together  by 近衛 遼




 高校のバスケット部の二十名あまりが、あわただしく「渚亭」の玄関を出ていった。
 このあたりは、あまり交通の便がよくない。路線バスは一日に六本。乗り遅れると、列車との乗り継ぎもめちゃくちゃになる。
「ありがとうございましたあー」
 久御山俊紀は営業スマイルを顔いっぱいに張り付けて、自分とたいして年の違わない少年たちを見送った。
「やっと帰りおったわ」
 ぼそりと、本音をもらす。
 合宿とは名ばかりの四日間だった。部屋でタバコは吸うし、どこからかビールも仕入れてくる。引率の教師はいるのだが、見て見ぬふりといった感じだった。
「来年はご免だよ」
 女将が、教師に引導を渡したのも当然だ。
「みんなにも話は通しておくからね。どこか余所へ行っとくれ」
 要するに、次からはこの町の宿には泊まるなということだ。
 民宿「渚亭」は、いまの女将で三代目。入り婿の亭主は漁師で、先日遠洋に出たばかりだ。
「まったく、あのうすらとんかちが安請け合いするから、こんなことになるんだよ」
 女将はぶつぶつと文句を言った。
 今回の高校生の合宿は、亭主が予約の電話を取ったらしい。たまたま部屋が空いていたので二つ返事で受けたのだが、じつは、その期間は人手が都合できないため、わざと空けていたのだった。
「……というわけなんだけどさー。なんとかなんないかな」
 久御山がバイトしている中華料理店「来福酒家」の調理人、新谷は「渚亭」の次男坊だった。
「トシは盆休み、ずらしてるだろ。一週間ほど、おふくろを手伝ってやってくれないか。もちろん三食付きで、往復の交通費も出すよ」
「ええけど、ほんならおれ、夏中、休みないやんか」
「そのあと、休みが取れるように店長に頼んでおくからさー。頼むよ」
 バイトを始めた当初から、なにかと世話になった新谷に頭を下げられて、久御山は「渚亭」にやってきた。女将の加代子は話し好きな明るい性格で、久御山を歓迎してくれた。
「あらまあ、ひよこみたいな頭して。客間に髪の毛が落ちないように、気をつけてちょうだいな」
 その日の午後から部屋の掃除や配膳、風呂掃除に皿洗いなどをして今日で六日め。アルバイトは明日までだが、今夜は予約も入っておらず、実質的には有給休暇のようなものだ。
「トシちゃん、ご苦労さんだったねえ。部屋の片付けが終わったら、泳ぎに行ってもいいよ」
 加代子が玄関前に塩をまきながら、言った。よほど、いま帰った客が気にいらなかったらしい。
「おおきに。そうさしてもらいます。……おかみさん、ちょっと、塩多すぎるんとちゃいます?」
「ふん。これぐらいしないと、気がすまないからね」
 次に来た客が気分を害するほど(?)大量の塩をまきおわり、加代子は満足げに奥へもどっていった。
「さーて、おれも早いとこ仕事片付けよかな」
 ひとつ伸びをして、玄関に入ろうとしたとき。
 じゃり、と塩を踏む音がして、人影が久御山の背後に現れた。
「ここに泊まりたいのだが」
 聞き覚えのある声。久御山は目を見開いた。
 紺色の綿シャツに、ジーンズ。黒いナップサックを背負ってそこに立っていたのは、やたらと無愛想な、見慣れた顔だった。
「どないしたん、相馬」
「泊まりに来た」
「えらい急な話やなあ」
「満室なのか?」
「いや、さっき団体さんが帰ったとこやから、部屋は空いとるんやけど」
「それなら、何も問題はないな」
 相馬達海は、きしきしと塩を踏み締めて玄関に入った。
「……何だ、これは」
 下足箱の前で、相馬は眉をひそめた。宿のスリッパが、あちらこちらに脱ぎ散らかされている。
「ああ、まだ片付けてへんかってん。悪いな」
「お前が謝ることはない」
「はあ?」
「使った物を元に戻さない方が悪い」
「そらそうやけど……」
