hydrangea     by 近衛 遼




 午後八時、という約束だった。
 いまは八時三十七分。かなり遅れているのだが、店の中に入るわけにもいかない。
 相馬達海は、「庶民的な値段で本格的な味を提供する」と評判の中華料理店「来福酒家」の通用口にいた。換気孔から、ごま油やオイスターソースなどのいい臭いがしている。
 久御山俊紀がここで働きはじめて、まもなく三カ月になる。古株のウェイターやら料理人ともうまくやっているようで、先週は時給がアップしたと喜んでいた。オーナーは横浜で修業を積んだ日本人だが、厨房には玄人肌の者は少なく、出稼ぎの外国人やフリーターの若者も多いらしい。
「今晩、酢豚おごったるわ。八時に店の裏で待っとって」
 相馬家の留守番電話にメッセージが入ったのは、午後二時ごろ。またランチ用の肉でも余ったのかと思いつつ、こうしてやってきたのだ。
 多少は待つことになるだろうと、読みかけの文庫本を持ってきていたが、それもすでに全部読んでしまった。
 暇だな。
 相馬はぼんやりと、あたりを見回した。
 駅前の飲食店が立ち並ぶ通りから一本はずれているため、それほど人通りは多くない。ましてやここは裏口。出前の桶を手にした寿司屋の店員や、休憩に出てくる風俗店の女の子などの姿が見られるほかは、残飯をあさる野良猫ぐらいしかいない。
 白っぽい花をつけた植え込みの前で、茶色のブチ猫と、キジトラ猫がエサをめぐって唸り声を上げていた。しばらくにらみ合いが続いたのち、キジトラが背中の毛を逆立てて、フゥーッ、と大きく威嚇の声を上げると、ブチ猫はじりじりと後ずさり、ビールケースを飛び越えて逃げていった。
 勝利を納めたキジトラが残飯の入ったポリバケツに頭をつっこみ、大きな魚の頭をくわえて、悠々と路地を曲がっていく。ピン、と立てた尻尾が植え込みの葉に当たり、淡い色の花をばさりと揺らした。
 猫の背を見送りつつ、あれはなんという花だったかと相馬が考えていたとき。
 ガチャッと音がして、通用口のドアが開いた。
「いやあ、悪い悪い。予約の客がちょっと遅うなってなあ。片付けにいままでかかってしもてん」
 金茶色の髪をかきあげつつ、久御山が出てきた。手には大きな買い物袋を持っている。
「……どないしたん?」
 路地の奥を見つめていた相馬に、久御山が訊ねた。
「ああ、久御山。遅かったな」
「なに言うてんのん。いま説明したやんか」
「説明?」
「あー、もう、聞いてへんかったん? 予約の客が遅れたって言うたやろ」
「そうだったか?」
 真顔で訊き返されて、久御山はため息をついた。
「おまえにはかなわんなー。で、なにボーッとしとったん」
「猫が……」
「猫?」
「あの花の下を通っていった」
 相馬は角の植え込みを指さした。
「ああ、ガクアジサイやな」
 見るなり、久御山は言った。
「アジサイ? 少し違うようだが」
 相馬が見知っている紫陽花は、花の部分が丸くなっている。それを口にすると、
「ああ、それは西洋アジサイや。丸いから、手毬アジサイとも言うなあ。これはな、ほら、この真ん中に小さい花が集まってて、まわりにガクがすーっとのびてるやろ。額縁みたいやから、ガクアジサイや。まあ、花の『萼』と掛けとるんかもなー」
 丁寧な説明に、相馬は目を丸くした。
「久御山は、植物に造詣が深いのだな」
「へ? ちゃうちゃう。たまたまやがな」
 久御山は紫陽花の一群を見下ろした。
「この花は……おかあちゃんが好きやったんや」
 言葉の間に、わずかなタイムラグ。
 好きやった。
 その過去形に何か意味があるような……。
 懐かしそうな、しかし寂しげな横顔が、点滅する店々の照明の中に浮かんでいる。
 相馬は久御山の家族について、ほとんど聞いたことがない。特に知りたいとも思わなかった。相手が言わぬものを訊くほど、愚かではない。
「あ、おれまでボンヤリしとったらいかんなー。さ、行こか」
 ことさら明るい声でそう言う久御山の顔を、相馬はじっと見つめた。
「なんやのん。早う行こうな」
「……似ている」
「なにが?」
「アジサイだ」
「はあ?」
「この花は、お前に似ている」
 視線を反らさず、相馬は言った。
「そんなん言われてもなあ」
 久御山は苦笑した。
「女とちゃうねんから、花に例えられてもうれしないわ」
「そういうものか?」
「そういうもんや」
 例えたわけではない。思ったままを口にしただけだ。
 時と共に色を変えていく紫陽花。その紫陽花の、本当の色は何なのだろう。それとも、どんなものにも本来の色などはなく、生きていく過程で変化していくものなのだろうか。久御山俊紀という人物もまた……。
「久御山」
「はいな」
 軽い調子で返した久御山の腕を、相馬がぐいっと引っ張った。
「え……」
 相馬の唇が久御山の口をふさぐ。
「……んっ……!」
 遊びのキスではなく、強く深い口付け。何度かもがいて、久御山はやっとのことで相馬の腕から逃れた。
「な……なにすんねんっ。こんなとこで……」
「いや、こうすれば、判るかと思って」
「アホっ。わけわからんこと言わんといてえな」
「……すまん」
 まるで主人に怒られた犬のようになって、相馬は下を向いた。久御山は大きく息をついた。
「はあーっ、もう、しゃあないなあ。なんでもええから、早よ帰ろ。おまえも腹減っとるやろ」
 かぶりを振りつつ、歩き出す。買い物袋が紫陽花に当たり、ぱさりと花が揺れた。
「……置いて行くでっ!」
 五メートルばかり先で、久御山が叫んだ。
「今、行く」
 相馬は答えた。
 ゆらゆらと手を振っているような紫陽花を背に、二人は家路についた。


 (THE END)