雪解〜ゆきげ〜 by 近衛 遼





 雲海山の雪も峠を越し、麓に続く道がようやく通れるようになった。衛士たちの何人かが厨女とともに市に買い出しに行った直後、春日家所有の山荘を、ひとりの公達が訪れた。
「あれえ、先生。どーしたのよ」
 東門でその不意の客を出迎えたのは、めずらしく外回りの仕事をしていた岷だった。ちなみに鬼堂は、急な発熱で伏せっている顕良の看護をしている。
「とっくに宗の国に行っちゃったと思ってたのに」
「いろいろ、事情があってな」
 苦笑しつつ答えたのは、春日家の物の怪騒動のときに知り合った術者、中務信行だった。


 信行は顕良に見舞いの言上をしたあと、すぐに正殿を辞した。病人に無用の気遣いをさせてはならぬと思ったのであろう。
「顕良どののお加減は、だいぶお悪いのか。声に張りがなかったようにお見受けしたが」
 東の対屋で茶を喫しながら、信行は心配そうに言った。
「あ、だいじょーぶだいじょーぶ。ときどき、あーなっちゃうのよ」
 岷がぴらぴらと手を振りながら、笑った。
「だれかさんが後先考えないで突っ走っちゃうから」
「突っ走る?」
「おい、岷」
 横から、鬼堂が釘を差した。
「余計なことを言うんじゃねえ」
「はいはーい。でも鬼堂ちゃん、若さまほっといていいの?」
「いま、ババアが薬湯持っていってるよ」
「あ、お局さまに追い出されちゃったワケ?」
「うるせえ。信行卿の接待をしろって言われたんだよ」
 萩野は、過日の物の怪騒動の真相を知る数少ない人物のひとりである。
『信行さまのお悩みもまた、たいそう深きものであったろう。ここに立ち寄られたは、きっとなんぞお心に残るものがあるに違いない』
 たしかに、そうかもな。鬼堂は思った。
 先月のうちに宗の国に留学していたはずの信行が、いまごろここにいるのは、なにかしら不測の事態が起こったのかもしれない。
「それは、すまないことをした。先触れをしておけばよかったな」
 困ったように、信行は笑った。
「御身たちに、ひとこと礼を言うだけのつもりだったんだが」
「やだなー、お礼だなんて。そーゆーの、こっちが気恥ずかしくなっちゃうじゃん」
 赤毛をがしがしとかいて、岷。
「いや、本当に……御身たちには、どんな言葉をもってしても言い尽くせぬほど感謝している」
 信行は、居住まいを正して礼をした。美しい所作。鬼堂と岷も、きっちりと座り直し、それに答えた。
「でもさー、なんでまだ和の国にいるのよ」
 率直な疑問を、岷が口にした。
「ああ、じつは、昌通(まさみち)どのを説得するのに時間がかかってな」
「昌通?」
 岷が首を傾げた。
「菅子爵のご嫡男だ」
「あー、たしか、姫さまの許嫁の……」
「そう。その昌通どのが、こたびのことを知って出家すると言い出してね」
「あらら。せっかく子爵家自体はお咎めナシだったのに」
「それがかえって、重荷になったようだな」
 自身も、おのが命をもって償おうとした信行である。そのあたりの心情はよくわかるのだろう。
「春日家に多大な迷惑をかけ、御上のお心を悩ませ申し上げた。かくなるうえは、自分が官位を返上して世捨て人となるのが当然と思ったらしい」
「うわー、なにもそこまで思いつめなくてもいいのに」
 昌通が出家するとなると、次男の昌尚(まさなお)か三男の行家(ゆきいえ)が家督を継ぐことになるが、両名ともそれを宜(よ)しとはしなかった。王は嫡男が子爵家を継ぐよう命じている。それに逆らうのは、謀叛に等しいことであった。
 ただでさえ、菅家が残るのは奇蹟である。このうえ、王の意向を無視することなど、できようはずもない。
「御上は私に、昌通どのを翻意させるようにと仰せになった。それで、しばらく菅家に滞在していたのだ」
 信行はじっくりと昌通の話を聞いた。そしてまた、自分が歩んできた道も包み隠さず話した。おのが罪と向かい合い、そこから逃げずに為すべきことを為すつもりであると。
『兄上』
 菅家に入って二十日ばかりたったころ。昌通は信行をそう呼んだ。
『私もこれから、身命を賭して御上にお仕え申し上げます』
 翌日、昌通は王城に上がり、正式に子爵家の当主として王の印綬を受けた。
「で、よーやく留学できることになったわけね」
 岷が三杯めの茶をすすりながら、言った。
「でも、先生が宗に行ってるあいだ、姫さまは寂しいだろうねー。遠距離恋愛って、単身赴任よりキビシイもん」
 まひると昌通との婚約は、すでに菅家側からの申し出で白紙に戻されている。一方、いまだ公にはなっていないが、中務家と春日家のあいだでは信行とまひるの婚約が内定したらしい。
「まひる様には、申し訳ないと思っている。だが、宗の国でさらに多くの術を学び、王城のみならず、都全体の……いや、行く行くは和の国全土の守りに役立つような結界術を身につけたいのだ」
 それが、自分が生かされた意味なのだ。信行はそう考えているようだった。
「やれるよ。あんたなら」
 ぼそりと、鬼堂が言った。
「そんじょそこらの外敵なんざ寄り付くこともできねえような、すげえ術を編み出せるさ」
「うわー。今日の鬼堂ちゃん、花街の太鼓持ちも真っ青のヨイショなトーク炸裂ねー」
 岷が茶々を入れる。
「阿呆。なにがヨイショだ」
 むっとして、鬼堂。信行はくすくすと笑って、
「やはり、御身たちは良い人間だな」
 いつぞやと同じ台詞を口にする。
 御世辞にも清廉潔白な暮らしをしてこなかった鬼堂としては、この評価を素直に受け入れるには抵抗があったが、様々な苦労の末にいまに至った信行を思うと、それをわざわざ否定する気にはなれなかった。
「先生、今日は泊まってくんでしょ? いまから出発したって、次の宿場町に着くまでに日が暮れちゃうし」
 岷がそう訊ねると、
「いや、できれば馬を借りていこうかと思っていたんだが……」
「あー、そんなのダメダメ。お局さまのことだもん。どうせもう、先生のぶんまで夕餉の用意をするように言ってるよ。ここの食事って、都のよりちょっと薄味だけど、どれもすっごく美味しいんだからー。とくに晴ちゃんが作る煮物は絶品よ。食べてってソンはないから。ね?」
 晴はいま、厨の仕事と顕良の身の回りの世話とを掛け持ちでやっている。
「そうか。では、ご相伴に与かろう」
 穏やかに微笑んで、信行は言った。