 客に説教するわけにもいかない。ましてやバイトの身では。
 久御山が下足箱の周りを片付けはじめると、相馬もスリッパを並べ直して上がり口に置いた。
「これでいいか?」
 相馬の性格そのままに、きっちりと等間隔に並べられている。
「おおきに。お客さんに手伝うてもろて、おかみさんに怒られそうやな」
 久御山はにんまりと笑った。
「ほんなら、ここでちょっと待っといてな。おかみさんにおまえのこと話してくるし」
 未成年者が一人で泊まることはあまり歓迎されない。台所で昼食の準備をしていた加代子に事情を説明すると、彼女は仕事の手を止めて玄関まで出てきた。
「へえ、あんたはひよこじゃないんだね」
 しげしげと相馬を観察する。
「いい面構えだねえ。さっきの高校生とは大違いだ。いいよ、泊まっていっておくれ。まだ部屋が片づいてないから、荷物はトシちゃんとこにでも置いといてもらって……そうだ、あんた、部屋の掃除と洗濯もの干すのを手伝ってくれたら、宿泊料タダでもいいよ」
「それでは採算が取れないのではないか?」
 相馬は首をかしげた。加代子はけらけらと笑って、
「なに難しいこと言ってんだい。昼までに部屋が片付いたら、次の客が入れられるじゃないか。トシちゃんひとりだと日中かかりそうだったから予約は取らなかったけど、飛び込みの客はあるかもしれないからねえ」
 二十人分のふとん干しやシーツの洗濯は、けっこう時間がかかる。散らかり放題の部屋の掃除もしかりであろう。
「どうだい。やってくれるかい」
 加代子は相馬の顔をのぞきこんだ。
「そういうことなら、承知した」
 いつも通りの抑揚のない口調で、相馬はそう言った。


 敷きふとんと掛けふとん、合わせて四十枚あまり。「渚亭」の裏庭はかなり広いので、干すスペースは十分ある。
「よっしゃー、これでラストや」
 久御山は額の汗をぬぐいつつ、夏用の綿毛布を竿竹に掛けた。
「次はシーツやな。脱水終わっとるかなあ」
 洗濯場では、相馬が脱水の終わったシーツやタオルを籠に移していた。
「昨日の宿泊客は、二十一名と聞いたが」
 相馬は憮然として、言った。
「何故、シーツが三十枚もあるのだ?」
「あー、それは、まあ、いろいろあって……」
 久御山は昨夜の騒ぎを思い出して、ため息をついた。
「いろいろ、とは?」
「夜中に酒盛りしよってなあ。ビールをふとんの上にこぼしたりしたもんやから、取り替えたんや」
「高校生が飲酒するのは違法だろう」
「そら、そうやけど……警察にチクるわけにもいかんやろ」
「青少年の更生に尽力するのは、いけないことなのか」
「……更生につながったらええんやどな。たいてい、逆恨みされてロクなことあらへん」
 苦笑まじりにそう言うと、相馬はしばらく手を止めた。
「いつぞやの怪我も、そのせいか」
「けが?」
「右肩だ」
 脱臼の癖がついていた、久御山の肩。久しぶりに再会したときに、相馬はそれを見抜いた。左右のバランスが悪いと言って。
「ああ、あんときの……ま、そうやな。コンビニで万引きしとる二人組を見つけて『なにやっとんねん』て言うたら、いきなり店の外に引っ張っていかれてなあ。災難やったわ」
 それまでにも、似たようなことは何度かあった。外見が外見だけに、繁華街でからまれたことも。
「まあ、ここんとこそんな物騒なこともないから、結構なこっちゃ」
 久御山は籐籠を持ち上げた。
「さ、無駄話しとらんと、干しに行くで」
 ゴムぞうりをぺたぺたとひきずりながら、裏庭に向かう。相馬はもうひとつの籠を手に、そのあとに従った。


 男ふたりの労働力というのは、たいしたものである。
 正午をすぎたころには、ふとん干しとシーツの洗濯は終わり、客間の掃除もほぼ完了していた。あとは風呂場洗いだけという段階になって、加代子はふたりを帳場に呼んだ。
