文字書く猫  by 近衛 遼




 ポケットの中から、馨は封筒を取り出した。
「はい、これ」
 またいつもの「生活費」か。そう思って田辺大亮が中を確認すると。
「なっ……な、な、なんだよ、これは……」
「生活費」
 いつも通りに、馨は言う。
「せ……生活費って、おまえなあ……」
 その封筒の中には、きっちり百枚の一万円札が納まっていた。


「……どうしたんだ。この金」
 リビングのソファーにすわって、大亮は訊ねた。以前の商売に戻ったはずはないし、そんなことをしていないのはわかっている。なにしろ、ここ三カ月あまり、馨は専門学校に通っているのだ。週に五日は十時から四時半まで授業。土日は竹林堂でバイト。おかげで、夜のあれこれを楽しむ暇がほとんどない。
「オレ、大検受けたいんだけど」
 馨はそう言った。
「大検?」
「うん。おじさんもベンキョーしろってうるさかったけど、御前もかなりウルサイんだよ。だから、そーゆーの教えてくれる学校に通おうと思って」
 ちなみに、「おじさん」というのは馨が以前、世話になっていたヤクザの組長のことで、「御前」というのは去年の暮れに養子縁組して養親となった篁一馬のことである。
 法律上は「親」なのだが、馨は一馬のことを「御前」と呼んでいた。養子縁組の手続きをした弁護士の加賀が一馬のことを「御前」と称したのを聞いて、自分もそれに倣うことにしたらしい。
 なんとなく他人行儀な気はするが、一馬自身は呼び方などまったく気にしていない。ふたりは電話やメールで頻繁に連絡を取っているようで、大検の話もそのときに出たのだろう。
 そんなわけで、馨はバイトの時間も減っていて、当然ながら収入も減っているはずなのだ。それなのに……。
「もらったんだよ」
「もらったって、だれに……」
 一馬だろうか。いや、あのジジイがこんな大金、ポンと渡すはずはない。もちろん、一馬にとっては百や二百など端金にもなるまいが。
 篁一馬は、自分が使うべきだと判断したところには億の金を惜しげもなく出すが、興味のないところには視線ひとつ動かさない人物なのだ。
「んー、だれだったっけ」
 馨が首を傾げる。
 ……おい、マジかよ。大亮が頭を抱えていると、
「あ、そーだ」
 馨は電話の横に置いてあった名刺を持ってきた。
「この人」
 差し出したその名刺には、「文豪春秋」の文字。
「『文豪春秋』って、あの出版社か?」
「うん。いっぱい本出してるとこ」
「……なんで、その出版社の……ええと、松井さん、か。この人がおまえに金をくれるんだよ」
 ほんの少し……本当にほんの少し、やっぱりあっちの商売をしたのかと思ってしまった。
 うわ。最低だぞ、俺。そりゃ、このところあんまり相手にされてないけど、でも……。
「なんか、賞金らしいよ。オレが一等賞だったんだって」
「はあ?」
 頼む。もっと、わかるように話してくれ。
「えーと、それじゃ、はい」
 なぜかソファーの下から、「文豪春秋」の最新号が出てきた。表紙には「文豪春秋新人賞決定」の文字が踊っている。
「入賞したら金くれるっていうから、応募したんだ」
「入賞って、じゃあ……」
 大亮は中を開けてみた。そろそろとページをめくる。あった。
 受賞作のタイトルは、「橋の上から」。作者名は……「仲村カヲル」。
「こっ……これって、もしかして……」
 どっと汗が吹き出た。
「うん。オレだよ」
 あっけらかんと、馨。
 いま大亮が握っているのは、その賞金の百万円だった。


