| 美酒礼讃〜『注意一秒、恋一生!』番外編〜 by 近衛 遼 十二月に入ってまもなく、本庄凛は北摂大学の推薦入試に合格した。 内申書は楽々クリア。進路主任の宮本は阪神間の国立大学を薦めていただけに、落胆を隠せなかった。 「なあ、本庄。試験だけでも受けてみる気はないんか。おまえが北摂っちゅうんは、もったいないと思うんや」 「なぜですか?」 わずかに首をかしげて、凛は言った。まったくわからない、といった表情。宮本はため息をついた。 「なんでって、おまえ……」 たしかに、推薦の書類を整えたのは宮本だ。北摂大学は推薦枠を設けていても、他校に流れることに寛容であったから。 「先生は、生徒の進路が決まったことを喜んでくれないんですか」 「いや、そういうこと言うてるんやなくて……」 「祖母も了解していますし、問題はないと思うんですけど」 凛は、唇をとがらせて宮本を見上げた。 「……そうか。保護者の了解があるんやったら、まあ、ええけどな」 凛の祖母、本庄多津は滋賀の豪農の女主人で、いまも広大な農地や山林を持っている。学園への寄付も多大で、宮本としてはその人物の機嫌を損ねるのは得策でないと考えたようだ。 「そしたら、北摂大に行くんやな」 「はい」 「まあ、がんばりや」 「いろいろ、ありがとうございました」 凛は礼儀正しく頭を下げて、進路指導室を出た。 「……まったく、疲れるよ」 同じ日の夜。凛は自宅の二階にある自分の部屋で愚痴っていた。 「国立に行くって言った覚えもないのに、勝手に決めて」 「まあまあ。おまえの実力なら、センセがそう考えたって仕方ないて」 逢坂将太は、コンビニで買ってきたさきいかをつまみながら言った。デスクの上にはビールとウーロン茶。将太は缶ビール一本でもう赤くなっている。 今日、将太は凛の合格祝いに招待されて、なぜか赤飯や鯛やはまぐりの吸い物といった祝い膳の調理をした。 一応、本庄家には長年仕えてきた料理人がいるのだが、なにぶん寄る年波に勝てず、しばしば体調を崩している。今日も微熱があるらしく、将太は厨房の手伝いを頼まれ……否、命じられたのだ。 「なますはちゃんと歯応えのあるのんにしよし。年寄りやいうても、ふにゃふにゃのなますなんか、よう頂きまへんえ」 年が明ければ八十三になる多津は、歯科医師会から賞状でももらえそうなほど歯が丈夫だ。なにしろ、自前の歯がまだ二十三本も残っている。 「わかっとるって、おばーちゃん。心配せんでも座敷行っときいな。鯛の串打ちは魚正のおっちゃんにやってもろたし、赤飯はもう蒸籠に入れたし、吸いもんのだしは昆布でええんやろ」 「菓子は千寿屋に頼んでおきましたよってになあ。菓子鉢は鶴亀、懐紙は松葉どすえ」 「まかしとき。お茶は新しいのん開けるんやろ」 勝手知ったるなんとやら。招待というのは名ばかりで、これがもう「当たり前」になって久しい。 何事も最初が肝心というが、この場合もそうだ。将太がはじめて本庄家に来たとき、件の料理人が急病で入院し、客であった彼が厨房に入ってその日の昼食を作った。 炊き込みご飯に豆腐のステーキ。鳥肉と里芋の煮物と若竹汁。さらに蛸の酢の物や蓮根のきんぴらなどを食卓に並べ、その味付けはいたく多津を満足させた。そのときの感想が、 「ま、ようおしやした」 めったに人を誉めない多津にしては、破格のことばである。 今日も凛が学校から帰る前に呼ばれて、祝いの席の準備をした。そして共に夕餉を食べたあと、「遅うなったから、泊まっていき」と勧められたのだ。 遅いといっても、まだ終電には間に合う。 「ええんか、おばーちゃん」 「あした、琵琶湖ホテルで同窓会がおすんや」 多津は旧制の女学校を出ている。 「十一時からやから、遅れんようにな」 要するに、車で送れということだ。 以前はおかかえの運転手がいたが、これもまた老齢になり、三年ばかり前に退職した。新しく人を雇うには費用もかかるうえに多津の眼鏡にかなう者もそうそうなくて、結局、出かけるときはハイヤーを利用することが多くなっていた。 将太が本庄家に出入りするようになってから、多津はたびたび彼に自分の送り迎えをさせている。今回も、そのつもりらしい。 「わかったわかった。ほな、十時半に出たら間に合うな」 「車、洗うといとくれやすな」 どうも多津は、将太を便利な下男のように思っているふしがある。