眠りつくまで by 近衛 遼 寝息を聞く。 あたたかな体温を感じる。 先刻までの交流の余韻に浸る。 細胞のひとつひとつが満ち足りて……。 苦しいほどに、うれしかった。真。あんたがここに、いることが。 薄い月明かりの差し込む東館の一室。暁は真の寝顔を見つめていた。 本当に、還ってきたんだね。俺のところに。あんなにもあんたを貶めて、壊して、踏みにじった俺なのに。 記憶が、まざまざと甦る。 俺は楽しんでさえいた。ことさらに蔑んで、思うままに弄んで。幼い子供が砂の城を潰して遊ぶように。 『アンタは犬以下だ』 『ほんとはすっごい淫乱なんじゃないの』 『ほーら。もう脚、開いてる』 最低の言葉の数々。俺は、真を傷つけて支配することに無上の喜びを感じていた。 生まれたときから御影となるべく教育されたエリート。御影としての仕事をまっとうしているかぎり、なにをしても許される。そういった尊大な意識を、なんの疑問もなく持っていたから。 あのころの真は、いつ狂ってもおかしくない状態だったはずだ。心も体もずたずたにされて、逃げることも死ぬこともできず。自分はそんな地獄を真に与え続けた。 『ここにいるよ』 幼い日、なんの迷いもなくそう言ってくれた真に。 どれほどの絶望だっただろう。一日が一年にも十年にも感じたに違いない。死ぬことだけを希望とするしかない日々を、真はただ諾々と耐えた。 (へーえ。まだ潰れないの。強情だねえ) 「焔」の意識を持っていたときの自分は、そう考えていた。 (ま、長く愉しめそうだから、いいけどね) 使い応えのある玩具を手に入れた気分だった。どんなに乱暴に扱ってもいい。しばらく遊んで、飽きたらそこいらのヤツにくれてやる。みんな、さぞ喜ぶだろう。 じつのところ、それまでにも何人かの新入りや捕虜を気紛れに犯した挙げ句に、おこぼれを待っているような男たちの中に放り込んだことがあった。畜生にも劣る行為。そのせいで発狂したり自害したりした者たちに対して、自分はなんの感情も持たなかった。 真に対しても、最初はただ欲望の捌け口としか考えていなかった。炎の中で出会ったとき、ほんの一瞬、懐かしい気持ちを感じたけれど、そんなものは次の瞬間には跡形もなく消えていた。 力ずくで奪い、御影本部に強引に呼び寄せ、昼も夜も蹂躙した。ただのオモチャだと思っていたのが、少しずつ変化していったのはいつごろからだったろう。 『暁』 うわ言のように、真がそう呼んだときか。 「暁」? だれだよ、それ。 夢の中で、真はそいつを求めている。そう思ったとき、無性に腹立たしくなった。 渡さない。心の奥底に、強烈な意志が芽生えた。こいつは俺のものだ。だれにも渡さない。 「真」という人間自身に執着したのは、それがはじめてだった。 そのあとは、ひたすらに真を欲した。俺から離れるのは許さない。目を逸らすのも我慢できない。あんたは俺だけを見ていればいい。 飢えていたのだ。いまなら、わかる。 どれほど傲慢に振舞おうと、好き勝手に日々を送ろうと、自分にはいちばん大切なものが欠けていたから。 「……」 真がなにごとか呟いて身じろいだ。ゆっくりと、双眸が開く。 「暁……」 やや掠れた声で、真は言った。 「ずっと、起きてたのか?」 「え、あ……うん」 なんとなく、ばつが悪かった。真はわずかに上体を起こした。 「もしかして、眠れないのか」 心配そうに、訊く。これはあのときと同じ。昔、苦しい夢にうなされると話したときと。 「眠りたくなかったんだよ」 あんたをもっと感じていたくて。 唇を重ねた。背に手を回して抱きしめる。 二度とふたたび、こんなふうにできないと思っていた。天角の砦で、あんたの意識を「視た」とき。 終わりだと思った。 自分が何者かを知って。真の痛いまでの思いを視て。 許されてはいけない。自分は「焔」のまま死んでいこう。醜いままで、救いなどないままに。 だから、あんたに「気」を分けた。「呪」の発動を知って、わざとあんたを遠ざけた。 これでいい。これで、もう真は苦しまなくていい。 そのあとのことは、ほとんど覚えていない。紅蓮の中で、自分が本当の獣になったような気がして。 もう少しで燃え尽きると思ったとき、その炎ごと包み込んでくれるなにかに出会った。そして……。 唇がはなれる。真が大きく息をついた。 「……暁」 「うん?」 「ここに、いるから」 「真……」 暁は鬱金色の目を見開いた。 「だから、眠ろう」 大丈夫だから。 穏やかな笑みが向けられる。目の前にあるはずの真の顔が、ぼやけていくのがわかった。 大切なもの。失いたくないもの。俺は一度、それを失った。 もういやだ。もう二度と、なくしたくない。 腕の中に、なにものにも替えがたい存在がある。 『眠ろう』 そうだね、真。一緒に眠ろう。 終わらない闇。無窮の孤独。 その修羅から、やっと解き放たれたのだから。 (了) |