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帷(とばり) by 近衛 遼
護国寺の雲殿と呼ばれる棟の一角には、都の貴族の子弟が学問のために一定の期間、寝起きする寮のような場所がある。その者たちは高位の僧や学者に付いて教養を磨き、やがて都に帰っていく。
もっとも、ごくまれに、そのまま護国寺に残る者もいた。僧職に付かず、事務職として寺の運営に携わる。桐野出水(きりの いずみ)も、そんなひとりであった。
桐野家は貴族の家柄ではない。それなのに、なにゆえ出水が護国寺の雲殿の学生(がくしょう)となれたのかというと、出水の祖父が私財を投じて都にあらゆる福祉施設を設け、それを和王に献上したからである。
時の和王はその功績をたたえ、桐野家に準男爵の称号を与えた。それと同時に貴族を表わす「卿」の敬称も認め、桐野家はほかの貴族と同じく、登城を許されることとなった。かくしてその後、桐野家の男子の中には、護国寺の要職に付く者も多く排出されるに至る。
雲殿の一室。灯明が夜のしじまの中で、羽虫のような音をたてていた。
出水はそっと房の入り口に座した。
「なにをしている」
御簾の向こうから声がした。出水は頭を下げた。
「なにをしていると、訊いている」
「お召しを……お待ちしております」
自分と御簾内の人物との身分差は歴然としている。それは、はじめてここに来たときからわかっていた。
男の名は東洞院八束(ひがしのとういん やつか)。代々和王の側近として、「十席」と呼ばれる重責を担う公爵家の出身だ。
「そうか」
淡々と、八束は言った。
「では……」
灯明が消える。
「参れ」
夜陰を震わす、声。
「御意」
出水は御簾の内に入った。
身を浄め、その場に赴く。久方ぶりの褥。おごそかなそれは、やがて淫靡な色に染まる。
「思いのほか、長かったな」
八束の手が奥を嬲る。そろり、そろり。いたぶるように指が動いて。
「んっ……あ…」
「早すぎる」
するりと指が逃げた。
「このまま事を為しては、私の気持ちが収まらぬ」
「八束……さま……」
出水は顔を上げた。おのが主上の本意を見極めようとして。
「狂え」
「え……」
「狂うてみよ」
「く……るう?」
「しかり」
美しく、この上なく美しく、八束は笑った。栗色の髪がさらりと揺れる。
「私が待った時間のぶんだけ、狂うて見せよ」
あごを掴み、命じる。
「……」
かすかに震えながら、出水は頷いた。おのれの身に、自らその続きを強いる。薄闇の中、八束の視線が注がれた。
ぴりぴりとした快感が次から次へと生み出される。が、それをそのまま受け入れるわけにはいかない。
まだだ。まだ、許されてはいない。この先を乞うことも。
体中に湧き出す瘴気にも似た情炎が五感を侵食していく。ただその一点しか考えられなくなって。
「……はっ……あ………はあっ……っ」
自分の息が異様なほど大きく聞こえた。極端に狭くなった視界の先で、八束が何事か口にした。
「………か?」
なんだろう。なにを訊かれたのか。
出水の耳にその音は伝わらなかった。八束の双眸がうっすらと細められる。
「ならば……」
喉元に手を宛てられた。ずん、と、鈍い衝撃が走る。
「ん……っ、く……ぅ」
喉の中を縛り付けられたような感覚。
「応えないなら、声など要らぬだろう?」
術で声を封じられたらしい。
「わが言葉を聞かぬなら、耳も要らぬな」
頬の横に手を伸ばす。鋭い金属音とともに、今度は聴覚が奪われた。そして。
目の前で、横一文字の印が切られる。
視覚が閉じる直前に、満足げに微笑む八束の顔が見えた。
なにも見えず、なにも聞こえず。声すら出せない闇の中で、出水はそれだけを感じる「器」になっていた。ほかに為すすべもない。八束の言ったように、ただ狂うしか。
八束が出水の内部を隅々まで荒らしていく。
『八束さま』
音にならぬ声。けれど肌を通して届いているはずだ。動きが激しさを増す。
思考すら、もはや自分のものではなくなっていた。八束の望むもの。それこそが自分の行き着くところ。
その果てに向かって、出水は意識を飛ばした。
翌日。
春日家に関する一連の出来事は、公にされることなく落着を見た。が、出水がそれを知るのは三日後。
五感を完全に取り戻してからのことであった。
(了)
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