店の名を、月下楼といった。





『落花』  byつう






 
 雲の国の花街の外れ。一般には二流どころの妓楼が並ぶ中に、ひとつだけ明らかに格の違う建物がある。それが、大勢の陰間をかかえる月下楼であった。
 本来、陰間茶屋と妓楼は運河をはさんで向かい合って並んでいる。遊客は堀を渡り、「東」と称される妓楼と「西」と呼ばれる陰間茶屋に分かれていく。
 さすがに東へ進む者が多いが、西の通りもそれなりの人混みで、格子の中で顔見せをしている若い陰間目当てに通う客も少なくなかった。
 そんなふうに、いわばショバを分けているはずの花街で、一軒だけ東に店を構えているのが月下楼だ。
 運河に面した四階建ての楼閣は、夜目にも鮮やかだった。周りの妓楼がかすんで見えるほどに。
 夜な夜な、月下楼の車寄せにはきらびやかな輿や籠が着き、扇や几帳で顔を隠した遊客が中へ消えていく。他国からわざわざ遊びに来る富豪や貴族も多く、陰間の中には異国の言葉を操る者もいた。
「ごゆるりと、なされませ」
 月下楼で最高の花代を取っている、白蓮という源氏名の陰間が、霧の国からの客に挨拶した。
「主さまは音曲を好まぬと伺いましたゆえ、楽人はおりませぬが、なんぞほかにお召しはございましょうや」
 長い黒髪を高い位置で束ね、絹の頭巾と珊瑚のかんざしで飾っている。目もとと口元のほのかな紅が、まだ十代半ばであろうこの少年に得も言われぬ艶を与えていた。
「いや。要らぬ」
 霧の国の侍という触れ込みの四十半ばの男は、白蓮をしげしげと見た。
「月下楼の上臈が付いてくれるというに、楽も遊芸もなにほどのものか」
「それは身にあまるお言葉。されば、一献」
 白蓮は袖に手を隠し、提子の柄を取った。客の杯に、つつっ、と酒を注ぐ。
 じつに優雅な物腰であった。わずかに見える指先の、その美しいこと。客は酒を飲むのも忘れて、見入った。
 陰間には、原則として太夫などの位はない。しかし店のあいだには歴然とした格の違いがあり、当然、花代は雲泥の差がある。
 月下楼は内々に、上臈、中臈、下臈という階級を設けていた。
 太夫に匹敵する上臈の者には客を選ぶ権利があって、客がいくら金を積んでも、上臈の「おましあれ」という承諾の言葉がなければ部屋に入ることもできない。
 現に、男は以前、上臈のみが使うことを許されている最上階への立ち入りを断られている。それがなぜ、今回はすんなり通れたのだろうか。男にもその理由がわからなかった。
「主さまは、ささ(酒)は召し上がりませぬのか」
 白蓮は小首をかしげた。男は慌てて、杯を空けた。
「すまぬ。つい、見とれてしもうた。聞きしにまさる美貌じゃな」
 これまでも月下楼の陰間を買ったことはあるが、どこか陰欝で、媚を売る感じがしたものだ。しかし、いま目の前にいる少年は、愛らしさの中にも毅然としたものがあって、まるで錦絵を見ているようだった。
「面白いことを仰せになる。われなど口説かずともよろしいものを」
 くすくすと、白蓮は笑った。
 たしかにそうだ。相手は陰間。こちらは客だ。男は咳払いをした。
「ということは、奥へ上がらせてもらえるのかな?」
 太夫と同じく、上臈の場合、初会で床入りすることは稀と聞いた。
「お望みとあれば」
 切れ長の目が、ほんの少し細くなる。
「しばらく、お待ちくださりませ」
 白蓮は、すっと立ち上がった。帯に付いた鈴が、しゃらん、と鳴る。奥の襖が音もなく開いた。見事な塗りの衝立の向こうには、すでに枕席の準備ができているようだった。
 衝立の陰で、白蓮は裲襠を脱いだ。付き人の少年が、それを手際よくたたんで葛籠に仕舞う。頭巾を外し、髪を飾り紐で結い直したところで、凛とした声がした。
「おましあれ」
 なんとも、今日はついている。男は武者震いに似た感覚を味わいつつ、奥に足を踏み入れた。






 もう、十分楽しんだだろう。
 白蓮は枕の下から、それを取り出した。薄暗がりの中、しかも房事の最中のこの男に、自分が手にしたものが何かなどわかるまい。
 男の息が一段と荒くなった瞬間をとらえ、白蓮はそれを男の腋の下から心臓に向けて突き刺した。するりと肋骨のあいだを通って、切っ先が目標に達する。
「は……」
 男が、なにか言おうとした。体はまだ繋がっている。白蓮は微笑んだ。
「塞翁どの。お久しぶりです」
 本名を呼ばれ、男は目を見開いた。がくがくと全身が痙攣する。
「一年、待ちましたよ」
 この男がここに来るまで。
 前回は連れがいたため、部屋に上げることができなかった。しかし、今日はたったひとりで、しかもどうやら仕事の途中で抜けてきたらしい。
 この機会を逃すわけにはいかない。霧の国に帰られては、また手出しできなくなってしまう。この男が雲の国に来るたびに月下楼で遊ぶと知って、わざわざここに潜り込んだのに。
 仕事をさぼって陰間を買いに行き、そこで事故死したとなれば、霧の国の上層部も事を表沙汰にはすまい。
「あなたで最後です。皆さんに、よろしくお伝えくださいね」
 白蓮は男の体を押した。男はどさりと、絹の夜具の上に崩れた。
「もう、聞こえませんか」
 白蓮は男の腋から千本を引き抜いた。
 房事の後始末に使う薄様で、血を拭う。傷口は肉眼ではほとんどわからない。
 月下楼とて死人を出したことは隠そうとするはずだ。死体の検分が行なわれることは、まずない。
 白蓮はかんざしの細工の中に千本を隠し、声を上げた。
「主さま! いかがあそばされました!」
 ただならぬその声を聞きつけて、付き人が飛び込んできた。夜具の上では、男が目を開けたまま絶命していた。





