくじにするかでモメまして……」
 ふだんの藍なら、「そんなことは、どうでもいいですっ」と一喝しそうな内容をくどくどと並べ立てる。が、藍は規則正しい寝息をたてて、夢の国にいるようだった。
 これはどうやら、本当に眠っているらしい。
 たしかに、夏氏の一件では気の休まる暇もなかっただろう。パンドラの箱ともいうべき豊甜を、和の国に連れてきたのは藍だったから。
 やっと、一段落ついて。やっと、日常が戻ってきて。
 きっと、気がゆるんだのだろう。この人にしてはめずらしく、赤子のように無防備なままで眠っている。
 朝まで帰ってこないと思ったのかねえ。鬼塚たちに誘われたから。
 ま、それもありえたかな。五次会に雪崩れ込んでたら、そのまま朝日とご対面してたかも。
 でも、ね。
 銀生は夜具をずらした。
 今日は、そんな「遊び」に付き合うつもりはさらさらなかったですよ。義理は果たしましたけどね。
 するり。夜着の帯を解く。
 あらあら。まだ気がつきませんか。よっぽど、疲れてるんですねえ。
 銀生は藍の素肌に唇を這わせた。ぴくり。かすかな反応が返ってくる。
「………」
 目を閉じたまま、藍が弱々しくかぶりを振った。身をよじって、なおも何事か呟いている。
 薄く開いた唇。漏れる吐息。夢の中で、この人はなにを見て、なにを感じているのだろう。
 見ようと思えば、視ることはできる。この人のすべてを、知ることはできる。それどころか、この人をまるごと喰らいつくすことさえも。
 しかし、それは結局のところ無意味だ。奪い取ったあとには、なにも残らないのだから。
 銀生はさらに、藍の上を彷徨した。肌の匂いと味を堪能する。久しぶりの感覚に、体はいとも簡単に目覚めた。
 かなり長いこと「お預け」状態だったからねえ。苦笑しつつ、銀生は着衣を夜具の横に落とした。


 体温が重なる。下肢のあいだに指が進む。徐々に体が開いていく。銀生がその部分を捉えたとき。
「んっ……」
 明確に、藍の体が反応した。ゆっくりと目蓋が上がる。
「あ……」
 艶やかな漆黒の瞳が、銀生の存在を認識した。
「ただいま帰りました」
 動きを止めずに、言う。
「た……ただいまって……」
 藍は銀生の肩に手をやった。
「これは、どういう……」
 押し返そうとしているのだろうが、夢うつつの状態から引き戻されたばかりで、しかも体の中心を束縛されているため、力が入らないらしい。
「せっかくのお誘いですからね。ありがたく、いただいてます」
「だ……だれも誘ってなんかいませんっ」
「おやあ、そうですか? でも、もうこんなになってますよ」
 敏感な部分を刺激する。藍の体がわなないた。
「これ、放っといていいのかなー。ま、俺は自分でなんとかしますけど、あんたは……ねえ?」
 ことさらきわどい言い回しをする。藍の頬に朱が入った。悔しそうにこちらを睨み付けている。
 いいねえ。この目だけで、いけそうだよ。でも、それじゃもったいないから。
 銀生は藍の脚を押し上げた。今度はなんの抵抗もない。
「ご協力、感謝します」
 これで、あんたとあの時間を共有できる。待ちかねた時間を。待ちかねた場所で。
 そして、銀生は藍の中に入った。


 翌朝。
 朝日が眩しい台所では、銀生が鼻唄まじりに朝食を作っていた。ほとんど徹夜だったが、こんな徹夜なら大歓迎である。
 今日はあの人が好きな豆腐と白ネギの味噌汁。卵焼きはちゃんとだしで割っただし巻き。漬物はキュウリの浅漬け。ごはんもあの人好みに、ちょっと固めに炊けている。お茶は……槐の国の薬湯にしておくかな。翡晶に分けてもらったのが、まだ少し残ってるから。
 さあ。準備完了。そろそろ、あの人を起こさなくちゃね。「おはようのキス」で。
 銀生はうきうきと、藍の眠る寝室に向かった。


 社銀生と桐野藍の闘いは、今日も続いている。
 昼には昼の。夜には夜の。
 それは、まだしばらくは終わりそうにない。


  ……to be continued?