pass the year
 by 近衛 遼




 年の瀬は、忙しい。客商売はなおさらだ。久御山俊紀はもう、二十日も休んでいなかった。
「それは、労働基準法違反ではないのか」
 例によって、相馬達海にそう言われたが、だからといってペイのいいバイトをやめる気はない。
 久御山が働いている「来福酒家」は、リーズナブルな値段で本格的な味が楽しめると評判の店だ。通りからひとつ、路地に入っているにも関わらず、平日でも常連客やタウン誌片手にやってくる女性客で賑わっている。
「悪いなあ、相馬。また待たしてしもて」
 通用口から久御山が顔を出した。
「いや。俺は別に構わないが」
 相馬は大検のテキストをナップサックに入れて、立ち上がった。通用口の横の植え込みは、相馬が久御山を待つときの指定席だった。
「いっぺん帰ろか。年越しそば、食べなあかんし」
「蕎麦はともかく、それを持って初詣に行くのは、難があるな」
 相馬は久御山の手元を見た。御多分にもれず、久御山はランチの余り物が入った袋を持っていた。
「せやなー。とりあえず、これ、冷蔵庫に入れんと」
「では、行こう」
 すたすたと、相馬は歩き出した。鼻の頭が赤くなっている。やっぱり、だいぶ長いあいだ待っててくれたんやな。
 大晦日。客が退けてからも後片づけや掃除にずいぶん手間取った。もちろん、そんなことは最初からわかっていたので、その分も見越して遅めの時間に待ち合わせをしたのだが、それでもかなり遅れてしまった。
 帰ったらすぐに鍋を火にかけて、そばを作ろう。相馬とふたりで食べて、そして、ふたりで初詣に行く。
 ふたりで迎える、はじめての年。


