|
微睡〜まどろみ〜 by 近衛 遼
いつものように、灯明が吹き消される。一瞬の闇。顕良は夜具に倒された。大柄な男がその上に重なる。
男は顕良の息を奪った。肌を確かめ、熱の寝床を荒らす。奥底の埋み火をかき出すように。
体が徐々に目覚めていくのが、はっきりとわかった。次なるものを待ち望み、男に身を預ける。
男の動きが速くなった。昂ぶりは一点に集中し、顕良を捕える。
「ふ……っ……んんっ」
思わず声が漏れた。
何度、同じことを繰り返そうとも、その瞬間の衝撃は変わらない。自分ではないものに侵食されていく感覚。
深い部分がえぐられる。甘い痺れがつま先まで伝わる。いつ果てるとも知れぬ交わりの中で、顕良の心はまちがいなく充足を感じていた。
雲海山はここ数日の雪で、すっかり銀色に覆われていた。
春日家が所有する山荘の周りだけは衛士たちによって雪かきが行なわれ、とりあえず通行に支障がない程度にはなっていたが、麓から続く道は何カ所か寸断されており、山荘は陸の孤島状態であった。
「暦の上では、もう春なのにねー」
朝餉を食しながら、岷が言った。
「いったい、いつになったら止むんだか」
今日も、ちらほらとではあるが雪が降っている。
「ま、食べもんの心配はないから、いいんだけどさ」
山荘には、雪解けまで十分に暮らせるだけの備蓄がある。昨年末に新たに衛士が増員された折、冬越えのための諸々の物資が運び込まれていた。
「若さま、今日はなにすんの? 西方の薬方書の翻訳なら、また書庫から辞書取ってくるけど」
例によって、昼間、顕良の勉学や芸事の供をするのは岷で、外回りの端仕事や屋敷の警備をするのは鬼堂の役目になっている。
「いいえ。昼までは、少し休みたいので……」
顕良は粥の椀を膳に置いた。
「それより、午後から箏(そう)の稽古に付き合っていただけますか」
箏とは、琴の一種である。
「あ、そっか。若さま、寝不足だもんね〜」
訳知り顔で、となりにすわる大柄な男を見遣る。男は露骨にいやな顔をして、
「……なにが言いたい」
低い声で問う。岷はぷるぷると頭を振って、
「やだなあ、鬼堂ちゃん。マジで返さないでよ。じょーだんだってば」
そそくさと、残りの粥と香の物を詰め込む。
「ごちそーさまでした〜。んじゃ、オレ、あっちで箏の手入れしてくるね」
弦楽器は、気温や湿度によって調律が必要である。岷はそのあたりの技術も会得しているらしく、月琴や琵琶などの手入れもまめに行なっていた。
鬼堂と岷が、正式に春日家の衛士となってひと月。山荘は日々、つつがなく時を重ねている。
「ゆうべは……」
ぼそりと、鬼堂が言った。
「すまなかったな」
「え……」
「途中で、やめようと思ったんだが……」
やめられなかった。止まらなかった。ひとたび触れてしまったら、もう……。
その心情は、顕良にもわかっていた。次から次に求められ、貫かれ、取り込まれる。わずかな時間も別々のものではいられないほど、熱く激しい情炎。それに焼かれて、自分は灰になった。
「いいんです」
顕良は言った。
「あなたに、応えられたから」
そう。それこそが、ぼくの望んでいたこと。
鬼堂に出会う前のことを思い出す。
あのころは、生きているのがつらかった。けれど死ぬこともできなくて。生と死のはざまで、もがくように日々を送っていた。
なにができる? なにもできない。なにかしなくては。でも、なにができる?
毎日が、その繰り返し。そんなときに。
完璧に張られた結界を解いて、この男は現れた。まっすぐに向けられた瞳。おのれの為すことに対して、一片の迷いもない。いや、あるとしても、それをねじ伏せ、踏み越えていくだけの強さが、そこにはあった。
一瞬、この男なら自分を彼岸へ送ってくれるかもしれないと思った。母の思念をも陵駕して。
もっとも、さすがにそれは成らなかったが……。
「だから、いいんですよ」
微笑みとともに、告げる。
鬼堂は唇を結んで、横を向いた。顕良はそっと箸を置き、
「膳を、下げてください」
朝餉はまだ半分ほど残っていた。が、それをどうこう言うこともなく、鬼堂は膳を引いた。
「休みます」
顕良の言葉に、鬼堂はふたたび褥を整えた。几帳をずらして、朝の光が寝所に入らぬようにする。
「じゃあな」
ぶっきらぼうにそう言って、鬼堂は御簾の外に出た。膳を片づける音がする。ややあって、房の中から鬼堂の気配が消えた。
たぶん、自分は臆病なのだろう。あの男が離れていくことを、このうえなく恐れている。
顕良は逗子(ずし)の中から守り袋を取り出した。鬼堂が都へ赴くときに渡そうとしたそれには、じつは密かに呪が封じられていた。
『汝、往(ゆ)きてまた戻るべし』
必ず帰ってくるように。そんな願いを込めた呪であった。結果的に、そんな呪など用いなくても、あの男はここに戻ってきたのだが。
近いうちに、これは処分しよう。呪を解いて、母の眠る墓所に埋めて。
守り袋を、ふたたび逗子に戻す。顕良は上衣を衣桁にかけて、褥に横たわった。
昨夜、いくたびも情を交わした同じ場所で、いま、自分はまどろんでいる。やわらかな空気に包まれて。
安らぎとは、こういうものなのだ。
そう納得して、顕良は眠りに落ちていった。
(了)
|