花扇小話〜『注意一秒、恋一生!』(本編ACT9参照)番外編〜 by 近衛 遼




 居酒屋のバイトは嫌いではない。
 なんといっても食事付きだし、うまくすれば客にビールの一杯もおごってもらえる。店長は仕事中に酒なんか飲むなと言うが、酒を出す店なのだから、ちょっとぐらいアルコールが入ってる方が酒に合う味のものを作れると思うのだが……まあ、そこのところは見解の相違ってやつで仕方ない。
「黄金丸、おまえ、またビール飲んどるんか?」
 遅れて来といて、文句言うなや。
 頭の中で愚痴りつつ、黄金丸と呼ばれた男は店長の杉田に満面の笑みを向けた。
「すんませんー。松井課長のおごりなんですわ。断るんも悪い思うて」
「へえ、松井さんの」
 店長は、カウンターにすわっていた常連の客に会釈した。
「まいど、おおきに。せやけど、こいつがたかったんとちゃいますか」
「店長、人聞き悪いこと言わんといてえな」
 忠義が抗議する。
「マルちゃんがそんなことするかいな。今日はちょっとええことがあったんや。一杯ぐらい、おごらしてもろてもええやろ」
 松井はたしかに、ごきげんだった。付出しのかぼちゃのそぼろ煮をおいしそうに口に運んでいる。
「はあ、それやったらええんですけど」
 店長は苦笑いをしながら、奥に入った。
「……ほな、松井さん。これ、お返しです」
 忠義はお手塩(銘銘皿)に焼鳥を乗せて、差し出した。砂肝の塩焼き。松井の好物である。
「こりゃ、すまんなあ、マルちゃん。これやから、わし、マルちゃんが好きやねん」
「そら、どうも」
 ぺこりと頭を下げる。
 一丁上がり。これでおそらく、今夜はいつもよりたくさんジョッキを空けてくれるだろう。「本日のおすすめ」の、関アジぐらい注文してくれるかもしれない。
 あっさりとした焼鳥と、新鮮な刺身が売り物の居酒屋「花扇」。ここでバイトをするのは、じつは久しぶりである。
 年末年始はほぼ毎日、厨房に入っていたが、春先からは夜間工事や駐車場の誘導員などの仕事が多くなって、この店にはご無沙汰していた。
 それでも常連の客が彼を覚えているのは、彼の外見が一風変わっているからかもしれない。
 金髪の若者など最近はめずらしくもないが、背中まで届く長髪を編み込みにしたりポニーテールにしたり、結い上げたりしている男は少ないだろう。最初は店長も彼を女性だと思っていて、男だと知ったあともしばらくはニューハーフではないかと疑っていたらしい。
 もともと彫りの深い華やかな顔立ちなのだが、アマチュアバンドのボーカルをしていることもあって、自分を目立たせる術を心得ている。しかも話術が巧みで、嫌みなところがないものだから、一度彼を見た者はたいてい好印象とともにその名を記憶に留める。
 黄金丸忠義。見かけとは、思いっきりかけ離れた本名だ。
「黄金丸? ほんまかいな」
 ほとんどの人が口にする疑問である。
「マルちゃん、手羽先、塩でな」
 松井が追加注文をする。奥の座敷からも、いくつか串焼きのオーダーがあって、忠義は焼き台の前で奮戦していた。
「ねえちゃん、ええ手付きやなあ」
 ついさっき来たばかりの客が、カウンターごしに厨房をのぞきこんで言った。
 年は五十代後半か、あるいは還暦を超えているかもしれない。小柄な、いかにも人のよさそうな感じの男だった。
「ねぎまとつくね、頼むわ」
「何本します?」
 ねえちゃん、と呼ばれることは慣れっこだ。忠義は串を返しながら、訊いた。
「何本て、一本ずつでもええんか」
 どうやら、はじめての客らしい。この店は、串は一本から、刺身は三切れからというのが売りなのだ。
 注文したのはいいが口に合わなかった、というのはもったいない。とりあえず「お試し」感覚でいろいろなメニューを選んでもらえるように、少量で低価格の設定をしている。
「いいですよー。どうします?」
「ほな、一本ずつ。それから、とり皮と肝とささみも」
「おおきに」
 にこっと笑顔を向ける。客はビールのジョッキを掲げて、それに答えた。
 午後十一時も過ぎて、終電の心配もしなければならなくなったころ、店のドアが開いて忠義の見知った顔が現れた。
「いらっしゃーい。……あれえ、乾さん」
「なんや、黄金丸。おまえ、またここでバイト始めたんか」
 四十半ばぐらいの長身の男が、カウンターの端に腰掛けた。バイトの女の子が付出しを運ぶ。
「いやあ、今日はピンチヒッターですねん。ダチが急に都合悪うなってしもて」
