短夜〜みじかよ〜 by近衛 遼 「慮外者!」 広間に英泉の声が響いた。直後に、頬を鳴らす鋭い音。その場にいた者たちは一瞬、息を飲んだ。 「この砦の長はだれか」 眼前に跪座する男を見下ろして、英泉は言った。 「御身だ」 馮夷は床の一点を見据えて、答えた。 「そうだ。私だ」 踵を返し、首座に戻る。 「その私にひと言もなく、勝手に動くことは許さぬ。今後、再びこのようなことあらば、きさまがいかに有能であろうと切り捨てる。心しておけ」 「御意」 深々と、首を垂れる。英泉は拳を握り締めたまま、横にいた源宇に目配せをした。源宇はゆっくりと頷いた。 「決まりだから、悪く思うなよ」 ぼそりと言って、馮夷の手首に枷をはめる。 「連れていけ」 源宇が命じる。警護役の部下が二人、両脇を抱えるようにして馮夷を連行していった。 事の起こりは、江の国との国境地帯の小競り合いだった。 槐の国の特産品である香味野菜は清水の豊かな高地でしか生産されず、平地の多い江の国では珍重されている。一方、宗の国ではその独特の香りが敬遠されていて、それらの野菜は主に江の国と和の国に輸出されていた。 毎年、七夕を過ぎるころに収穫のピークを迎えるのだが、今年は冷夏で、大暑になっても例年の七割あまりしか出荷できず、勢い、財力のある和の国にその多くが流れた。 それを面白く思わなかったのが、江の国の商業同盟ともいうべき「座」の面々である。出荷量が少ないのは致し方ないにしても、和の国を優先するとは何事かということらしい。 当初、槐の国は江の国に対して補償を行なう用意があった。が、金よりも現品を望んだ一部の商人たちが、私兵を使って和の国へ向かう荷を差し押さえてしまった。これを発端として国境での緊張が高まり、現在、槐の国は江の国からの入国をことごとく拒否している。 そんな折、逆に法外な手数料を取って江の国へ物品を横流している輩がいるという情報が、王城に寄せられた。 これが事実であれば、ますます国境地帯の混乱を招く。槐王である籐司は、天坐の砦を与る英泉にその始末を命じた。 密輸を請け負っているのは、津の国から流れてきた盗賊たちであるらしい。かなり組織的に動いており、こちらもそれなりに準備を整えてかからねばならない。 英泉は囮の部隊も含めて三つの班を構成し、それぞれに策を授けた。 「荷が江の国に入った時点で叩く。よいな」 英泉の命令に、一同は頷いた。否。ひとりを除いて。 「ひとつ、訊くが」 馮夷だった。 「なんだ」 「皆、始末してよいのだな」 「なに?」 「荷を送る方も受け取る方も、両方とも潰してよいのかと訊いている」 「それは……」 英泉は考えた。籐司からの下知は、槐の国から不正に荷を国外に運ぼうとしている一味の殲滅だ。江の国側の者たちについては、命を受けていない。 その旨を告げると、馮夷はわずかに眉をひそめた。 「手ぬるいな。こちらだけ潰しても、また不穏なことを考える者が出てくるだろうに」 たしかにこの際、一気に双方を始末した方がいいのかもしれない。しかし、自分がそれを命じていいものだろうか。籐司の意向も伺わずに。 現場には現場でしか見えぬものもあろう。それは承知しているが、ここで先走って取り返しのつかぬことになっても困る。 「こちら側だけでよい」 逡巡ののち、英泉は言った。馮夷は席を立ち、 「ならば、下の者どもに出立の用意をさせよう」 広間にいた者たちも、それぞれに散っていく。その背を見送りながら、英泉は自分の判断が揺らぐのを感じていた。 三班に分かれた実動部隊が復命を果たしたのは、砦を出て四日目の夕刻のことだった。馮夷から子細を聞いて、英泉は耳を疑った。 なんと、彼らは密輸に関わった者たちをすべて処分し、その荷を持ち帰ったというのだ。 「どういうことだ。私は、こちら側の者たちだけ始末しろと……」 「手ぬるいと言ったはずだ」 ひっそりと、馮夷。 「荷の中には、野菜だけではなく宝石などの盗品も含まれていた。一挙に叩いておくのが得策だ」 「きさま、まさか……」 英泉は、そろそろと立ち上がった。 「わしが命じた。両方ともやれ、と」 「慮外者!」 英泉の手が、馮夷の頬を鳴らした。 いまなら、わかる。 