Indian summer  by 近衛 遼




 その後。久御山俊紀と相馬達海は五日間、京都に滞在した。
 桜堂に貸家の鍵を返しに行ったのだが、あるじは不在で、女将は受け取りを拒否した。
「あの家のことは、うちにはなんの関係もおまへん」
 毅然として、女将は言った。
「せやから、その鍵はあんたが責任持ってお返しやす」
 要するに、出直せということらしい。久御山は桜堂を辞した。
 そして結局、あるじに鍵を手渡したのは、四日後のことだった。
「返さんでもええて言うたのに」
「そういうわけにもいかんやろ」
 久御山は鍵を差し出した。
「掃除、しといたから」
「そうか」
 あるじは鍵を受け取った。
「助かったわ。……おおきに」
「うむ」
 あるじは頷いた。久御山はきっちりと一礼して、勝手口を出た。


「悪かったなあ、相馬」
 鴨川の河川敷を歩きながら、久御山は言った。
「何がだ」
 両岸の木々をながめつつ、相馬は訊いた。
「なにがって……なんか、付き合わせてしもて」
「付き合ったわけではない。俺がお前と、居たかったのだ」
 さらりと言う。久御山はくすりと笑った。
「うれしいわ」
 すんなりと、言葉が出る。相馬の前だから。
 懸命に自分を押し隠し、仮面をかぶって毎日をやり過ごしていたのが嘘のようだ。
 この五日、久御山は母が入院している病院と、桜堂に日参した。病院は面会時間が制限されているので、母に会えないこともあったが、川口看護婦を通じて様子を聞くことができた。
 一時は危険な状態だった母も、徐々に回復に向かっており、食事もきのうから五分粥になったらしい。体力が落ちているのが心配だったが、ここ二、三日は精神的には安定しているようだった。
 ふたりは、今夜の夜行バスで東京に戻る予定だった。
 「来福酒家」のバイトもずいぶん休んでしまった。大将が交通事故に遭って入院し、なにかと忙しいときに。
「できるだけ、早く帰ってきてくれよ」
 調理人の新谷が、電話の向こうでそう言った。
「大将、退院したけど、まだ本調子じゃないんだ。トシが抜けると痛いんだよ」
 無断で休んで、てっきりクビになったと思っていたのだが、なんとか首の皮一枚で繋がっているらしい。
 夜行で帰って、そのまま早番で入ろう。迷惑をかけたぶんを、取り戻さなくては。
「久御山」
 二条大橋の近くで、相馬がふと足を止めた。
「ん。なんや?」
 久御山は思考を中断して、顔を上げた。
「あれは、何だ」
 相馬は川の中ほどを指さした。
「なにって、飛び石やん」
 出町柳のあたりと同じく、対岸に向かって飛び石が並んでいる。
「それは判っている」
「ほんなら……」
「ここの飛び石は、亀ではないのだな」
「あ、そういうことかいな」
 久御山は合点した。
 鴨川には、何か所が飛び石があるが、出町柳から丸太町あたりまでは亀型で、それより下流では石の形が変わるのだ。
「あれは、都鳥や」
「都鳥か。さすがに、京都だな」
「千年の都やからなあ」
 この道を、こんなに穏やかな気分で歩けるなんて思わなかった。懐かしくて、でも辛い記憶しかなかったから。
『ええお日和やねえ』
 秋晴れの空を見上げた母の、透けるような頬。
『今日は下鴨神社まで行こうな』
 幼い自分がねだる。困ったように、母が笑う。
 ついこのあいだまで、苦しいだけの思い出だったのに、いまは違う。
 ともに歩く相手がいるから。泣いても笑っても怒っても、受けとめてくれる腕があるから。
「なあ、相馬」
「何だ」
「また……来よな」
「うむ。旅費を貯めねばならんな」
「せやな。こんどは宿も取らなあかんし」
 鍵は返した。もうあの家に行くことはあるまい。あれは、過去を封じた家だから。
「おれ、バイト、がんばるわ。おまえも大学生になったら、きりきり働いてや」
「……大学に入るのは、再来年だが」
「へっ?」
 久御山は目を丸くした。
「おまえ、大検受けるんやろ。そしたら来年の入試に間に合うやんか」
 相馬の実力なら、どこの大学でもよりどりみどりのはずだが。
「今年の大検は、もう終わった」
 あっさりと、相馬は言った。久御山はふたたび、琥珀色の目を大きく見開いた。
「おっ……終わったって、いつ?」
「昨日だ」
「きのうて……おまえ、アホちゃうか。そんならなんで、帰らんかったんや。なにもおれに付き合うて、こんなとこにおらんでも……」
「付き合ったわけではないと、言ったはずだ」
 相馬は淡々と語を繋いだ。
「お前の側に居たかったのだ。大検は来年もある」
 そんなことは、たいしたことではない。まっすぐに向けられる瞳に、強い意志を感じる。久御山は大きくため息をついて、相馬の肩に手をやった。
「……なんべんも言うようやけど」
 顔を近づけて、額を合わす。
「おまえにはかなわんわ」
 ほんまは、チューしたいけど。
 久御山は微笑して、体を引いた。昼間やし、往来やし、いまはガマンしよ。
 踵を返して、走り出す。
「次の橋んとこまで、競争や!」
 全速力で、走る。相馬も無言で、ダッシュした。

 走って。走って。
 一緒に行こうな、相馬。
 一緒に行ってな。

 ずっと、ふたりで。

  (THE END)