 去年の大晦日は、バイト先で知り合ったダチのアパートに転がりこんでいて、そいつが帰省したため、ひとりで年越しをした。
 電気ストーブがひとつと、こたつ。暖房器具はそれだけだったので、蒲団も敷かずにこたつに足を突っ込んで、毛布にくるまって一晩中ラジオを聞いていた。
 初詣には、行かなかった。願い事などなかったから。願っても、ひとつとして叶ったことがなかったから。
 でも、今年は違う。
 相馬がいる。ずっと自分をごまかしてきたおれを、強い意志で捕まえてくれた相馬が。
『お前は逃げている』
 胸を突き刺す言葉。だが、それは真実で。
 おれは相馬を拒絶することしかできなかった。それでも、相馬はあきらめなかったのだ。
「沸騰しているぞ」
 耳元で言われて、我に返った。
 コンロにかけた鍋の蓋が、カタカタと揺れている。
「具合でも悪いのか」
「え、なんで?」
「二度、名前を呼んだが答えなかった」
 全然、気がつかなかった。久御山は苦笑した。
「そうかー。悪かったなあ。ちょっと考え事しとってん」
「心配事か」
「ちゃうちゃう。去年の大晦日、なにしとったかなーって」
 久御山は鍋に生そばを入れて、タイマーのスイッチを押した。
「去年、か」
 相馬は口の結んだ。なにやら、真剣に考えているようだ。
「どしたん。難しい顔して」
「覚えていない」
「はあ?」
「覚えていないということは、きっと家にいたのだろう」
「……おやじさんたちは?」
「いなかったのだろうな。おそらく」
 それが、相馬の日常なのか。
 生活感のない家。はじめて行ったときに、そう思った。人間の匂いのしない家だ、と。
 誕生日もクリスマスも祝ったことがないと言っていた。それを寂しいとも、不思議だとも感じなかった相馬。
 自分とはべつの意味で、なにかが欠落していたのだろう。だから、こんなにも引かれ合ったのか。
 ピピピピピ……
 タイマーが鳴った。反射的に音を止める。が、次の動作に移れない。
 なにやってるんや、おれ……。
 そばが、鍋の底に沈んでいく。
「どけ」
 相馬が、久御山の腕を押した。
「座っていろ。俺がやる」
 水きりのザルを手に、流しの前に立つ。そばをザルに移し、水道水で手早く洗う。
 夏に民宿でバイトをして以来、相馬もときおり料理を作るようになっていた。レパートリーはいまのところ、握り飯や味噌汁、麺類ぐらいのものだったが。
 市販のそばつゆを温めて、ネギとかまぼこを入れる。
「できた」
 相馬は丼と割箸を、こたつの上に置いた。
「本当に、大丈夫か」
 様子を窺うように、訊く。久御山は前髪をかき上げた。
「ん、なんでもないて。……ごめんな、相馬」
「なぜ、お前が謝る」
 相馬は首を傾げた。
「大丈夫なら、いい」
「そら、そうやけど……」
「のびるぞ」
 言いながら、そばを目で指す。
「せやな。ほな、いただきます」
 丁寧に手を合わせてから、箸を取った。醤油とだしのいい匂いがする。そばののどごしと、白ネギのシャキシャキとした歯応え。
 温かい。体全体にしみわたるような感じがした。
「年越し蕎麦というのは、本当に年越しに食べるものだったのだな」
 しみじみと、相馬が言った。
「そら、年越しに食べんかったら、年越しそばって言わへんやろ」
 おかしなことを言うやつだ。ああ、でも……。
 久御山は考えた。年中行事など、ほとんどなかった相馬家なのだ。昨年の大晦日のことも覚えていないのなら、年越しそばを食べたこともないのかもしれない。
 久御山がそれを訊くと、相馬はもぐもぐとかまぼこを咀嚼しつつ、
「いつだったか、蕎麦屋で食べたことはあるのだが、てっきり『年越し蕎麦』という商品名だと思っていた」
 なるほど。その勘違いも、相馬なら頷ける。
「ひとつ、賢うなってよかったやん」
「そうだな。お前といると、いろいろ新しい発見があって面白い」
 さらりと、言う。
 こういうところは、かなわないと思う。正直というか、素直というか。
 だから、相馬といると安心する。本当のことしか言わないから。探ることも、窺うこともしなくていい。
 相馬は、自分がずっとかぶってきた薄い膜のような仮面を剥がした。
『俺は、お前を全部、解りたい』
 はじめて体を重ねた日を思い出す。そうだ。あの日も言われたのだ。『逃げるな』と。
 きっと、わかっていたのだ。最初から。だから捕まえてくれた。おれが消えてしまわないように。
「ごちそうさんでした」
 ふたたび手を合わせる。
「洗いもんは、おれがするわ」
 久御山は立ち上がった。といっても、たいした量ではない。五分としないうちに、丼や湯呑みが水きり籠に並んだ。
 窓の外から、除夜の鐘が聞こえてきた。そういえば、近所の寺で参拝客に鐘を突かせてくれるて言うてたなあ。いまから行って、間に合うかな。
 そんなことを考えながら手を拭いていると、長い両腕が背後からそっと回ってきた。左肩に、相馬のあごが乗る。
「相馬……」
 スイッチ、入ったんかな。
 なんにも、それっぽいことしてへんけど。
「大丈夫だと、言ったな」
「言うたけど」
 なるほど。あれか。ちょっと、ぼんやりしてたけど……。
「炬燵、片付けてもいいか」
「……ええよ」
 久御山は答えた。そして相馬は、部屋の灯を消した。


 なんや、すごいことになってしもた。
 相馬の腕の中で、久御山は思った。時計の針は、すでに午前零時を過ぎている。
 これって、二年越しの……ってことやん。まさか、こんなん、狙うてたんとちゃうやろな。
 唇がふさがれて、息苦しい。腰から下はもう、半ば痺れたようになっている。いつもと違う角度で攻められて、どこまでいけば頂点に達するのか予想もできない。
 また、波が引いた。追いかける。繋ぎ止める。
 思わず声が出た。こう何度も焦らされてはたまらない。相馬の腰に手を回し、しっかりと体を合わせる。
「なあ……たのむわ」
 あんまり言いたくはないのだが、もう限界だ。相馬は久御山の首筋に口付けた。
 中心の熱が高まる。それは内部に浸透して、久御山の体を紅く染めた。


 とても動ける状態ではなかった。
 夜のうちに初詣に行くつもりだったのに、すっかり予定が狂ってしまった。そら、まあ、初詣から帰ってきたら、そういうのもええかな、て思うとったけど。
 相馬はすやすやと寝息をたてている。
 仕方がない。三が日はバイトも休みだ。初詣は朝になってからにしよう。
 新しい年を、ふたりで迎えられたのには違いないのだから。
 こんなこと、人様には言われへんけどな……。
 心の中で呟いて、久御山は相馬の肩に頭をもたげた。

 (THE END)