それでも将太が嫌な顔ひとつせずに用事を引き受けているのは、多津が自分を見込んでくれているのがわかるからだ。 人間、だれしも自分を認めてもらうのはうれしい。 もっとも将太の場合、単に頼まれると嫌とは言えない性格なのかもしれないが。 「せやけど、北摂大やったら、こっから二時間以上かかるんちゃうか。毎日通うんはたいへんやな」 「高校だって二時間ちかくかけて通ってるんだから、大丈夫だよ」 凛はこともなげに言った。 「じゃ、ぼくはもう寝るから」 「え、そっ……そうか?」 将太は赤い顔をさらに赤くして立ち上がった。 「ほな、蒲団敷いたるわ」 「いいよ。自分でやるから」 「敷いたるって……」 あわてて押入の前に行こうとして、将太はデスクの角に足をぶつけた。 「痛ってーっ」 「……なにやってるの」 しらけた顔をして、凛が言った。 「ビール一杯で、よくそんなに酔えるね」 「酔うてへん」 「鏡見てごらんよ」 「だれかて、酒飲んだら赤なるて。おまえもそうやろ」 「……ぼくは未成年だよ」 「隠れて飲んだことぐらいあるやろが」 「そりゃ、まあ……」 凛は口ごもった。 「飲んでみるか?」 ちょっとした悪戯心で、将太は言った。 「え、でも……」 「合格祝いや。ばーちゃんには内緒やぞ」 新しいビールを開けてグラスに注ぐ。 「はい。合格おめでとう」 白い泡が盛り上がる。凛はそれを受け取って、口をつけた。見る見るうちに、グラスの中身が消えていく。 「ええ飲みっぷりやなあ」 「やっぱり、ビールは苦いね」 「おまえ、前、なに飲んだん。ワインか?」 「日本酒」 「へえ。いきなりか」 「新潟の大叔父が来たときにね。『上善如水』っていう吟醸酒を少し」 「ああ、それ、飲んだことあるわ。冷やしたらうまいんや」 「うん。さっぱりしてて、飲みやすかった」 「おまえ、立派な酒飲みになりそうやなあ」 将太はさらに、ビールを注いだ。 「べつに、なりたくないよ」 とくに感慨なさげに、凛は答えた。 やがて、缶ビールが五本ばかり空いた。 将太はすっかり首まで赤くなっている。それに対して、その大半を飲んだ凛は顔色ひとつ変わっていない。 「すごいなあ、おまえ」 「そうかな」 凛は壁にもたれて、ちらりと将太を見た。その視線から、ほんの少しいつもの鋭さが消えている。 「ふとん」 「え?」 「敷いてくれるんだろ」 「ああ、蒲団な」 将太は勢いよく立ち上がった。と同時に、 「…ってーっ」 またデスクの角にぶつかった。ごていねいに、先刻と同じ場所だ。 「どこ?」 「へっ?」 「どこ、打ったの」 「ああ、左足の……」 言い終わる前に、凛の手が将太のスウェットを引き下ろした。 「わっ……なにすんねん」 「内出血してる」 左足の大腿部に顔を近づけて、凛は言った。 「そら、二回もぶつけたんやから内出血ぐらいするわな。ちょっと、手ぇはなせや。蒲団敷かれへんやろ」 「あ、そうだね」 あっさりと、凛は将太から離れた。 「ったく、びっくりするやないか」 ぶつぶつ文句を言いつつ、将太は押入から蒲団を引っ張り出した。きっちり糊のきいたシーツをかけ、昼間干しておいた蒲団を敷く。 「敷いたで。ほな、おやすみ」 将太の蒲団は隣の部屋に敷いてある。 「うん」 返事はしたものの、凛は動こうとはしなかった。 「……どないしたんや。もうヒーター消すで」 「だるい」 「なんやて?」 「来て」 「へっ?」 将太は棒立ちになった。 さっきのことといい、これはつまり、「お誘い」と思っていいのだろうか。 「将太」 凛が、ゆっくりと顔を上げた。目もとがほんのりと染まっている。よく見ると耳たぶも桜色だ。 どうやら、いまになって酔いが回ってきたらしい。 「あの……凛、今日はな……」 泊まるつもりではなかったので、その用意をしていない。いや、もしかしたらナップサックの中にひとつぐらい入っているかもしれないが……。 「……だめなの」 抑揚のない声。 「いや、そういうわけやないけど……」 凛からアプローチしてくることなど、めったにない。これを逃せば、次はいつになることか。 「ま、ええか」 あした、車洗う前にシーツ洗濯せなあかんな……。 そんな現実的なことを考えつつ、将太は凛を抱き上げた。 (THE END) |