おそらく、あれが最善の策だったと。 自ら天呈の城まで出向き、事の次第を報告したとき、籐司はただ「大儀」とだけ呟いた。状況によってはそれも止むなしと考えていたのか、あるいは結果がよければそれでいいと判断したのか。 いずれにしても、籐司からはなんの咎めもなく、奪ってきた荷は天坐の砦で管理するよう言い渡された。 荷に盗品が混じっているという情報を、いつ、馮夷は手に入れたのだろう。出立前の会議のときには、まだそんな話はなかった。とすると、あのあとか。 もしかしたら、すでに皆が砦を出てからだったかもしれない。それゆえ自分に報告する暇もなく、各班に双方を殲滅して荷を没収するよう指示を出したのだろう。 冷静さ、正確さ、そしてその時々に応じての判断の早さ。 どれも自分にはない。あったとしても絶対的に足りない。この砦を与って、三月あまり。やっとなんとか回りはじめたと思っていたのに。 こんな人間が、いつまでも上に立っていていいのだろうか。ただ、王族だというだけで。 皆は忠実に従ってくれるが、それさえもいまの自分には重い。うっかりすると、倒れてしまいそうなほどに。 馮夷に謹慎を命じて、五日たつ。獄の中で、あの男はなにを考えているだろう。不甲斐ない長を見限ってくれてもいい。なんなら、私を排してくれても……。 『そのような甘い考えでは困る』 ふいに、耳の奥で声がした。 遠話か? いや、違う。これは、あのときの声。白濁した瞳を見上げながら、自分はあの男に抱かれた。 忘れるな、と。一生、おのが痛みを背負っていけ、と。 あの男はそれをこの身に刻みつけていった。荒々しく、容赦なく。 牀に上に腰を下ろし、英泉は自分で自分を抱きしめた。 謹慎が明けた日。 馮夷は英泉の前に現れなかった。源宇によると、獄にいたあいだ、水と干した果実しか口にしなかったらしい。 「意地を張るなと言ったんですがねえ。おかげで、頬がげっそりこけちまって。見苦しいから、しばらくは遠慮するそうで」 例によって砕けた口調で、源宇は言った。 なんということを。英泉は唇を噛み締めた。謹慎は命じたが、そこまでしろと言った覚えはない。 「二、三日うちには出てくるでしょうが、あんまり責めないでやってくださいよ。やつはやつなりに、考えた上のことだったんですから」 わかっている。そう。わかっているとも。 「責めたりはせぬ」 短く答えた。 「謹慎はもう明けた。なにを責めるいわれがある」 「だったら、いいんですがね」 にんまりと笑って、そのまま下がる。 「されば、これにて」 芝居のように大袈裟な所作で一礼し、源宇は房を辞した。 なぜあの男は、獄の中で食を断つような真似をしたのだろう。 その夜、英泉はなかなか寝つけなかった。枷をはめられ、引き立てられていった馮夷の姿が脳裡に浮かぶ。私に器量がなかったために、おまえにいらざる負担をかけてしまった。 「身がもたぬぞ」 闇の中、這うように声が聞こえた。 「いちいち気に病んでいては」 扉が開いた気配もなかったのに、その人影はすでに牀の幕の中にいた。 「馮夷……」 「過ぎたことを云々するのは愚かだ」 やや細くなったあご。くぼんだ目。それでも、その眼差しの鋭さは変わらない。 近づいてくる瞳を見つめる。黒い左眼、白濁した右眼。大丈夫なのだろうか。一週間ちかくも、まともに食事を摂っていなかったというのに。 問いたかった。だが、のどの奥になにかが詰まったように声が出ない。 ふいに馮夷の手が喉元にかかった。びくりと体が震える。そのままどさりと牀の上に倒された。 「ん……っ」 ひんやりとした口付け。夜着の胸元が大きく開かれる。ゆるく結んであった帯はいとも簡単に解かれた。覚えのある感覚に、思考がだんだん奪われていく。 わからない。自分のことも、この男のことも。ただひとつわかっているのは……。 狂うほどの激流に、英泉は身を委ねた。 扉を閉める音が聞こえる。 うつらうつらとしながら、英泉はその音を聞いた。寝返りをうつ気力もない。体が、まるで自分のものではないような気がした。 眠ろう。いまは。 夏の夜は短い。暁の色を見る前に。あの男の名残りが消えぬうちに。 薄い毛布に身をくるみ、英泉は深い淵へと落ちていった。 (了) |