『いかづちの遠くに聞きて』byつう






 山の天気は変わりやすい。先刻、沢で足を休めたときには、縹色の空に雲ひとつ浮かんでいなかったのに。
 渓谷からの急な斜面をのぼりながら、白はまもなく雨になるだろうことを予測していた。
 左右の木々のあいだに、霧がひたひたと忍び寄ってきた。見様によっては幻想的な美しい景色なのだが、実のところは天候の急変を告げる警鐘である。先を行く再不斬も、もちろんそれを知っている。
 霧は次第に濃くなってきた。視界がみるみるうちに狭くなる。再不斬が無言のまま、歩を速めた。白はそれに遅れぬよう、あとに続いた。
 半時ばかりのち、ぽつぽつと雨粒が落ちてきた。急に風も強くなり、青々と繁った樹木がざわざわと大きくゆれている。
 ドォォォ……ン。
 かすかに、雷鳴が聞こえた。
「来たな」
 再不斬がぼそりと言った。
「おそらく、まだ沢のあたりだろうが……」
 風向きからして、まもなくこのあたりも豪雨になるだろう。
「行くぞ」
「はい」
 再不斬は山路を外れた。通常の道では雨に追いつかれてしまうと思ったのだろう。白もそれに従って、先を急いだ。





 やはり、山は侮れない。
 予想を超える速さで雨雲が広がったらしく、ふたりが道を変えていくらもたたぬうちに、大粒の雨が音をたてて地面を叩き始めた。頭上では幾重にも重なった木々の葉が、ごうごうと慟哭している。
 ふたりはすでに、着衣のまま水練を行なったときのように全身濡れ鼠だった。足もとは斜面を流れ落ちてくる泥水につかっていて、ともすれば滑り落ちそうな状況だ。
「仕方がない」
 再不斬は踵を返した。
「再不斬さん?」
「このあたりに、猟師小屋があったはずだな」
「はい」
 以前、仕事の途中で仮眠したことがある。
「それがなにか?」
「しばらく、そこで待つ」
 もう仕事は終わっている。帰還を急ぐ理由もない。
 さらに強くなってきた雨の中、ふたりは猟師小屋へと向かった。





 動物たちの子育ての時期は、基本的に禁猟だ。もっとも、それにもかかわらず山に入る者はいる。
 余人がいることを覚悟して小屋の戸を開けたが、中にはだれもいなかった。
 土間の隅に、薪や炭が置いてある。板の間には薄汚れた夜具が積まれていて、湿った臭いが小屋に漂っていた。
 白は囲炉裏に火を起こした。濡れた着物を乾かして、暖を取らねばならない。
 夏とはいえ、このあたりは里にくらべて気温が低い。豪雨に打たれた体は、すっかり冷えきっていた。
 再不斬は着物を脱ぎ、囲炉裏の周りに置いた。皮袋の中から練り布を出して、体を拭く。
 無駄な筋肉のまったくない、引き締まった体だった。忍という、つねに命の危険と隣り合わせの生活をしていながら、その体には傷ひとつない。学び舎にいたころには、それなりに怪我もしたはずだが。
 例の、語り草になった卒業試験のあと、再不斬はすぐに暗部に移され、その後はすべての任務を無傷でこなしているという。「鬼人」の面目躍如といったところか。
 自分もいつか、この人のようになれるだろうか。いや、せめて、この人の手足として十分な働きができれば……。
 白は着替えるのも忘れて、再不斬を見つめた。
「なにをしている」
 低い声で、再不斬が言った。
「早く脱げ。体温が下がる」
「あ……すみません」
 白は立ち上がって、帯を解いた。板の間の隅に濡れた着物を並べ、雨を吸った髪を布で拭く。
「白」
「はい」
「閂を」
「……はい」
 白は小屋の戸に閂をさした。外はまだ、雷が鳴っている。雨雲が通り過ぎるまで、まだしばらくの時がかかりそうだった。
 白は膚着をつけただけの姿で、再不斬の前に進んだ。まず、なにをすればいいのか。じっと指示を待つ。
 大きな手が、細い腰にのびてきた。腰骨から脇にかけての線をなんどもなぞる。白は以前、再不斬の上にすわった状態でその場所を愛撫されたことを思い出し、わずかに身を震わせた。
「ほう。早いな」
 白の体の変化を見て、再不斬は下肢のあいだにも手をのばした。
 いくつかの箇所を確かめて、その奥に進む。白はひざを立てて、再不斬の肩にもたれた。
 中途半端な態勢はつらい。それでも再不斬がこの行為を望んでいるのなら否やもない。長い指が奥を翻弄していくのを、白はじっと耐えた。
「もう、よかろう」
 再不斬は白の体を倒した。先程まで冷たかった肌は、熱を帯びて染まっている。
「再不斬さん……」
 我知らず、声に吐息が混じる。
 大きく広げられた脚のあいだに、再不斬が侵入してきた。背中に走る、覚えのある感覚。少しずつ角度を変えながら、逃げ場のないところまで攻めてくる。
 大きな波も、小さな波も、的確に白の急所をついていて、そのたびにことばにならぬ声が漏れる。なんどか口に手をあててみたが、すぐに再不斬に遮られてしまった。
 雷鳴と、叩き付けるような雨音と。その中で、自分の声はどのように聞こえているのだろう。
 白は再不斬の肩にしがみつき、嵐が終わるのを待った。





 ふたりのあいだに生じた熱が、ようやく鎮まったころ。
 白は素肌に上衣を被っただけの姿で、囲炉裏のそばに横たわっていた。
「上がったな」
 閂を外し、表の様子をうかがっていた再不斬が独白した。
 雲はすでに切れ、遠雷がかすかに聞こえるのみである。着物もほぼ乾いた。が、すぐには出立できる状態ではない。
「まあ、大事はなかろう」
 霧隠れの里にもどるのが、半日ばかり遅れたとて。
 小屋の戸が、ふたたび静かに閉じられた。



 (THE END)



  戻る