As you wish by 近衛 遼 ノックの音が聞こえる。 いま、何時だろう。久御山俊紀は目をこすりながら枕元の時計を見た。 午後一時二十分。八時間は眠っていた計算になる。 「そろそろ起きなあかんなあ」 ノックはまだ続いている。久御山は伸びをひとつしてから、起き上がった。 「はいはい。せわしないやっちゃなあ」 髪をかきあげつつ、ドアを開ける。 「いたのか」 そう言って、相馬達海が部屋の中に入ってきた。 「なんやねん、いきなり」 久御山はバランスを崩して、キッチンの前に尻もちをついてしまった。 「なかなか出てこないから、外出しているのかと思った」 「……どれぐらいドアたたいとったん?」 「二分程だと思うが」 「よう余所から文句言われんかったなあ。そんなに長いことドンドンやっとって」 「留守なのだろう。それより、医者には行ったか」 「へ?」 「具合が悪いのだろう?」 昼過ぎまで寝ていたので、勘違いをされたらしい。久御山はひらひらと手を振った。 「ちゃうちゃう。きのう、めちゃくちゃ忙しゅうてなあ。早出やったのに遅番の時間までこき使われて、成り行きで厨房の掃除までしたもんやから、帰ってきたんが今朝の四時やってん」 久御山がアルバイトをしている中華料理店「来福酒家」は、リーズナブルな値段で本格的な味が楽しめると評判の店で、先月タウン誌に載って以来、ますます繁盛しているらしい。 「それは、労働基準法違反ではないのか?」 真面目な顔で、言う。 「まあ、今日はまるまる休みやし、あしたも遅番にしてもろたからええねん。バイト料に色付けてくれたし」 「そうか。安心した」 あいかわらず、声からも表情からも感情を読み取りにくい男だ。が、決して嘘を言わない人間であることはわかっている。だからこそ、自分はこの場所に留まっているのだ。 久御山は流し台の角に手をかけて立ち上がった。 「ちょっと待っとってな。なんか冷たいもんでも入れるわ」 冷蔵庫の中から麦茶を出す。 「で、今日はどないしたん」 とくに約束はしていない。もっとも、久御山の部屋には電話がないので、どちらかの家に直接出向くことが多かったのだが。 「久御山は、七月十二日生まれだと聞いた記憶がある」 「せやけど……あ、今日、十二日やったっけ」 このところ毎日忙しくて、自分の誕生日など忘れていた。 「そうだ。一応、ケーキと蝋燭は持ってきた」 相馬は無造作に下げていた紙袋をずいっと差し出した。 「へえー、そらおおきに。おまえにしては洒落たことして」 久御山は紙袋を受け取った。寝起きで空腹でもあるし、さっそく食べようかと中を見たとたん、 「……なんやのん、これ」 「どうかしたか」 「これ、仏さんのローソクやで」 「家にあったので、それでいいかと思った」 「ええことないわい。それに、このケーキ……」 「何か問題でもあるのか?」 「大ありやっ!」 相馬が買ってきたのは、スポンジケーキだった。なんの飾りもない、ただのスポンジケーキ。 「これはデコレーション用のケーキ台やで。この上に生クリームぬったりイチゴ乗せたりするんや」 「バースデーケーキに最適、と書いてあったのだが」 「せやから、これをベースにして作るんやって……おまえ、もしかして誕生日のお祝い、してもろたことないのん?」 「中学まで祝儀は貰っていたが」 「ほな、ケーキとかプレゼントとかは」 「ない」 きっばりと断言する。哲学者の父とジャーナリストの母と考古学者の祖父とエコロジストの祖母に育てられた相馬が、いくぶん……いや、かなり世間一般とずれているのは知っていたが、誕生日の行事もまともに行なっていなかったとは。久御山は大きくため息をついた。 「はあー、もう、しゃあないなー」 奥に入って、寝間着代わりのTシャツと短パンを脱ぎはじめる。 「久御山」 「なんや」 「今からするのか?」 