たったひとつ、よかったと思うことがある。
あの夜、肌を重ねたこと。
『風花』byつう
あれが、最後の夜だった。翌日には、あの人は彼岸に渡ってしまったのだから。
仕事の前には、めったにないことだった。たいてい、あの人は仕事を成し遂げたあとにこの身を欲した。たぎる血を抑えようとしてか、あるいは自分が生きていることを確認するためか。
いずれにしても、その交わりは大切なものだった。儀式のように枕辺に進むときの喜び。この身が必要とされていることへの感謝とともに。
「白」
あの人が名を呼ぶ。ぼくは答える。
それだけで、あの人が求めているものと、自分がこうありたいと望むものがひとつであると信じられた。
「再不斬さん」
いまはもう、いない。
かつて鬼人と呼ばれた忍は、本当に鬼の国へ行ってしまった。空蝉の世に、この身だけを残して。
クーデターに失敗して霧隠れの里を出たあと、再不斬は各地を転々とした。ときには雇われ者のような生活もして、追い忍からの追跡をかわしていた。
そんなおりに、あの男が近づいてきた。
北境の塞翁。霧隠れの暗部で、五本の指に入る実力者である。
「水影の動向、知りたくはないか?」
それは、機密の漏洩だった。
塞翁は言った。水影を排する。そして、暗部の改造を行なうと。
「わしが道を作る。おぬしは、その上を歩いてくれればよい」
要するに、水影の近辺まで誘導するというのだ。
「うますぎる話だ」
再不斬は一蹴した。
塞翁は、いわゆる門閥の出だ。長を排除しなくても、十分に利を得ることはできる。
「それが、そういうわけにもいかぬでな」
塞翁は内情を語った。自分の子が水影の不興を買い、処分された。子飼いの者たちも次々と捨て駒のように使われて、このままでは自分の身も危ういのだと。
「わしとて、おぬしと通じることは命取りじゃ。その危険を冒してまで、ここに来た心情を汲んではもらえぬか」
塞翁は訴えた。再不斬はそれを承知して、加担することを決めた。
いまになってみれば、あのころ再不斬は閉塞感に悩んでいたのかもしれない。自分に従った者に報いることもできず、ただ逃げるようにさすらう日々。野望が大きければ大きいほど、その犠牲も大きいのだとわかってはいても。
塞翁の誘いに乗って、再不斬は霧の国に入った。そして……。
完全な、だまし討ちであった。水影を仕留めたと思わせておいて里の奥まで招き入れ、軍議の場で謀殺したのである。
再不斬の心臓を貫いた長い槍が、ずん、と音をたてて地面に刺さる。
塞翁の満面の笑みが見えた。
「ご苦労であった」
再不斬の首が、胴から離れた。
そのとき、白は侍童のひとりに紛れ込み、懸盤に酒の用意をして末席に控えていた。
『再不斬さん!』
わずかに足が動いた。そのとき、再不斬の顔がこちらを向いた。
来るな。
唇が動いた。
強烈な視線が白を捕える。最後の思いを留めておこうとするかのように。
来るな。
ふたたび、唇がわななく。
首が落ちる。ようやく雪が消えた土の上に。
歓声が沸き起こった。
「酒を持て!」
周りの者たちが叫ぶ。
白は懸盤を上座に供した。霧隠れの幹部たちが、杯を交わす。
総勢、十三名。いまここで、自分が刃を振るったとて、仕留められるのはせいぜい半数だ。
忘れまい。
白は、その場にいる者たちを網膜に焼き付けた。
ひとりたりとも、許さぬ。顔、声、仕草の癖。すべてを覚えておこう。いずれ、この報いは受けさせる。
その夜、弼に納められた再不斬の首が消えた。霧隠れの幹部は、それを外に漏らさぬために侍童や卑女の何人かを切り捨てた。
その、三年後。
塞翁が、雲の国の花街で死んだ。
陰間と床入りをしたあとに、急死したのだという。霧隠れの里では、その醜聞を隠蔽した。
それまでにも、塞翁の息のかかった者たちが次々に命を落としていたが、それを再不斬と関連づけていた者は少なかった。なにしろ、皆、忍である。危険な任務の最中に不慮の死を遂げることは、決してめずらしくないのだから。
そして、さらに幾星霜。
霧隠れの里において、鬼人と呼ばれた忍のことは忘れられた。
雪深い村であった。
ふるさとを思わせる山里で、白は薬草を煎じていた。
村外れの庵は、村主の持ち物であった。薬師でもある村主は、ときおり庵に籠もって村人たちの薬を作る。
