Everytime,Everywhere     by 近衛 遼




 フルーツ味が欲しかったのだが。
 午後九時のコンビニエンスストアで、相馬達海(そうま たつみ)は思案した。
 チーズ味はくどいし、チョコレート味は甘すぎる。他のメーカーの類似品ならバター味だとかサラダ味だとかいうものもあるが、やはり食べ慣れたものの方がいいだろうと判断し、チーズ味のカロリーメイトを選択した。
 幸いなことに、野菜ジュースはいつも購入しているメーカーのものがあったので、数秒の時間を無駄にすることもなかった。
「ありがとうございましたあー」
 店員の、マニュアル通りの声を背に店を出る。
 先週は祖父が、一昨日は祖母が、そして今日は両親がそれぞれの仕事の都合で海外に行ってしまった。とくにめずらしいことではないが、問題は、冷蔵庫の中身をすっかり空にしていったことだ。
 「長くご不在のときには、冷蔵庫を整理した方がよろしいですよ」という通いの家政婦のことばを真に受けた母親が、見事なまでに食料品を処分していったらしい。たいてい買い置きしてあるインスタント食品さえ、ほとんどなくなっている。
 もっとも、食に対してそれほどこだわりのない相馬である。栄養補給ができればそれでよい。
「しまった。明日の分も買っておけばよかったな」
 店に引き返そうとした、そのとき。
「あれえ、どないしたん。こんな時間に」
 前方から声がした。
「久御山……」
 布製の大きなトートバッグをかついで、久御山俊紀(くみやま としき)が走り寄ってきた。
「塾でも行っとったん?」
「いや。今日は休講だ」
 相馬は高校をこの春に自主退学し、大検受験を目指している。そのあたりの事情は久御山も承知していた。
「へえー。ほんなら、なんでいまごろ」
「家に食べ物がなかったのだ」
「はあ?」
 久御山は首をかしげた。
「ないて……なんにも?」
「そうだ」
「なんで」
「両親が冷蔵庫の電源を切ったのでな」
「はあ……」
 三分後、相馬家の事情をおぼろげながら理解した久御山は、
「……で、これが晩メシっちゅうわけかいな」
 と、相馬の持っていたコンビニの袋をのぞきこんだ。
「そういうことだ」
「なんや、わびしいなあ。……よっしゃ、今日はおれがおごったるわ」
 久御山は相馬の腕をとった。
「バイト先で、ランチの残りもんもろてきてん。行こ行こ」
 久御山は、中華料理店でアルバイトをしている。
「ひとりでは食べきれんと思とったんや。ちょうどよかったわ。やっぱし、食いもん無駄にしたらあかんからなあ」
 久御山のアパートがこの近くだとは知っていた。しかし、そこへ行くのははじめてだ。
 相馬は黙って、歩を進めた。