 その夜。
 正殿ではじつに和やかに、夕餉の時が進んだ。
「信行どの。よろしければ、これをお持ちください」
 顕良が紅紫の守り袋を差し出した。
「御身が無事、志を遂げられますように」
「これは……いたみいります」
 信行は守り袋を受け取った。ぐっとそれを握り締め、
「顕良どののお心、たしかに」
 作法にのっとって、礼をする。顕良もそれに返礼した。
「失礼いたします」
 戸口で、声がした。晴である。新たに酒を運んできたらしい。
「萩野さまが、もう一献とおっしゃいまして」
 ババアにしては、気が利いてるな。鬼堂は心の中でうそぶいた。それぞれの盃に酒が満たされる。一同は盃を掲げた。
「まひるを、よろしくお願いします」
 兄の顔で、顕良が言った。信行はしっかとその瞳を受け止め、
「はい。天地神明に誓いまして」
 まるで固めの盃だぜ。
 そんなことを考えながら、鬼堂は酒を飲み干した。


 翌日。朝餉を摂るとすぐに、信行は山荘をあとにした。宗の国への留学。期間は二年と聞いている。
 二年後、信行はまひると祝言を上げ、春日家に入ることになる。これは清顕と中務侯爵が話し合った末のことで、信行を中務家から出して、春日家の分家を創設させることにしたらしい。
「信行どのも、これでいままでのしがらみから抜け出せますね」
 ちらほらと開いた梅の花を眺めながら、顕良が言った。
「そうだな」
 意地の悪い見方をすれば、次の「しがらみ」ができただけかもしれねえが。
 そんなことを考えつつ、鬼堂は萩野から託された薬湯を顕良の横に置いた。
「ありがとう」
 すっ、と、手がのびてきた。一瞬、指先が触れ合う。鬼堂は慌てて、手を引いた。
「鬼堂どの」
 薬湯を手に、顕良は続けた。
「あとで、梅の絵を描こうと思うのですが」
「あ……ああ。んじゃ、岷に筆と絵の具を用意するよう言っとく」
「頼みます」
 こくり、と薬湯を飲む。ほう、と息をついた横顔は、例えようもなく美しかった。
 一瞬、理性が飛んだ。細い体をうしろから抱きしめる。いくらか薬湯の残っていた茶碗が、床の上に落ちた。
 温もりと質感と匂い。それらを実感したあと、そっと手を放す。
「すまねえ。つい……」
 低く言って、離れようとしたとき。
 顕良の手が鬼堂の腕を掴んだ。
「もう少し……」
 もう少し、このままで。
 いいのだろうか。正殿の書院。庭に面したこの場所は、対屋を繋ぐ渡殿まで見渡せる。当然ながら、こちらの様子も丸見えのはずだが。
 顕良は目を閉じて、鬼堂に上体を預けた。かすかな花の香と、まだたどたどしい鶯の鳴き声。
 浅い春の中、ふたりはしばし、同じ時を見つめていた。


(了)