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朧夜〜おぼろよ〜 by 近衛 遼
弥生も末になると、山荘の周りにも一斉に野山の花が咲き始める。早春の薄紅色や淡い黄色の花々は、残り雪のあいだに彩りを与え、新しい季節の訪れを告げていた。
「そなた、なにをそう鷹揚に構えているのだ」
都から荷車いっぱいの土産を持って山荘にやってきた清興が、正殿の書院で薬学書を読んでいた顕良を見下ろして言った。
「まもなく卯月ぞ。春の除目で、そなたを兵部参議に推したと申したであろうが。それをなにゆえ、いまだにこんなところに籠もっているのだ」
その話なら、とっくに断ったはずだぞ。
横に控えていた鬼堂は、あいかわらず一方的な物言いをする清興の様子を窺った。
「御上も、そなたの出仕を楽しみにしておいでというに」
「まことに、もったいないことと思っています」
薬学書から目を放さずに、顕良は答えた。
「されど、一度は都を辞した身。王城に上がるのは畏れおおいかと……」
「さような心配は要らぬ。都を辞したと言うても、なにか罪を犯したわけでなし。父上も、口には出されぬが、そなたに戻ってきてほしいと思うておられる」
だろうな。けど、口に出さねえってことは、無理強いしちゃいけねえってわかってるからだと思うが。
思慮深い清顕のことだ。世間体などより、顕良がなにをいちばん望んでいるかを考えているだろう。だからこそ、定期的に薬師を山荘に遣わし、顕良に薬方の講義をするよう命じたのだ。その薬師は槐の国の出身で、めずらしい薬草の処方などにも詳しいらしい。
「むろん、母上やまひるも……」
「わかりました」
顕良は書を閉じて、顔を上げた。
「都へ参りましょう」
「へっ?」
思わず声がひっくり返った。
「おまえ、いまなんて……」
「黙れ! 衛士ごときが口を出すでない」
清興がぴしりと言った。顕良に向き直り、
「まことか、顕良」
「はい。ただ、暦によれば明日は日が悪いので、明後日ではいかがでしょう」
「おお、そうじゃな。しかしわれは、明後日には御前会議があるゆえ……」
「どうぞ、兄上はひと足先にお発ちください。ぼくはここの者たちに、いろいろ指図することがありますので」
「承知した。いや、なんともめでたい。きっと父上もお喜びであろう」
清興は異様に盛り上がっている。戸口に天目茶椀を手にした晴が現れたが、清興はそれを断わり、
「茶など飲んでいる場合ではないわ。われは去(い)ぬる。輿の用意をせい!」
つい一刻ほど前に着いたばかりなのに、もう出立とはなんともせわしない。随身してきた者たちも、ろくろく休む間もなく車宿へと向かった。晴は茶碗を持ったまま、目をぱちくりとしている。
「ああ、晴。それはぼくがもらおう」
顕良が声をかけた。
「せっかく点ててもらったのに、もったいないからね」
「あ、はい。では、お言葉に甘えて……」
ふつう、客人が手をつけなかったからといって、それを主人に供するなどもってのほかだが、公の場ではないし、目付役のような萩野もいない。晴はそっと天目茶碗を顕良の前に置いて、書院を辞した。
ふたたび、房に静寂が戻った。顕良は茶碗を手に取り、ゆっくりと茶を喫した。飲みきって、茶碗を戻す。
「……どういうつもりだよ」
低い声で、鬼堂は訊いた。
「なにがです」
「さっき、都に行くって……」
「ええ」
なんでもないことのように、顕良は言った。
都の本宅に戻る。清興が用意した官職に就き、王城に出仕する。そうなれば、もうこんな毎日は送れない。
むろん、鬼堂自身もなにかしらの官位を手に入れれば、顕良とともに働けるかもしれない。が、これまでずっと裏側の世界で生きてきた身である。宮仕えができるとは、とても思えなかった。
鬼堂はこぶしを握って立ち上がった。足速に房を出る。うしろから顕良の声が聞こえたが、歩を止めることはしなかった。
このままふたりきりでいたら、なにをするかわからない。唇を結んで、鬼堂は館の外に出た。
夕餉のあいだ、鬼堂は寡黙だった。岷のいつもの軽口に「ああ」とか「うん」とか適当な相槌を打ってはいたが、話の中身など半分も頭に入らなかった。
「んもー、どしたのよ、鬼堂ちゃん。なんかクラいよ」
さすがに気になったのか、岷が鬼堂の顔を覗き込んで言った。
