その青年の源氏名は、水仙といった。
『立花』byつう
雲の国の花街で、一際異彩を放つ月下楼にあって、上臈と呼ばれる最高級の陰間である。西方系の彫りの深い顔立ちで、髪は弾力のある琥珀色だった。
「やりなおし」
ぱちり、と扇の鳴らし、水仙は付き人の少年を見遣った。
「客が杯を持ってから提子に手をのばしても遅いんだよ。話を繋ぎながら、目を追うんだ。機嫌よくささ(酒)を飲んだ客は、床でもいい気分でいてくれる。そうすれば、こっちは余計な手間をかけなくても済むんだからね」
水仙は杯を置いて、居住まいを正した。
「あんたのことは、くれぐれも頼むって旦那さんに言われてるんだ。私が引いたあとは、あの部屋はあんたが使うんだよ。それがどういうことか、わかってるかい」
水仙は、月下楼を代表する陰間である。この春に十年の年季が明けて、晴れて自由の身となるのだ。
月下楼は、真面目に勤めた者に対しては良心的な店だった。年季が明ければ無理に引き留めたりしないし、生活が成り立つように後押しもする。水仙は今後、国境近くの町で小料理屋を営むことになっていた。
その水仙の部屋を、引き継ぐ。それはつまり、ゆくゆくは月下楼の上臈になるということなのだ。
妓楼の太夫に匹敵する上臈には、客を選ぶ権利が認められていた。もちろん、店の方でも上臈に引き合わす客は厳選しているが、それでも気に入らなければ、扇を打って「ごきげんよう」と言えばいいことになっている。
そうすれば、座はすみやかに引かれ、客はべつの部屋に案内される。たいていの場合、客はそのまま帰路につくが、ごくたまにそのまま居座って、格下の陰間を買い直す者もいる。
そういう客は、まず間違いなく、次には店に入れない。引き際を知らぬ無粋な者に敷居をまたがせるほど、落ちぶれてはいないということか。
「あとひと月のうちに、唄いと弦、それから茶の作法ぐらいは覚えてもらわないとね。さ、続けた続けた」
水仙は少年に、宴席の心得を教えることに没頭した。
首尾は上々だ。
白は、自分に与えられた部屋で鏡を見ていた。
水仙から貰った道具と着物。帯は楼主が祝儀だと言って作ってくれた。
ここに来て、まもなく三月。付き人として楼の仕事を覚え、いよいよ、今日から店に出る。水仙の部屋を譲られたといっても、所詮は新参者である。最初から上臈としての待遇など与えられるはずもない。
階下の格子での顔見せがひと月。それが、今後の格に影響すると楼主は言った。
「水仙の仕込だ。なまじな客は回さないよ。けど、こっちも商売だからね。好き嫌いを言ってもらっちゃ困る」
それはそうだろう。むろん、こちらもそんな気はさらさらない。
霧隠れの塞翁。
あの男が来る日まで、自分はここで永らえねばならないのだから。いや、それだけではない。あの男が来たとき、合方に付けるように、それなりの地位まで上っておかねばならない。
少なくとも、中臈。下臈では宴席に侍ることもできない。
「一期一会って、わかるかい」
水仙が、楼を出る前日に言った。
「私らみたいな者が言うのもなんだけど、人の出会いはおろそかにしちゃいけない。あんたと私が会ったのも、偶然じゃないんだよ」
水仙は、大事にしていたかんざしを白に渡した。
「これが、私を支えてくれた」
そのかんざしは、内部に細工がしてあった。細い空洞があって、中に何か紙縒りのようなものが入っている。
「幼なじみが、作ってくれたんだ」
水仙は、地方で幅広く商売をしている小間物屋の次男坊だった。店が傾き、借金で一家心中まで思いつめたとき、人買いが自分を買いに来たのだという。
「まさか、男でも身売りできるなんて思わなかったから、びっくりしたけどね」
労働力として売られる子供の何倍もの値段で、水仙は買われた。そして月下楼に売られ、十三の年に水揚げされたのだという。
