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緑風 by 近衛 遼
「顕良おにいさま、こんなにたくさんの薬草、どこから集めていらしたの?」
まひるは、大きな目をますます大きくして言った。
「雲海山にもいろいろな薬草が自生していますけど、これは……」
「槐の国から取り寄せたんだよ」
顕良はそれらの薬草を確認しながら答えた。
「槐の国の天峰連山には、めずらしい薬草がいろいろあるからね」
「それは存じておりますけど……槐は宗の国に併合されてしまったのでしょう? 連山に立ち入るのは難しくなったのではありませんの?」
数年前、宗は槐国境を侵して軍を進めて槐王の身柄を拘束し、事実上、槐を傘下に納めた。その際、要人の何人かは和の国に亡命し、いまは和王の庇護の下で生活していた。
「たしかに、国境の出入りは厳しくなったみたいだけどね。いったん国内に入ってしまえば、かえって自由に動けるようだよ」
顕良は説明した。
「あら、どうしてですの」
「宗の国は属国の統治に関して、かなり鷹揚だからね。年貢さえ入ってくれば、あとのことは大した問題じゃないんだろう」
鷹揚というより、いい加減なんだろうな。顕良の後ろで控えていた鬼堂は、ふたりの会話を聞いてそう思った。
それにしても、この姫さんの行動にはいつも驚かされる。いきなり雲海山に行くと言い出したかと思うと、突然それをキャンセルして都に残ると言い、やれやれと安心して山荘に戻ってきたら、ひと月とたたぬうちに侍女も連れずにやってきた。さすがに道中の護衛のための衛士はいたが、その者たちはまひるを山荘に送り届けると、さっさと引き上げてしまった。
「だって、こちらには鬼堂さまと岷さまがおられますし、侍女なら萩野がおりますもの。なんの心配もございませんでしょう?」
萩野は、顕良の侍女である。もっとも最近は、晴が顕良の御前に伺候することが多くなっていたが、まひるはそんな事情は知らないはずだ。
「早苗はどうしたの。なにか粗相でも?」
まひるが到着した翌日、顕良が訊ねた。早苗というのは、本宅でまひるに仕えていた侍女である。
「いいえ。早苗は中務家にまいりましたの」
「中務家?」
先年の物の怪騒ぎの折に鬼堂たちとともに働いた術者、中務信行の実家である。ちなみに信行とまひるは、内々に婚約していた。
「子爵家に嫁ぐからには、やはりそれなりの後見がございませんとね。最初はおとうさまが早苗の親代(おやしろ)になると仰せになったのだけど、わたくしと昌通さまのお話が流れた経緯もございますでしょう? やはりそれは外聞が悪いということで、侯爵さまにお願いすることになって」
いったい、なんの話だ。子爵家に嫁ぐって? だれのことだよ。
「まひる。もう少し、順序立てて話してくれないか」
顕良が苦笑しつつ、言った。
どうやら、肝心なことを後回しにしたり、結論だけを先に言うのは春日家の血筋らしい。顕良も以前はよく、こういう物言いをしていた。そのせいで鬼堂は、何度か顕良のことを誤解してしまった。いまではもう、そんなこともないが。
「順序立ててとおっしゃっても、どのあたりからお話すればよろしいの?」
「まず、早苗が中務家に行ったのは、なんのためだい」
「侯爵さまの養女になるためですわ。侍女の身分では、子爵家の正室となるわけにはまいりませんもの」
「子爵家というのは、管子爵家のことだね」
昌通の名が出たので、そう推察したらしい。
「ええ。昌通さまと早苗は、ずいぶん前から思いを交わしておりましたの」
やっと話が繋がった。
要するに、管子爵家の当主、昌通と、まひるの侍女だった早苗は恋人同士で、身分の違いからそれを公にはしていなかった。まひると昌通の婚約が解消されて、ようやく昌通は早苗を子爵家に迎える決心をしたが、侍女の身分のままでは正室にはなれない。そこで、中務家の養女となって、輿入れすることにしたらしい。
「姫さん、いつからそのことを知ってたんだよ」
鬼堂が訊くと、
「はじめからですわ」
「はじめから?」