七年前、ひとりの少年が薬草を売りにきたときは、たいした興味もなくそれを買い上げた。しかしその翌日、毒蛇に噛まれた村人を、その少年が助けたと聞いて、村主は彼を館に招いた。
「あと少し、手当が遅かったら危ういところであった。村主として、礼を申す」
村主の口上に対して、少年は完璧な返礼をした。
「一夜の宿を賜りましたゆえ、些少なりともお役に立てれば幸いに存じます」
言葉遣いも物腰も、じつに優雅だった。村主は少年に、しばしの滞在を願った。
少年はそれを承知したが、客人ではなく侍者として置いていただきたいと申し出た。
村主は少年に庵を与え、薬草の管理や処方を任せた。少年はすでに、薬師に匹敵する知識を持っているようだった。
村主の室は季節の変わり目に呼吸困難を起こす慢性的な疾患に悩まされていたが、少年の処方した薬を定期的に服用することで、ひどい発作からは解放された。怪我の治療なども適切で、村人たちも少年に信頼を寄せるようになっていった。
とくに子供たちは、美しい少年がお気に入りで、用もないのに庵に入り浸ってあれこれ話をねだった。少年があちこちの国を放浪していたということは、すでに知られていたから。
「ねえねえ、砂の国って、知ってる?」
「知ってますよ」
「雨が降らないって、ほんとなの」
「まさか。いくら砂の国といっても、雨はちゃんと降りますよ。ただ、とても少ないんです。だから、水がなくても育つ植物が多くて……」
少年は自分が見聞したことを丁寧に話した。やがて、庵は私塾のようになり、そこから中央の官吏になるような人材も生まれた。
「よいかな」
村主も、ときおり庵を訪れた。彼には子供がいなかったため、少年を実の子のようにかわいがった。しかし、少年はそれに甘えることはしなかった。
「館に入るつもりはないかね」
村主が養子の話を持ち出しても、いつも少年はかぶりを振った。
「ここに置いていただけるだけで、十分です」
村に住まうようになって、五年がたっていた。少年はすでに成人していたが、顔にはまだ幼さが残っていた。
そして、七年目の春。
流行り病が村を襲った。年明けに村を訪れた商人が二晩であっけなく他界したあと、その病はまたたく間に広がった。
高熱と嘔吐と痙攣。体力のない老人と子供が、次々に命を落とした。
村主も倒れ、少年ははじめて館に入って看護をした。脱水症状を防ぐために、少量ずつ水分を与える。熱冷ましの薬湯を時間を計って飲ませる。そのほか、汗を拭いたり手足をさすったり、昼夜を問わずに付き添った。
やがて、村主は全快した。そしてそれと入れ替わるように、少年が病に伏した。
高熱が三日続いた。嘔吐は一日で治まったが、それはただ、もどすものがなくなっただけで、吐き気はあいかわらずだった。
村主は病み上がりの身で、少年のために薬湯を作った。館中の者が引っ切りなしに少年の枕辺に現れて、病状に一喜一憂した。
「おにいちゃんは、どうなるの」
庵に集っていた子供たちは、半分泣きながら館にやってきた。遠方から医者が呼ばれたが、もう為す術はなかった。
熱にうなされながら、少年は(いや、もう青年と呼んでもいい年齢であったのだが)記憶の彼方を彷徨していた。
あの人に拾われた日のこと。
つらい修錬のこと。
はじめて肌を合わせた日のこと。
『白』
声が、聞こえたような気がした。
あなたがいなくなってから、ずいぶん長い時が流れてしまった。
ねえ、再不斬さん。ぼくは、もうすぐあなたの年に追いついてしまうんですよ。だって、十年、たったんですから。
だから……。
床の中で、白は思った。
もう、いいでしょう。再不斬さん。
ぼく、がんばりましたよ。
意識が遠のいていく。白は自分が、あの日に還っていくのを感じた。
最後の夜。紡がれた時間。交わされた熱。
よかった。本当に。心も体も、覚えていられて。
このまま、あなたのところへ行ってもいいですか。
『いい子だ、白』
再不斬の大きな手が、白の頭を撫でる。
『俺は、本当にいい拾い物をした』
また、そう言ってくださいね。
そして、お側に置いてください。今度は、ずっと。
谷間から清明の風が吹く。
ひらひらと舞い上がった風花は、やがて春の光に解けていった。
(了)
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