『六畳ひと間の、ボロいアパートやねん』
 以前、そんなことを聞いた記憶はあった。たしかに、ここは古そうだ。
「あ、手すりなんか持ったらあかんで。錆びとるさかい、いつ崩れるかわからんし」
 先を行く久御山が、真面目な顔で注意した。
「おかげで家賃は安いねんけどなー」
 からからと笑いながら、鍵を開ける。
「まあ、そこらへんにすわっといて」
 たしかに、「そこらへん」である。
 流し台とコンロのあるささやかな台所と、六畳間。風呂とトイレがついているのが奇跡のようなアパートだ。相馬は卓袱台の前にすわった。
「おまえ、ピーマンは大丈夫やったよな」
 トートバッグの中の食材を確認しつつ、久御山が訊ねた。
「汁もんはインスタントでええかなあ」
「かまわないが」
「よっしゃ。ちょっと待っててなー」
 久御山は髪をうしろで結ぶと、ばしゃばしゃと手を洗った。
「切り落としの肉がぎょうさんあるんや。豚肉と牛肉、どっちがええ?」
「別に、どちらでもいい」
「そうか? ほな、勝手にさしてもらうで」
 久御山は豚肉に下味を付けた。ピーマンの細切りはもうできている。
「店でやらしてもろてんけど、売りもんにならんて言われてなあ。たかがピーマン、されどピーマン、やな」
 うんうんとうなずきつつ、久御山はフライパンをコンロに置いた。
「火力が弱いからいまいちやけど、しゃあないなあ」
 ぶつぶつと独り言をつぶやきながら、ごま油をたらす。しばらくして、ジャーッ、と肉を炒める音がした。あらかた火が通ったところで、いったん肉を皿に取る。次にピーマンをざっと炒め、肉を再びフライパンにもどしてから、手早く合わせ調味料を鍋肌に回し入れた。
「こんなもんかな」
 ごま油とオイスターソースのいい臭いが充満した。
「ほい、お待っとさん」
 久御山は卓袱台の上にチンジャオロースを盛った大皿をどん、と置いた。
「今朝炊いたごはんやから、ちょっと色変わってるけどガマンしといてな」
 相馬の目の前に、取り皿とごはんとワカメスープのお椀が並べられた。
「ほな、いただきまーす」
 ばちっと手を合わせて、久御山はお椀に手をのばした。
「……いただきます」
 相馬も箸を取る。チンジャオロースをひとくち食べて、
「旨い」
「そうかー? そらよかったわ」
 久御山は満足げにうなずいた。相馬は黙々と箸を運んでいる。空腹を抱えた男ふたり、チンジャオロースの山はみるみるうちに崩れていった。
「おまえも自分のメシぐらい作ったらええのに」
 久御山が食後のお茶をいれながら、言った。
「料理、苦手なん?」
「一人分だけ作るのは不経済だ」
「そやなあ。まあ、おれもカレーなんか三日ぐらい続いてイヤんなることあるもんなあ」
 いくら好物でも、限度がある。
「せや、相馬。こんど、おれがカレー作ったときには食べに来てえな」
 半分は社交辞令だ。
「そしたら、何回もおんなじもん食べんですむし……」
「いつだ」
「へっ?」
「いつ、作る」
 相馬は湯呑みを手に、久御山を見据えていた。
 真顔でいつと訊かれても、困る。久御山は小さくため息をついた。
「せやなあ。いつにしよかなあ」
 言いながら、食器を重ねて流しに運ぶ。相馬も自分が使った皿を手にして立ち上がった。
 しばらく、ふたりとも無言だった。久御山が食器を洗う水音だけが流れる。
「……おれ、あしたは遅番やねん」
 洗い終わった皿を水切りの籠に移しながら、久御山が口を開いた。
「昼に、作ったろか」
 明日の昼。
 今日、ふたりで夜を過ごして、朝を迎えて。
 自分たちは、そんな夜を幾度か経験している。
「……相馬?」
 いらえがないのを訝しく思って、久御山は横を向いた。と、間近に相馬の顔。
「え……」
 反射的に上体を引く。が、両手を洗い桶に入れたままだったので、完全に逃げることはできなかった。相馬の手が、久御山の二の腕をつかんだ。
 唇がぶつかる。感情がそのまま伝わってくるような、ストレートなキス。
 スイッチ、入ってしもたかな。
 久御山は心の中でつぶやいた。
 ま、しゃあないか……。
「水……こぼしてしもたがな」
 床に点々と染みができている。
「後で拭けばいい」
「あとで、ね……」
 大きく息をついて、久御山は流し台の水を止めた。
 部屋の明かりが消えたのは、その十秒後だった。