「いやあ、ほんとに助かったよ。さっき、観光協会から電話があってねえ。五名さま四時に到着の予定だから、あんたたち、お昼食べたら二部屋用意してちょうだいな」
「五人で、二部屋使うのん?」
「男三名、女二名っていうことだから、よろしくね」
「ほな、二階の八畳二つでええかな。あそこやったら、もうお茶の用意もできとるし」
「上等だよ。ひとりは子供だっていう話だから、あとで駄菓子でも持っていっとくれ」
 急に予約が入ったということで、台所も忙しそうだった。加代子の長男、豊は漁協から今夜の仕入れをしてきたところで、魚介類の下ごしらえの真っ最中だ。
「ああ、トシちゃん。急なことで、すまんな」
「結構なことですやん。なんか手伝いましょか」
「いや、たいした人数じゃないから大丈夫だよ。それより、昼飯まだだろ。これ、刺身用に取った残りだけど、よかったら食べて」
 豊はボウルを差し出した。中には、新鮮な魚の中落ちや切れ端が入っていた。
「うわー、ええんですか。こんなにたくさん」
 中落ち肉は、しょうゆだれに漬けて丼にすると最高だ。
 じつのところ、久御山はこの数日、バイト料をもらうのが気が引けるほどの食事を食べさせてもらっているのだ。
 結局、久御山が調理して二人分の海鮮たたき丼を作り、相馬とともに台所横の座敷で食べたのが午後二時ごろ。その後、相馬は風呂掃除に向かい、久御山は客間の用意と、すっかり忘れていた玄関の掃除にかかった。
「しっかし、阿呆ほどまいたもんやな」
 久御山は大量の塩をほうきで集めながら、言った。天然塩は粒が大きく、ずっしりとしている。
「おかみさんも加減ちゅうもんがないなあ」
 やっとのことで掃き掃除を終え、三和土(たたき)をモップで拭いていたとき、玄関前の踏石をぴょんぴょんと飛んでくる小さな人影が見えた。
「なーな、はーち、きゅうー」
 幼稚園ぐらいの、女の子だ。
「九つだったよ、おかーさん」
 うしろを向いて、叫ぶ。
「勝手に入ったらだめよ」
 生け垣のむこうから、二十代後半ぐらいの女性がやってきた。小柄である。額の汗を大判のハンカチでぬぐいつつ、玄関をのぞきこんだ。
「すみません、ここのかたですか」
 女性は、にっこり笑って久御山に話しかけた。
「そうですけど」
「観光協会で紹介してもらったんですけど」
「ああ、お泊まりの田島さまですね。どうぞ」
 久御山はモップを脇に置いて、帳場に声をかけた。
「おかみさーん、田島さま、いらっしゃいましたー」
 加代子がエプロンで手をふきながら、奥から出てきた。
「いらっしゃいませ。ようこそおいでくださいまして」
「無理を言って、すみません」
 女性は、ふかぶかと頭を下げた。
「何をおっしゃいますやら。まあまあ、かわいいお嬢ちゃん。おいくつ?」
「五つでーす」
 女の子は、母親と手をつないで答えた。
「ひまわり幼稚園の、にじ組なの」
「しっかりしてるのねえ。……あの、五名さまとお聞きしましたけど」
 加代子は外をうかがった。連れがいるようには見えない。
「すみません。仕事の都合で、あと三名は七時ごろになると思います」
「そうですか。それじゃ、お食事は皆様お揃いになってからの方がよろしいですね」
「お願いします」
 女性は宿帳に記入しながら、にこやかにそう言った。


 その日の夜は、前日とは違った意味で忙しかった。
 あとから来るといった客が車で到着したのが午後八時。一階の座敷で遅めの夕食をとって、女の子とその母親が部屋に引き上げたあと、男たちだけで二次会のようなものが始まってしまった。
 六十代の男ふたりと、三十前の青年がひとり。年配のふたりは青年の父と岳父なのだが、どうやら小学校時代の知り合いらしく、昔話に花が咲いてなかなかお開きにならない。