「わたくしとの婚約が整う前から、昌通さまは早苗のところに通っていらしてましたもの。ただ、家同士の縁談を無下に断ることもできなくて、宗の国に留学することで時間を稼ごうとなさったのですわ。それで、わたくしは昌通さまと早苗の文の橋渡しをしておりましたの」
なんとも、信じられない話だ。いくら親の決めた相手とはいえ、許嫁(いいなずけ)と侍女のあいだを取り持っていたとは。
「けど、姫さん。もし事が進んで、昌通卿と結婚することになってたら、どうするつもりだったんだよ」
「さあ、どうしておりましたかしら」
ころころと、鈴のような声でまひるは笑った。
「そうなったらなったで、なにかしら道は拓けたと思いますのよ。ですから、鬼堂さま。過ぎたことをあれこれ考えるのは、やめにいたしません? いまがこんなに素晴らしいのに、もったいないこと」
扇を手に、ちらりと顕良を見遣る。
「ねえ、顕良おにいさま?」
なにやら、含みのある視線。鬼堂は内心、ぎくりとした。なにか気づかれただろうか。都の本宅にいたあいだ、つい何度か顕良に触れてしまったが、それを見られていたとしたら……。
「そうだね」
顕良は頷いた。
「ぼくもいま、とてもしあわせだよ」
さらりと出た言葉。耳の奥に染み入る。鬼堂はぐっと唇を結んだ。
緑の匂いのする風が、正殿に吹き込んでくる。色濃くなってきた木々が日の光を弾いてきらきらと揺れていた。
しばらくだれも、なにも言わなかった。その静けさを破ったのは、
「若さまー、天日干し終わった薬草、西の対屋に運んでおいたよ〜」
簀の子縁の向こうから聞こえる、岷の声だった。
「これだけあれば、調合次第でずいぶんたくさんのお薬が作れますわね」
西の対屋の一室で、まひるは顕良が薬草を分類していくのを見ていた。
「次に薬師の先生が来てくださったときに、細かい配合の仕方を教えていただく予定なんだよ」
「でしたら、いくつか、おかあさまに届けてさしあげて。このところ、なかなかお疲れが取れないとお悩みですのよ」
「いいよ。まひるが届けてくれるなら、ね」
「まあ、顕良おにいさまの意地悪。そんなに早く、わたくしを都に帰すおつもりですの」
拗ねたような口調で、言う。
鬼堂は心の中でため息をついた。こいつらの会話は、聞いていて疲れる。清興と顕良の会話も頭が痛くなったが、やはり自分のような者には付いていけない。
ここは、岷と交代した方がいいかも。
鬼堂はそっと表に出て、外で天日干しの作業を続けていた岷に声をかけた。
「へっ、そりゃべつに、かまわないけど……」
岷は栗色の目をくるりと回して、鬼堂を見た。
「鬼堂ちゃんて、ほんとにあーゆーのニガテだねえ。ちょっとはオトナになったと思ってたのに」
「うるせえ」
たしかに、当初のことを思えばだいぶ慣れてきたが、都風の物言いや所作を見ていると、まだるっこしくてイライラしてくるのだ。
「ま、いいや。そのかわり、宿直(とのい)は任せたよん」
そっちの方がいいでしょ、とこっそり言って、岷は西の対屋に入っていった。
まひるの部屋は東北の対屋に設けられた。萩野の房はそのすぐそばで、まひるが山荘に滞在しているあいだ、萩野が身の回りの世話をすることになった。
「まひるのことでは、いろいろとお手数をかけますね」
夕餉のあと、顕良が言った。
「え、ああ。まあな」
寝所の点検をしていた鬼堂は、その手を止めずに答えた。
「東北の対屋に衛士を移したんで、こっちは少し手薄になっちまったが、岷が結界を張ってくれてるから大丈夫だろ」
「ありがとう。頼りにしています」
顕良は御簾内に入った。上衣を脱いで、夜具にすわる。
「灯明を……消してください」
ひっそりとした声。向けられた双眸。鬼堂はそれを、「許し」と解した。
しあわせだと、顕良は言った。いま、とてもしあわせだと。
その言葉が、鬼堂にも幸福を与えている。自分になど、決してありえないと思っていた。ともに在り、ともに感じる至福を。
滲んだような月の下。ふたりは同じ時間をゆるやかに渡っていった。
(了)
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