 知らなかった。まったく知らなかった。こいつが、こんなモンを書いていたなんて。
 毎日、夜遅くまで起きていた。てっきり大検の勉強をしていると思っていたから、邪魔をしないように早々に寝室に引き上げていたのだ。馨が寝室に入ってくるのは、たいてい二時か三時で、うっかりしたらそのままリビングで寝入ってしまうこともあった。
 その物語は、親に遺棄された少年が死を考えたとき、ふらりと現れた「桜の主」に誘われて四季を旅することになるという、なんとも幻想的な物語だった。もっとも、大亮からすれば多分に私小説めいて見えたのだが。
「受け取れない」
 大亮はその金を馨に返した。
「え、どうして」
「どうしてって……」
「現金より、カラダの方がよかった?」
「あのなあ、そういうことじゃなくて……」
「やっぱり、オレ、このごろしてなかったし」
 たしかに、してなかったさ。けど、それとこれとはちがう。
「そんなんじゃないんだ」
 大亮は馨を抱きしめた。ゆっくりと、腕の中にあるものを確かめる。
「これは、おまえが持つべきものだ」
「……あんたの言ってること、よくわかんない」
「わからなくてもいい。とにかく、金はおまえが持ってろ」
 論理もなにもあったものじゃない。大亮はそう断言した。馨はしばらく身じろぎひとつしなかった。
「……馨?」
 ふと、不安になった。こういうときの馨は、大亮の予想もつかない行動に出ることがあったから。
「うん」
 ことんと頭を預けて、馨は体の力を抜いた。
「そうする。そうするよ。だから……」
 吐息が大亮を捕えた。
「おい。さっきも言ったが、俺はなにもそっちが欲しいからってわけじゃ……」
「わかってる」
 緑がかった茶色の瞳が、意志をもって向けられた。
「だから、オレにちょうだい」
 駄目だ。もう、これにはどうしようもない。
 口付けが鎧を崩す。生身の心が、そこにはあった。


 「仲村カヲル」というペンネームをつけたのは、弁護士の加賀隆一だった。当初、本名で掲載される予定だったのだが、さすがにそれはまずいということで、加賀がペンネームを考えた。
「まったくべつの名前にしてしまうと、馨くんが混乱してしまうと思ったのでね。似たような音のものにしたんだよ」
 出版社との契約の件で相談に行ったとき、加賀は言った。
 たしかに、そうかもしれない。日常生活において、馨は必ずしも器用な方ではないし、几帳面な性格でもなかったから。
「受賞作は、来月には単行本になるそうだ」
 加賀は淡々と続けた。
「次回作のオファーも来ているようだが、馨くんとしてはどうしたい?」
「どうって……」
「これからも作品を発表する気があるのか。あるいは、発表できるのかということだ」
 新人賞を取ったからといって、今後もその活動が続けられるかといえば、必ずしもそうではない。それに第一、馨は大検を受けるつもりでいるのだ。
「わかりません」
「そうか」
「わからなかったら、ダメですか」
 馨はまっすぐに、加賀を見た。
「なにがだ」
「オレ、本宅に行かなきゃいけない?」
「おまえ……」
 大亮は絶句した。
 まさか、おまえがそんなことを考えていたなんて。
 昨年の暮れ。はじめて馨の養父となる篁一馬に会ったとき、あの老人はこう言った。
『半年、やろう』
 それは、大亮に対する宣告だった。馨とともに生きていくなら、もっとおのれを磨けと。
 その期限まで、あと一カ月あまり。いま交渉している仕事が受注できたら、自分としては今後の大きなステップになることはわかっている。なんとかそれを成功させて、来月にはもう一度、あのジジイの前に立つんだ。そう意気込んでいた矢先だった。
「おまえ、そんなことを考えてたのか」
 自分が日本にいるための、手段。
 大学へ行くか、以前、五月組の組長が言っていたように手に職をつけるか。どちらかをすれば、一馬を納得させられると思ったのかもしれない。
「それは、私には答えかねる」
 加賀は重々しく言った。
「が、その旨、御前にはお伝えしておこう」
 眼鏡の奥の目が細められた。馨はぐっと唇を結んで、一礼した。

 その夜。
 大亮は馨を丹念に愛した。いや、少し執拗なまでに。
 どこまでも応えてくる体。返してくる思い。それらを抱きながら、大亮はおのれの甘さに克ちたいと思った。

 後日。
 篁一馬は大亮や馨に会うことなく、ジュネーブの本宅に戻った。
『馨に免じて、許してやる』
 ただ一行の伝言を残して。

 FIN.