 結局、男性陣が部屋にもどったのは十一時を過ぎていて、久御山と相馬が後片づけを終えて風呂をすませたのは、午前一時ごろだった。
「ふわーっ……なんや、疲れたなあ」
 久御山は濡れた髪をタオルで拭きながら、ふとんの上にどっかりと腰をおろした。
「晩メシ、残るかと思うたのに漬けもんもあらへん。あのじーさんたち、二人で正味三人分は食うたな」
 「渚亭」の食事は決して少なくはない。サーフィンなどをする若者たちに合わせて、十分な量を用意している。
「それだけ、ここの食事が旨かったのだろう」
 壁にもたれて夕刊を呼んでいた相馬が、至極もっともな意見を述べた。
「そら、そうやけど」
 日付が変わってから台所で食べた、あら煮とワカメの味噌汁は絶品だった。
「なら、良かろう」
 ふたたび、夕刊に目をもどす。
 しばらく、沈黙が流れた。部屋の中は久御山がドライヤーを使う音だけが聞こえている。
「あの……相馬」
 ドライヤーを置いて、久御山は言った。
「何だ」
「なんで、ここに来たん」
 心の奥に引っかかっていたことを口にする。
 どうして今日になって来たのか。明日の夜には帰るとわかっていて。
「迷惑だったか」
「そんなことないけど……ちょっとびっくりしてん」
「それは良かった」
「はあ?」
「びっくりさせようと思ったのだ」
 相馬は夕刊をたたみ、ナップサックの中から白封筒を取り出した。
「昨日、祖父がこれをくれたのでな」
「なんや、それ」
「旅行券だ。中元に、誰かから貰ったらしい」
「……で?」
「夏休みだから、遊びに行ってこいと言われてな。どこにも行く当てがないので返そうかとも思ったのだが、お前が働いている所を見に行くのも面白いと思って」
 大手クレジット会社発行の、高額の旅行券。
「もっとも、宿泊料はタダでいいそうだから、これは無駄になってしまったな」
「ちょっ……ちょっと待て!」
 おもむろに封筒ごと破ろうとした相馬に、久御山が飛びかかった。畳の上に押し倒して、旅行券を奪い取る。

「何だ」
「あほんだらっ。まだ使うてへんねんから、チケットショップに持っていったらええ値段で売れるやろが」
 久御山は、封筒のしわをのばしつつ言った。
「そうか。すまん」
 神妙に、謝る。久御山はため息をつきつつ、相馬の上から離れた。
「まったく、無茶なことするなあ。ほれ、ちゃんと仕舞っときや」
 封筒を差し出した手を、相馬が掴んだ。
「え……」
 この展開は、もしかして……。
「起床は、何時だ」
 真剣な顔で、相馬が訊いた。
「お客さんの朝食が八時やから……六時ぐらいかな」
「あと四時間十五分だな」
「……せやな」
「それでは、もう休もう」
 相馬は手をはなし、部屋の明かりを消した。無言のまま、夏ふとんをかぶって横になる。
 展開、読み違うたかな。久御山は封筒を持ったまま、考えた。
 いや、これは相馬の気遣いかもしれない。四時間あまりしかない睡眠時間を、自分が奪ってはいけないという。
 久御山はそっと、封筒を相馬のナップサックに入れた。
「おやすみ、相馬」
 生乾きの髪のまま、久御山も横になった。
 あしたで、ここのバイトも終わりだ。昼までの約束だから、夕方には相馬と一緒に帰れるだろう。
 びっくりさせたかった。それだけの理由で、ここに来たこの男と。
 わずかに月明りの差し込む暗い部屋の中で、久御山は眠りについた。


 翌朝。
 久御山は五時五十分に相馬に起こされ、寝ぼけまなこのまま台所へ向かった。
「ご苦労さん」
 台所には、すでに加代子と豊がいた。
「座敷の用意、頼んだよ。それから、朝風呂に入りたいってことだから、七時までに風呂場の掃除もね」
「承知した」