「なんでもねえよ」
「どー見ても、なんでもないことないって。ね、若さま?」
上座に話を振る。顕良は困ったような顔をして、
「ぼくが、皆に相談もなく都へ行くと決めたので……」
「ええーっ、それ、オレも初耳よ」
岷は栗色の目を丸くした。
「すみません。明日にでもお話するつもりだったんですが」
「若さま、肝心なコト後回しにしすぎよ。晴ちゃんのときもそーだったじゃん」
以前、表向きだけとはいえ、晴は顕良の側女だったことがある。それは晴が、岷が帰るまで山荘にいさせてくれと顕良に頼み込んだからだったが、その事実を知らない岷は、もう少しで顕良に危害を加えるところだった。
「で、なんで、そーゆーことになったのよ。まさか、イノシシの若君に説得されたワケじゃないでしょ?」
岷は清興を「イノシシの若君」と呼んでいる。本人が知ったら口から火を吹いて怒るだろうが、顕良はそれを黙認していた。
「ええ、もちろん。でも、兄上のお気持ちも無下にはできません。いささか先走ったところのあるかたですが、ぼくのことを思ってしてくださっているのですから」
「若さま、人がよすぎよ〜。『小さな親切、大きなお世話』って言うじゃない。メーワクだったらメーワクだって、きちんと言った方が相手のためになることもあるよ」
「それは……そうかもしれませんね」
顕良は頷いた。
「ただ、ぼくは昔から厚意を受ける立場にいたもので、それを退けることに慣れていないんです」
「三つ子の魂、百までかー。厳しいなあ」
岷はため息をついた。
「そうですね。でも……」
すっ、と、一同に視線を投げる。
「今回のことについては、最終的にはお断わりするつもりです」
きっばりと、顕良は言った。
「兄上には書状で、出仕の件はご遠慮したいと申し上げたのですが、それでも納得なさらなかったようで……。ここは一度、都に戻り、父上にもご相談のうえ、御上に謁を乞い、我が身を野に置くことをお許しいただこうと思っています」
「おまえ、そんなことを……」
鬼堂は絶句した。こいつがそこまで考えていたとは。
いかに名門の春日家とはいえ、王に対してそんな上申をしてただで済むとは思えない。要するに、「出仕したくないから放っておいてくれ」と言うようなものだ。臣として、不忠きわまりない発言である。
「うっかりしたら、首が飛ぶぞ」
「ええ。ですから、あとあとのことを皆に頼んでいこうと思って……」
なるほど。あのときの言葉は、そういう意味だったのか。
『ここの者たちに、いろいろ指図することがありますので』
馬鹿野郎。だったら、そう言えってんだ。あれじゃ、わずかなカネと引き換えにお払い箱にされるのかと思うじゃねえか。
そこまで考えて、鬼堂は無性に自分が情けなくなった。
馬鹿は俺だ。こいつがどれだけ苦しみ、傷ついてきたか知っているくせに。
心を殺し、ひっそりと肩を震わせるしかない。そんなふうにして、ずっと耐えてきたのに。
そんなやつが、自身の栄達だけを甘受するわけはない。たとえ、それが血を分けた者の願いであったとしても。
鬼堂は箸を置いた。
「見回り、行ってくる」
それだけ言って、房を出る。
昼間、書院を出たときとは違った意味で、自分を抑えられなかった。まったく、どうしようもない。自分の物差しでしか測れないなんて。
外廊下を回って、庭に出る。
ぼんやりと霞のかかった空には、滲んだような月が浮かんでいた。刀を手に、それを見遣る。
「鬼堂どの」
うしろから声がした。どうやら、鬼堂のあとを追ってきたらしい。
「きれいな月ですね」
うっすらと微笑む。ああ。そうだな。けど、おまえの方が何倍も……。
鬼堂は簀の子縁に上がった。細い体を抱きしめて、口付ける。
だれかに見られるかもしれないと思ったが、それを斟酌する余裕はなかった。顕良の手が背に回る。しばらく互いを感じ合ったあと。
「……すまん」
鬼堂は呟いた。おまえを信じられなくて。
「いいえ。ぼくの方こそ……」
あなたに全部、伝えられなくて。
言葉にならぬ思いが染み込んでくる。鬼堂はふたたび、顕良の唇を奪った。
朧の月が、ほのかに山荘を照らしている。その夜ふたりは、これからの自分たちを確認した。
(了)
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