「あほんだらっ!」 久御山は相馬の顔にTシャツを投げつけた。この状況で、こいつのスイッチが入ったらたいへんだ。 「ケーキの材料とローソク、買いに行くんや。おまえにも付き合うてもらうでっ」 「……わかった」 相馬はぼそりと答えて、Tシャツを洗濯籠に入れた。 駅前の大型スーパーは、食料品の品揃えが充実している。今日は週に一度の全品一割引きの日とあって、大勢の買い物客でにぎわっていた。 「ホイップクリームとイチゴと桃缶とバースデープレートとローソクと……まあ、こんなもんかいな」 久御山はカートを押しながら、ぶつぶつとつぶやいた。 「あと、シャンパンやな」 「我々は未成年だぞ」 「わかっとるがな。ノンアルコールやったらかまへんやろ。ポンッて景気よう栓が抜けたらええんや」 言いながら、緑色の瓶を手に取る。 「なんか食べるもんもほしいなあ。腹減ったし」 なにしろ、起きてから麦茶しか口にしていない。 「久しぶりに寿司でも買おかな。……あ、ラッキー、二割引きや」 嬉々として盛合せ寿司を籠に入れる。さらに豆腐や青ネギなどを放りこみ、 「ほな、これ」 久御山はカートを相馬の方へ押した。 「何だ」 相馬はちろりとカートを見た。 「なにって、もちろん、おまえのおごりやん」 「俺が払うのか」 「あたりまえやろ。今日はおれの誕生日やで。せいだい祝ってもらわんと」 胸を張って、言い切る。相馬は籠を持つと、黙ってレジへと向かった。 「これでいいか?」 支払いをすませて、相馬は籠を差し出した。 「おおきに。えらい散財さしてしもたなー」 久御山はにんまりと笑って、商品を買い物袋に入れはじめた。 「イチゴは傷みやすいから気ぃつけんと……」 備え付けの小さなビニール袋を取る。何度か袋の口を広げようとしたが、指がすべってうまくいかない。 「あー、もう、いっつもこれや」 ふだんの癖で、久御山はぺろりと指先をなめた。 「やっと開いたわ」 イチゴをビニール袋に入れて、寿司や豆腐の上に置く。 「お待っとさん。さーて、ぼちぼち帰ろか……どしたん、相馬」 久御山は首をかしげた。相馬は、身じろぎもせずにこちらを見つめていた。 「……帰る」 「はあ、せやから、帰ろて言うたやん」 「違う」 「へ?」 「今日は、帰る。アパートへは行かない」 相馬はくるりと踵を返した。ずんずんと出口に向かって歩いていく。久御山はあわてて荷物を持って、あとを追った。 「え……ちょっと待ってえな」 スーパーの駐輪場で、ようやく追いついた。 「急に、どないしたん。おまえのぶんも寿司あるねんで」 「要らない」 「残したらもったいないやんか。あ、もしかして、寿司苦手やったんか?」 「好物だ」 「ほんなら、なんで」 「以前、お前の希望を考慮すると約束した」 「なんのこっちゃ」 「いきなり、事に及んではいけないのだろう?」 思い出した。相馬がはじめてアパートに来た日のことだ。 夕食を食べたあと、突然求めてきて……。心の準備も体の準備(?)もろくにないままに、関係を結んだ。そういえば、あのあと、そんなことを言っていたっけ。 たしかに、いきなりは困る。それなりに諸々の用意が必要なのだから。 「妙なとこ、律儀やなあ」 久御山はくすっと笑った。相馬は、犬が「待て」と命じられたときのようにじっとしている。 「まあ、とりあえず行こうや。寿司、腐ってしまうで」 「久御山……」 なにか言おうとする相馬に、買い物袋を渡す。 「腹減ってんねん。早よ帰ろ」 今度は、久御山の方がすたすたと歩き出した。相馬があとに続く。 ちょっと、甘やかしすぎやな……。心の中で苦笑する。 相馬の、無器用な心遣い。自分はいつもそれにかなわない。 とはいえ、さすがに空きっ腹だときついし、昼間から行なうことでもない。相馬にはもうしばらく「待て」の姿勢でいてもらおうと、久御山は思った。 (THE END) |