(しとね)  by 近衛 遼





 そのとき。
 出水は純粋に喜びを感じた。この人のそばに居られる。ただそれだけで。


 桐野出水は、父の命によって護国寺に送られた。貴族の家柄ではない自分が、一介の雲水ではなく学生(がくしょう)として護国寺で学べるなど、このうえない名誉であると思った。
「出水、か」
 その人は、さして興味もない口調で言った。それはそうだろう。毎年、何人もの学生が護国寺の門をくぐる。そのほとんどが、一年ないし二年のあいだにそれなりの教養を身につけ、都に帰っていくのだ。
 自分もその多くの中のひとり。いや、それ以下かもしれない。
 桐野家は、いわば王のお情けで貴族の末席に加えられたようなものだ。そんな家の者など、ここでは歯牙にもかけられまい。
 出水は平伏したまま、次の言葉を待った。
 下がれ。
 そう言われると思っていた。が。
「参れ」
 玲瓏な声が命じた。思わず顔を上げる。
「如何した」
 うっすらと、双眸が細められた。
「参れ」
 ここへ。
 脇息を押し遣り、再度同じ言葉を口に乗せる。
「……御意」
 出水は応えようと思った。東洞院八束(ひがしのとういん やつか)。二十半ばにして護国寺の「行」をすべて完遂したという、その人に。


「桐野の家は……」
 ぐっ、と、奥をえぐりながら、八束は言った。
「こうまでして、御上に取り入りたいのか」
「……そ……んな……」
 そんなことはない。
 内部の圧迫に耐えながら、出水は思った。
 もし、そのような誤解を与えてしまったなら、このまま果ててしまおう。ふた心ない証しとして、この命を差し出して。
 責められて、責められて。
 自分というものが、なくなっていく。崩れていく。生理的なその場所だけが、生と精とをほとばしらせている。
「……っ……く……う、ああっ」
 秘められた場所から、あふれる激情。羞恥と苦痛と悦楽と。それらがないまぜになった感覚が出水を満たす。
「出水……」
 それを見遣って、八束は頬を緩ませた。耳元で、そろりと囁く。
「申せ」
「……な……にを……」
「すべてを」
 すべて?
 これを全部、言えと……。
 唇が震えた。その先から、体の中を表わす声が噴き出す。
「……んっ……は……あ、う……んんっ」
 あとからあとから、漏れてきて。
 こぼれたそれを八束が吸い取る。息とともに心まで奪われたような気がして、出水はそのまま自身を放棄した。


 朝の光の中、八束がふたたび命じる。
「出水」
「はい」
「参る」
「御意」
 あなたとともに。
 出水は長衣の裾を捌き、おのが主上のあとに従った。


(了)