 ごん、と、左ひざが卓袱台の足に当たった。
「てっ……」
 電気が走ったような感覚。押し上げられた両脚のあいだに、相馬の体がすっぽりと納まっている。
「相馬……もうちょっと、右に寄ってえな」
「こっちか?」
 と、反対側に体をずらす。再び、久御山のひざは卓袱台にぶつかった。
「ちゃうちゃう。ええと……相馬の左側や」
「ああ、そうか」
 相馬は久御山の腰を支えたまま、左に移動した。
 なにしろ、狭い部屋である。テレビや戸棚や洋服掛けなどの隙間に、かろうじてシングルのふとんがひとつ敷けるだけのスペースしかない。ふだんは卓袱台を台所に立てかけるのだが、今日はそれをする暇もなく、押し倒されてしまった。
 ふとんが敷けただけ、ましやけど。
 久御山は相馬の口づけを首筋に受けながら、そんなことを考えていた。そうでもしなければ、体の芯から湧き起こる言いようもない感覚に、我を忘れてしまいそうだった。
 アパートの壁は薄い。となりの物音や会話が聞こえてくることも、しばしばだ。当然、こちらの声も……。
「あの……なあ、相馬」
「何だ」
「そこ……ちょっとキツいわ。もっと、ゆっくり……」
「ゆっくりしたら、余計に辛そうだが?」
「アホっ。そんなに力入れたら、声が……」
「そういうことか」
 相馬は、ずいっ、と自分の指を久御山の口に差し入れた。
「ん……なに……」
「噛んでもいいぞ」
 平然と、言う。久御山はカッとなって、その手を払った。
「いらんわ、こんなもんっ」
 小さく叫んで、自分の指を噛む。ゴリ、と鈍い音がした。
「久御山……」
 相馬がしばし、動きを止める。久御山はもう一方の手で、相馬の首を引き寄せた。
 ええから。
 気にせんでええから、早う……。
 相馬が言ったように、もう、そこは限界にきていた。下肢に当たる感触から、相手もおそらく同じ状況だと推察できた。
 もうすぐ、来る。
 久御山はぎゅっと目をつむった。


 相馬の体が、深い場所でうごめいている。
 腰を高く持ち上げられて、ただでさえ息苦しい。そのうえ、声を押し殺しているため、ほとんど酸欠になりそうだ。
 相馬が大きく動くたびに体がずれて、何度も腕や足をあちこちにぶつけたが、もうそんなことはどうでもよかった。ただ、自分がこの情熱を受けとめることができるかどうか、それだけが気がかりだった。
「……つっ……」
 口の中に、鉄の味。
 じん、と、頭のてっぺんがしびれた。
 あかん。先にいってしまいそうや……。
 そう思った直後。相馬の手が久御山の肩をぐっとつかんだ。
 最後の瞬間、久御山はまぶたの裏に血の色に似た赤を見たような気がした。



「重いわ、相馬……」
 久御山は、自分の上に突っ伏している体を、ぐいっと横に押した。
「シャツ、どこやったかな」
 言いながら、ふとんの横にひっくり返っていた卓上灯を点ける。ぱっと部屋の半分ばかりが、明るくなった。
「いっつも、いきなりなんやから」
 事後の用意をする間もない。
「そうか?」
 相馬は久御山のとなりで仰臥したまま、他人事のように言った。
「せや。こっちかて、都合っちゅうもんがあるのに」
「不都合なら、拒否すればいいのではないか?」
 断っても、あきらめたことなどないくせに。
 結局、こちらが折れることになってしまう。もっとも、それが苦痛ではないから、つい許してしまうのだが。
「指……」
「え?」
「血が出ている」
「ああ、たいしたことないて。だれかさんが手加減なしに勝手なことしてくれたから、つい噛み切ってしもたんや」
 久御山はぺろりと傷口をなめた。
「こんなん、なめとったら治るわ」
「悪かった」
 神妙な声。久御山はまじまじと相馬を見た。
「なんやのん、急に」
「次からは、出来るだけお前の希望を考慮する」
 できるだけ、というところがいささかあやしいが、その気遣いはうれしい。
「はあ、そら、おおきに」
 久御山はそっと上体をかがめ、相馬の横一文字の唇に口づけた。


(THE END)