 乾は、以前忠義のバンドが楽器を購入した「ステップ」という楽器店の店主だ。「花扇」の常連で、年末にはこの店で忘年会をやった。そのとき忠義は、新品同様の中古の楽器を安く売ってくれたお礼も兼ねて、何曲かギター片手に歌ったことがある。
「そうかー。で、ライブの方はどうやねん」
「まあ、ぼちぼちですわ」
 夏休みにはいくつか予定が入っている。そのための衣装代や、練習用のスタジオ代を稼がなければならない。
「ライブやて?」
 横から、忠義を「ねえちゃん」と呼んだ小柄な男が言った。カウンターには小皿がずらりと並んでいる。彼は串焼きを一本ずつ、全種類注文したのだ。
「ああ、こいつ、バンドやっとるんですわ。いっちょまえにボーカルで……え、もしかして……」
 乾が、付出しのかぼちゃをぽとりと落とした。小鉢の中だったので、不幸中の幸いといったところか。
「あの……失礼ですが、川合さんですか?」
「はあ。そうやけど。……どっかで会うたことおましたかいな」
 男はジョッキを置いて、訊ねた。
「いや、じかにお目にかかったんははじめてですけど。まえに、お宅さんに楽器使うてもらえんかと思うて、伺うたことあるんですわ」
「ああ、『スキップ』さんやったかな」
「『ステップ』です。よく間違えられますが」
「そうそう。『ステップ』さん。……資料は見してもらいましたで」
 川合と呼ばれた小男は、再びジョッキに手を伸ばした。四分の一ばかり残っていたビールを飲み干し、
「ねえちゃん、おかわりや」
 忠義にジョッキを差し出す。
「おおきに。……生、一丁!」
 奥に向かって叫ぶ。女の子がカチカチに冷えたジョッキにビールを注いで、川合の前に運んだ。
「なんで、あんなに安いんやろなあ」
 ビールひげを付けつつ、川合は言った。
「なんぞ裏がありそうで恐いわ」
 乾は間髪入れず、
「お試し価格ですわ」
「お試し?」
「うちの商品があかんかったら、いつでも引き取ります。もちろん、そんなことはないと思いますけど」
「えらい自信やなあ」
 川合はちろりと視線を投げた。
「で、お試しが終わったあとは、どうなるんかいな。いきなり倍になっても困るしなあ」
「三割増しぐらいでどうでっしゃろ」
「へえ。三割でっか。まあ、えらい勉強してくれて。それやったら、あんたんとこはえらい損でっしゃろ」
「損なんかしまへん。うちはお宅さんに楽器入れてるていうだけで、格が上がりますさかい」
 乾は川合の隣に席を移した。
「黄金丸、川合さんに関アジとアワビの刺身。わしに付けといて」
「賄賂でっか?」
 川合が言う。
「接待です」
 乾は断言した。
「関アジとアワビ、まいどおおきに!」
 忠義はことさら大きな声で言い、そののちこっそりと続けた。
「なんや、いろいろあるみたいですけど、もう夜も更けてきたことですし、ここは難しい顔せんと。そっちのお客さんも、串がお好きやったらなんか焼きましょか」
 川合は、いままで生ものは口にしていない。もしかしたら刺身は苦手なのではないだろうか。
「せやな。ほな……帆立を頼むわ」
 にいっと笑って、川合が言った。
「帆立の串焼き一本、おおきに!」
 忠義は焼き台に帆立を乗せた。乾は複雑な顔をしている。
 おそらく、関アジとアワビは手をつけられることはないだろう。乾と川合が帰ったあと、バイト仲間で分けて食べよう。
 なにしろ、めったに口にできない高級品なのだから。
 一時間後、二人は席を立った。乾は川合のぶんも払うと言ったが、川合はそれを断った。
「自分が食べたぶんぐらい払いますがな」
 レジの前で財布を開く。
「それより……来週、事務所に来とおくれやす。詳しいことは、あした電話しますさかい」
 そのことばを聞いて、乾はふかぶかと頭を下げた。
「ああ、それから、そこのねえちゃんもな」
「へ?」
 早々に関アジとアワビの皿を引き上げていた忠義は、厨房の中から素っ頓狂な声を出した。
「なんで、おれが」
「……おれ?」
 川合は、呆然と忠義を見た。
 数瞬後、店内に呵々とした笑い声が響く。
「こら、ええわ。ねえちゃん、にいちゃんかいな。ほんま、おもろいわ」
 川合勝男、六十二歳。
 この小男が、知る人ぞ知るライブハウス「キャッツ」のオーナーであると知ったのは、その三分後であった。
 そして。
 黄金丸忠義がボーカルをつとめるアマチュアバンド「くれなゐ太夫」が「キャッツ」の舞台に立ったのは、さらにその三週間後である。


(THE END)

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