その後、上臈の地位についたころ、出入りのかんざし職人の中に知った顔を見つけた。それが、水仙の幼なじみだった。
その男は水仙の注文を受けてかんざしを作り、その中に文を忍ばせた。家族の近況、外の様子。そしていつも、万一のときはともに逃げるとつづっていた。
「そんなこと、できるはずもないのに」
それでも、うれしかった。それだけで、日々を恨まずに過ごせた。
「あんた、なにか目的があるんだろ」
「え……」
白は顔を上げた。
「なんとなく、ね。わかるんだ。そういうことは」
にっこりと、水仙は笑った。
「このかんざしは、私の気持ちだ。うまくいくことを、祈ってるよ」
髪を切り、すっかり様変わりした水仙は、そう言って楼をあとにした。そういえば、このところ、件のかんざし職人の姿を見ない。もしかしたら、先に行って小料理屋の開店準備でもしているのかもしれない。
ともに生きる人がいるのは、いい。
白はかんざしを、鏡台の引き出しに仕舞った。
目もとと口元に、ほんの少し紅をさす。
高い位置で結った髪に、銀のかんざしをひとつ。華美な装いはしなかった。顔見せで上客を捕まえるには、保護欲に訴えるのが一番だと水仙は言った。
なにも知らぬ顔をして、外を見ていればいい。決して、視線を合わせてはならない。視線には感情が出る。ただぼんやりと、風景をながめていればいい。
幸い、楼主は白を気に入っている。最初のうちは客を回さないだろうというのが、水仙の予想であった。
最低、三日。あるいは一週間ぐらいは様子を見て、客同士に白の取り合いをさせる。そして、いちばん高値をつけた者に水揚げの権利を与えるのだ。
「あんた、経験はあるんだろ」
ずばりと、水仙は言った。
はじめて水仙と客の床入りの介添えをしたとき。白は水仙が客と事後の睦言を交わしているのを聞いてから、後始末のための用意を始めた。
「知らなきゃ、できないよね。あれは」
いままで付き人になった少年たちの中には、房事を目の当りにして動けなくなったり、階下に逃げ出す者もいた。
「ま、そんなことはどうでもいいんだけどさ」
水仙は、そのことを楼主には伝えなかった。
「ただ、これだけは覚えておきなよ」
水仙は白の肩を抱いて、囁くような声で言った。
「水揚げの客には、自分がはじめてなんだって思い込ませるんだ」
初物を好む客は多い。そして、そのために大金を積む。
「一回しか、機会はないんだよ。それをしくじったら、あんたは便利に使われるだけだ」
水仙は、水揚げの床でなすべきことを白に教えた。
「泣きの好きな客もいるけど、あんたの場合はひたすら無表情でいる方がいいね。
で、終わったら、あやまるんだ」
「あやまる?」
「できなくて、すみません……ってね」
にやりと、水仙は口の端を持ち上げた。
「たぶんそれで、そいつはあんたの上客になるよ。あとは、ひとつずつ覚えていくフリをすりゃいい」
自分の経験からか、水仙は自信たっぷりにそう言った。
本当に、ここまではうまくいった。
白は鏡の中の自分を見つめた。
「白蓮」
部屋の外から、声がかかった。
そう。今日から自分は、商品なのだ。「白蓮」という、月下楼の売り物。
「いま、まいります」
白は立ち上がった。薄い縹色の着物を、つい、と捌いて、部屋を出る。
長い廊下。急な階段。いまはまだ下へおりるしかないが、きっとそのうち、最上階の奥の間にすわってみせる。
水仙のように、毅然と。
楼主がため息をついている。白は小首をかしげて、礼をした。
顔見せ初日。
楼主は白に客を回さなかった。裏でなにが行なわれているのか、すでに明らかであった。
そして。
水仙の予想を上回り、白が水揚げの床に就いたのは、その十日後のことだった。
(了)
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