 相馬はすたすたと風呂場へ向かった。昨日、自分が風呂掃除をしたので、今日も当然そうするものだと思っているらしい。
「ほな、おれは座敷の方を……」
 久御山は茶碗や湯飲みを盆に乗せた。風呂洗いよりテーブルセッティングの方が数段ラクだ。
 七時すぎに年配の男たちが演歌を歌いながら風呂に入り、八時には座敷に全員姿を見せていた。今日は水族館やクアハウスに行く予定らしい。
「お世話になりました」
 精算を済ませ、五人が宿を出たのは九時半。昨日同様、久御山と相馬が掃除や洗濯を終えたのは十一時過ぎだった。
「ふたりとも、よくやってくれたねえ」
 加代子は自分よりも頭ひとつ高い少年たちの肩を、ぽんぽんと叩いた。
「はい、トシちゃん。ご苦労さんでした。よかったら、また手伝いに来ておくれ」
 言いながら、茶封筒を差し出す。
「おおきに、おかみさん」
 いきなり中身を見るのは失礼だ。久御山は封筒を手に、ぺこりと頭を下げた。
「それから、これは達ちゃんのだよ」
 加代子は相馬にも、茶封筒を差し出した。
「……宿泊料と相殺するのではなかったか?」
「それはきのうの昼までの話だよ。これはゆうべと、今朝のぶん。助かったよ。ありがと」
 相馬は封筒と加代子の顔をしばらく見比べていたが、やがてそっと手を差し出した。
「すまない」
「はあ?」
「予定外の出費をさせた」
「……ばっかだねえ」
 加代子は相馬の頭をがしがしと撫でた。
「そんなこと気にしなくていいんだよ。あんたは働いたんだ。これは正当な報酬なんだからさ」
 相馬は複雑な表情のまま、頭を撫でられている。
「お昼、食べていくだろ。次のバスは三時過ぎだし。干物と酢の物、残ってるからたくさんお食べ。終わったら、茶碗洗っておくれよ」
 加代子はけらけらと笑って、帳場へ入っていった。
「ほんま、おいしいバイトやったな」
 久御山は封筒の中を確認しつつ、言った。
「なあなあ、相馬。昼飯食べたら、海に行こうや」
 バスが来るまで、時間を潰そうという算段だ。相馬は久御山の話を聞いていないかのように、じっと封筒を見つめている。
「……どしたん、相馬」
「どうすればいいのか、考えていた」
「へ?」
「労働の対価として金銭を受け取ったのは、初めてなのだ」
「はあ……そら、結構なこっちゃな」
「結構?」
「働かんでも、金があったっちゅうことやろ。結構なことや」
 事情があって、久御山は親と離れて暮らしている。学費や生活費の足しにするため、中学のころからいろいろなアルバイトを経験してきた。
「ま、はじめて自分で稼いだ金や。好きなことに使うたらええがな」
 おまえは、それができるんやから。
 心の中で続ける。
「そうか」
 相馬は、じっと久御山を見た。
「では、そうする」
 相馬は封筒をたたんで、ジーンズのポケットに仕舞った。


 八月下旬の海。
「なんや、侘しいなあ」
 平日ということもあって、数えるほどしか人がいない。
「まあ、貸し切りみたいで面白いけど」
 久御山は、一軒だけ開いていた海の家に腰掛けてつぶやいた。調理場では、五十半ばぐらいのおやじが、薄汚れたタオルを首にかけて新聞を読んでいる。
 相馬は先刻から波打ち際に立って、なにやらぶつぶつと言っている。きっと風向きやら波の高さなどを計算しているのだろう。
「ターミネーターみたいなやつやな」
 とけかけた氷イチゴをずずっとすすりながら、久御山は考えた。
 四角四面なことばかり言うかと思えば、ときおり心が崩れるほど優しい面も見せる。相馬を自分のテリトリーに入れたことは、もしかしたら失敗だったのだろうか。
 あのとき、自分は迷っていた。二年ぶりに、再会したとき。
 迷いつづけていた自分と、ずっと考えていた相馬。差は歴然としていた。相馬は結論を出し、自分はそれに身をまかせた。
