|
花霞〜はながすみ〜 by 近衛 遼
「わたくし、顕良おにいさまを見直しましたわ」
和の国の都。北町通りにある春日伯爵家の本宅で、春日家の一姫、まひるはそう言った。
「いえ、もちろんずっと、とても素晴らしいおかただと思っておりましたが、以前は諸事ひかえめで……。ほんに、見ていて歯がゆいほどでしたのに」
くすくすと笑って、続ける。
「清興おにいさまも、もう少し顕良おにいさまのお心を汲み取ってくださればねえ」
それを、あのイノシシ野郎に期待するのはムリだろう。
香り高い茶を飲みながら、鬼堂は思った。ちなみにその茶は、まひるが手ずから点てたものである。
「あら、鬼堂さま。そのお作法はいけませんわ。せめてこう、お手を添えてくださいませ」
おっとりとした口調とは裏腹に、なんとも厳しい視線が向けられる。
「……こうかよ」
言われた通りに直すと、まひるはにっこりとして、
「さようでございます。ご存じなら、はじめからそのようになさってください」
「知らねえよ、そんなこと」
「まあ、では、ひとつ新しいことを学べて、よろしゅうございましたわね」
「姫さん……」
もう、なにも言い返す気が起きない。
先生よ。あんた、もしかして、とんでもねえクジを引いちまったかもな。
あらためて、そう思う。ちなみに「先生」とは、先年の物の怪騒ぎの折に知り合った術者、中務信行のことである。彼は鬼堂の相棒の術者である岷に諸々の術を教えてくれて、それが結果的に物の怪騒動の解決に繋がった。
「先生は、自分を捕まえてほしかったんだと思うよ」
話が信行のことに及んだとき、岷が言った。
「でなきゃ、わざわざ自分の術の波長をオレに教えたりしないって」
それによって、岷は信行が物の怪騒ぎに関わっていると気づいた。そして、裏で画策している人物のことも、やがて明らかになって。
「なーんか、ヘンだなーとは思ってたんだ。先生ってば、わりとカンタンに術の核の部分まで見せてくれたから」
赤毛をかき上げて、岷は続けた。
「ふつう、そーゆーのって直弟子にしか教えないもんなのよ。中には弟子にすら教えない石頭もいて、こっちは盗むしかなくてね」
過去、何人かの師匠の技を盗み取ったことがあるらしい岷は片頬を歪ませた。
「そりゃ、たいしたもんだな」
鬼堂が言うと、岷は首を傾げた。
「なによ、それ。技を盗むぐらい、だれだって……」
「そうじゃねえよ。信行卿は、おまえになら知られてもいいと思ったんだろ」
あのとき、まだ自分たちは信行を疑ってはいなかった。いや、かえって、気の毒に思っていたくらいだ。物の怪の調伏に失敗し、その汚名挽回に努めているのだろう、と。
「おまえが張った結界を見て、きっと……」
「ふーん。だったら、オレってけっこうイケてるじゃん」
にんまりと笑って、岷はまひるから差し出された茶を、作法通りに喫した。茶碗を戴いて、そっと戻す。まひるはそれを、満足げに見ていた。
「もう一服、いかが?」
「いいえ、けっこうです」
岷が答えると、まひるは茶碗を引いた。
「今日は久しぶりに、楽しいお稽古でしたわ」
まひるは袱紗を捌きながら、言った。
「鬼堂さまと岷さまは、いつまでこちらにおいでですの?」
「若さまが帰るって言うまではいるよー」
軽い口調で岷が答えると、
「ということは、あと二、三日ですわね」
ほう、と、ため息をつく。
「畏れ多くも、ひとたび内定した出仕のお話をご辞退申し上げたからには、そうそう長くこちらにおいでになるとは思えませんし」
それは、そうだ。
昨日、顕良は王城に上がり、正式に官位を返上する旨を上奏した。清興は失神せんばかりの状態になったが、和王はたいそう心の広い人物であったらしく、「それもまた愉し」と快くそれを許した。
もしもの場合は、それこそ一命をもって処するべしと覚悟を決めていた清顕も、王の寛容な態度にただただ感謝した。
「そなたが薬師となるのなら、その持てる力すべてを和の国と御上に捧げよ」
決して、おのれの栄達を求めずに。
清顕の言葉に、顕良はただ静かに平伏した。それが昨夜のこと。
「また顕良おにいさまと離れ離れになってしまうと思うと、寂しいですわ」
「だったら、姫さまが山荘に来ればいいじゃん」
「おい、岷。そんなことができるわけねえだろ」
鬼堂がぼそりと言うと、
「そうですわね!」
まひるが、ぽん、と、手を打ち、