 ひと月後。
 月下楼では上を下への大騒ぎになっていた。先夜まで楼の奥にいた白蓮が、忽然と姿を消してしまったのである。
 客とともに床に入り、事がつつがなく終わったところまでは付き人が隣の部屋で聞いていた。いつもなら、そのあと身仕度を手伝うのだが、いつまでたっても声がかからない。
 もしかして、二回目が始まっているのかもしれないと思い、付き人はさらに半刻ばかり待った。しかし、そのような物音も声もしない。さすがに不安になって、そっと奥を覗いてみると、そこには客が眠っているだけで、白蓮の姿はどこにもなかった。
 すわ足抜けかと楼主は慌てたが、楼閣の見回りをしていたつわものたちは、不審な者は見なかったと言う。
 白蓮の部屋には、客から贈られた着物や道具の数々がそのまま残っていた。文箱の中にはかなりの額の金子が入っていて、皆は神隠しにでも遭ったのかと噂した。
 まったく、惜しいことだ。月下楼の楼主は思った。
 あれほど美しく、賢く、従順な者はいなかった。一年前、意識を失って運河に浮いていたあの少年を拾ったときは、有頂天になったものだが。
 楼で働くことに、なんの抵抗もないようだった。教えたことはすべて素直に吸収し、またたく間に上臈になった。
 いい夢を見たということかもしれない。まあ、おかげで楼の名は高まったし、上がりも上々だ。欲をかきすぎてはいけない。あれのことは諦めよう。
 楼主が白蓮の捜索を打ち切ったのは、三日後のことだった。





 雲の国から木の葉の国に向かう山路で、ひとりの少年が薬草を摘んでいた。次の村には薬師がいる。これを売れば路銀の足しになるだろう。
 少年は空を仰いだ。雲がゆっくりと流れてくる。もしかしたら、雨になるかもしれない。薬草はこれぐらいにして、先を急ごう。
 もう少し行けば、猟師小屋がある。そこで雨をやり過ごせればいいのだが。
『ハク』
 少年は、足を止めた。
 まただ。また、あの人の声が聞こえてしまった。
『行くぞ、白』
 二人で歩いた道を通るたびに、記憶が鮮やかに蘇る。
 なぜ忘れてしまえないのだろう。こんなにつらいのに。この身などなくなってしまえばいいと思うほどに。
 もう、生きている理由はない。あの人を陥れた者たちはすべて消した。三年、かかったが。
 それが終われば、いつ死んでもいいと思っていた。実際、月下楼で最後のひとりを手にかけたあと、自ら命を絶とうとしたのだ。が、できなかった。
『おまえの血は、俺のものだ』
 そう言ったあの人の、声が聞こえたから。
 月下楼に入り込むのには、苦労した。なにしろ一級の店である。なまじな女衒では出入りできない。うっかり別の店に売られてしまっては元の子もないと思い、直接、楼主の目に留まる方法を考えた。月に一度の寄り合いの帰り、楼主は屋形船で運河を下る。それが狙い目だった。
 目論見は成功した。楼主に拾われ、月下楼で働くことになり、楼を背負って立つ上臈の地位に就いた。むろん、それまでに様々な苦労はあったにせよ、目的のためには否やもなかった。
 さすがに、自分が最後のひとりになったと悟った塞翁は、用心深かった。国内では手出しできぬ。とすれば、気がゆるむ他国で機会を窺うしかない。
 雲の国に狙いをしぼって、待つこと一カ年。
 獲物はかかった。新しい上臈の噂を聞きつけて、やってきたのが運の尽き。
 塞翁どの、と呼んだときの、あの男の顔。
 あれですべてを察しただろう。そして、自分がなにゆえに命を絶たれるのかも十二分にわかったはずだ。もっと苦しませたかったが、この際、そんなことはどうでもいい。
 あの人に教えられたことが、こうまで役に立つとは思わなかった。忍としての技と、もうひとつの……。
 あの人の不興を買うだろうか。あんなことをして。
 でも、許してほしい。ぼくは、あなたの無念を晴らしたかっただけなのだから。
『いい子だ、白』
 山路を進みながら、かつて霧の国の忍であった少年は、そんな声を聞いた。
 雷雨が背後に迫っていた。
「再不斬さん……」
 白は、鬼籍に入ったその人の名を呼んだ。
「ぼくは、まだ死ねないんですね」
 あのとき、なぜ、自分も連れていってくれなかったのか。
 最期の瞬間、来い、と、ひとこと言ってくれたら、なんの迷いもなく、ぼくはあ
なたと共に冥府へ旅だったのに。





 かつて再不斬と体を重ねた小屋の中で、白はひとり、雷鳴を聞いた。
 いつでもいいですよ。再不斬さん。
 ぼくはいつでも、あなたの側へ行ける。
 けれど、あなたが来いと言わないのなら、ぼくはここにいる。
 生きる意味も死ぬ意味も、あなたに与えてもらったのだから。



 流されていく体。たゆたう心。
 風に舞う落花のごとく。
 




  (了)



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