 まかせた、という言い方が適当でないなら、乗った、とでもいうか。苦しみから逃れるために、利用しただけかもしれない。
「泳がないのか」
 ぬっと、相馬が久御山の前に立った。
「え……ああ、塩水に顔つけるの、苦手やねん。目、滲みるし」
 海辺は好きだが、じつはプールでしか泳いだことがない。
「それなら、顔をつけなければよかろう。波は高くない。腰までの水深ならまず安全だ」
 相馬は久御山の腕を取った。ずんずんと砂浜を進む。
 足が濡れた砂に沈む。白い波が足首にからみついては散っていく。プールとは違う、主張のある動きだ。
「これ以上沖に行くと、水温が下がる。このあたりが泳ぐには最適だ」
 みぞおちぐらいの深さのところで、相馬は言った。
「背泳はできるか」
「はいえい? ……ああ、背泳ぎな。できんこともないけど、手足動かしとるうちに沈んでしまうんや」
「力を入れすぎるからだ」
「入れとるつもりはないんやけどなあ」
「やってみろ」
 有無を言わせぬ口調で命じる。
「へいへい。相馬コーチ」
 冗談まじりに答えて、久御山は体を波に浮かせた。相馬の手が、首のうしろに添えられる。
「あれ、けっこう簡単に浮くやん」
 プールとは微妙に違う。
「海水は塩類が約三・五パーセント含まれている。真水より浮きやすいのは当たり前だ」
「なるほどなー。そう言うたら死海なんか、ぷかぷか浮いたまんま新聞読んでたりジュース飲んでたりしとるもんな」
「死海の塩分濃度は約二十五パーセントだ」
「さすが相馬。物知りやな」
 久御山は小さく笑った。
 太陽のあたたかさと、水のひんやりとした感触が心地いい。目を閉じると、ゆらゆらと夏の光がまぶたの裏に漂った。
 と、一瞬、その光が遮られた。
「え?」
 目の前に相馬の顔があった。唇が近づき、重なる。
 突然のことに、久御山は手足をばたつかせた。必然的に体が沈む。久御山はあわてて、足をついた。
「ぷはーっ……なにすんねんっ。溺れるやろが!」
 髪をかきあげて、久御山は叫んだ。相馬は表情ひとつ変えず、
「いや、なんとなく」
「なんとなくで沈められてたまるかいっ」
「自分で沈んだのだろう」
 あかん。のれんに腕押しや……。
 久御山は大きくため息をついた。
「……もう、ええわ。そろそろ行こか」
 バスの時間まで、あと三十分。ふたりは砂浜に上がった。
「ゴーグル持ってきたらよかったなあ。そしたら潜れたのに」
「持っているのか」
「へ?」
「ゴーグルだ」
「いや、持ってへんけど」
「では、買おう」
「買おうって……」
 相馬はすたすたと海の家に入った。そういえば、ジュースなどを入れている冷蔵庫の上に、浮き輪やゴーグルも置いてあったっけ。
 しばらくして、相馬はピンクのゴーグルを手にもどってきた。
「お前にやる」
「……はあ、おおきに」
 久御山はゴーグルを受け取った。
「これしか色、なかったん?」
「黒もあったが」
 それで、どうしてピンクなんだと文句を言いかけたが、やめた。せっかく買ってくれたのだ。色ぐらい、大目に見よう。
「行かないのか?」
 相馬が訊ねた。
「ああ、せやな。着替えんと……」
「何を言っている。潜りに行くのだろう」
「はあ?」
 あいかわらず、社交辞令というか、言葉のあやというもののわからない男だ。
「潜る言うても、もうすぐバス来るで」
「次のバスに乗ればいい。午後六時十分だ。乗り継ぎは多少悪いが、今日中に帰宅可能だ」
 つまり、終電には間に合うということか。
 まったく、この男の頭の中はどうなっているのだろう。行動は唐突だが、それに至るまでの思考は論理的に構築されているらしい。
 相馬はじっと、こちらを見つめている。
「……しゃあないなあ」
 久御山はピンクのゴーグルを付けて、ふたたび海へ向かった。


 (THE END)