「その方法がありました」
「おい、姫さん。こいつの冗談を真に受けるんじゃねえ」
まじで、冗談じゃねえぞ。顕良だけでなく、この向こう見ずな姫さんの面倒まで見なくちゃならねえなんて……。
「わたくし、ほとんど都を離れたことがありませんの。雲海山にも、幼いころに二度ばかり行っただけで。この際ですわ。ぜひとも、連れていってくださいましな」
すっかり、その気になっている。
「鬼堂さまと岷さまがいらっしゃれば、おとうさまやおかあさまも反対はなさらないわ。わたくし、いまからお願いに上がります」
茶道具の後始末もそこそこに、まひるは立ち上がった。側仕えの侍女は、あまりの事の成り行きに、半分パニックになっている。
「早苗(さなえ)、なにをしているの? まいりますよ」
侍女を急かして、房をあとにする。早苗と呼ばれた侍女は、あたふたとそれに続いた。
「………どうすんだよ」
可聴音ぎりぎりで、鬼堂が訊く。
「どうするって……ま、仕方ないじゃん」
ちろりと横を見遣って、岷。
「姫さんの担当は、おまえだぞ」
「はいはい。鬼堂ちゃんは、若さまで手いっぱいだもんねー」
昼も夜も、と、こっそり続ける。
「やかましい」
ごん、と、拳を赤毛に落とす。
「うわ、いってーっ。……もー、なにすんのよ、鬼堂ちゃん」
「どうかしたのですか」
岷が頭を抱えているところに、顕良が現れた。
「いま、まひるがたいへんな勢いでお方さまのところに向かったようなのですが……」
清顕は王城に上がっていて留守らしい。
「あ、若さま。じつはねー」
地獄に仏とばかりに顕良の横に逃げ込み、岷はそれまでの経緯を話した。
「……とゆーワケなのよ。いいでしょ、若さま?」
「ぼくは、べつにかまいませんが……」
困ったような顔で、語を繋ぐ。
「父上やお方さまは、どうお思いになるか」
「そんなの、オッケーに決まってるじゃん。イロイロあったから、甘くなってるだろうしねー」
たしかに、今回のことで、表向きは菅家との縁談が破談になったのだ。まひるがしばらく都を離れても、傷心ゆえと同情されこそすれ、異を唱える者はいないはずだ。
「あなたがたさえよければ、ぼくに異存はありません」
顕良はにっこりと笑った。
「まひるには兄らしいことはなにもできず、ずっと心配ばかりかけていました。信行どののおられないあいだ、まひるの寂しさを慰めることができるなら、これ以上、うれしいことはありません」
やはり、応えたいのだろう。たとえ少しでも、自分に向けられた思いに。それをひとつひとつ成し遂げていくことで、きっとこいつは自分を確立するのだ。
「……わかったよ」
鬼堂は、ぶっきらぼうに答えた。
「けど、それだと、山荘の警備をいまより強化しなきゃなんねえ。今夜にでも、伯爵と打ち合わせするぞ」
「はいはーい。そのへんの手筈は、オレにまっかせて〜」
ぴょん、と、立ち上がり、岷は房を出ていった。なんとも、素早い男である。
炉には、まだ湯がちんちんと沸いていた。
「いろいろと……お世話になります」
顕良は炉の前にすわった。
「よろしければ、一服いかがですか」
「……薄目にしてくれ」
「はい」
ゆっくりと、しかし流れるような所作で茶が点てられる。早緑色の茶は、露草の青にも似た茶碗の中で美しく成熟した。
すっ、と差し出されたそれを、鬼堂は無造作に飲み干した。顕良はなにも言わない。
ひざの前に茶碗を戻す。顕良の手がそれを引こうとした。その瞬間。
手を掴んで、細い体を引き寄せる。覚えのある体温と匂いが腕(かいな)に取り込まれる。
顕良は抗わなかった。ひっそりとした口付けが交わされる。ふたりとも、そのまましばらく動かなかった。ややあって。
「で、どこにするよ」
低い声で、鬼堂は訊いた。
「え?」
顕良は目を見開いた。
「姫さんの部屋だよ。おまえの寝所の近所だと、その……」
いろいろ、諸々、かなり不都合が生じる。
「ああ、そうですね」
くすりと笑って、顕良は暫時、思案した。
「では、萩野の局の近くではいかがでしょう」
「……なるほどな」
春日家古参の侍女、萩野。彼女なら、まひるの世話を完璧に行なえるだろう。
格子から、うららかな陽射しが差し込んでいる。外は爛漫の春。
夢のような花霞の向こうに、まちがいなく自分たちの日常があることを確信して、ふたりはふたたび唇を重ねた。
(了)
|