青のしずく byつう








 ついさっきまで激しく揺れていた体が、いまは死んだようにぴくりとも動かない。呼吸のたびに肩がわずかに上下するので、眠っているのだとわかるけれど。
 また、無理させちゃったかな。
 毛布をずり上げながら、カカシはため息をついた。
 このあいだも、そうだった。なかなか放せなくて。もう少し、もう少しだけ、と思っているうちに、イルカは気を失ってしまった。
 ちゃんと、ふつうに眠れるあいだに、手を放せたらいいのに。でも、それができない。一度触れたら二度、二度触れたら三度。どんどんほしくなって、きりがない。
 会えない時間が長すぎた。なんたって、四年と一カ月と十二日なんだから。もっと細かく言うと、一五〇四日。
 ことわざで「石の上にも三年」っていうのがあるらしいけど、オレもせめて、それぐらいがよかったな。
 イルカの寝顔を見ながら、埒もないことをつらつらと考える。
 ずっと、想っていた。イルカがイルカであると知る前から、ずっと。
 先にイルカが、くれたから。雪解けの川原で、イルカはオレに「アオ」をくれた。見ず知らずのオレに。
 あたたかかった。やわらかかった。その服からは、いい匂いがした。人間の体温の匂いが。
 服の色は青だった。だから、オレはその服を「アオ」と呼んだ。
 だれとも話をしなかった日の夜は、アオと話をした。たくさん人を殺して、だれからも誉めてもらえなかったときは、アオを抱いて眠った。大丈夫だよって、慰めてくれるような気がして。
 何年かたつうちに、ぼろぼろになってしまったけど、アオはアオだった。あたたかさもやわらかさも匂いも、オレにとっては宝物だった。
 はじめて、もらったもの。なんの見返りもなく、与えられたもの。なにものにも代えがたい、たったひとつのもの。
 カカシはそっと、イルカの髪に口付けた。
 この匂いだ。ずっと自分をあたためてくれたのは。そしてこれからも、ずっとあたためて……。
 ふいに、目頭が熱くなった。
 涙。悲しいときに、苦しいときに、目の奥から流れ出るしょっぱい水。
 最初に泣いたのは、アオを窓から捨てられたとき。
 次に泣いたのは、イルカが離れてしまうと思ったとき。
 それがどうして、いま出てくるんだろう。おかしいな。オレはこのうえもなくうれしいはずなのに。
 ぽたり。雫が黒髪の上に落ちた。すっと染み込んで、消えていく。
 ぽたり。ぽたり。いく粒もの涙が、同じようにしてイルカに注がれる。
「ん……」
 イルカがわずかに、眉を寄せた。指先がぴくりと動く。どうやら、起こしてしまったらしい。
「あ……ごめん」
 思わず、あやまった。あわてて涙をぬぐう。
 イルカはゆるゆると顔を上げた。まだはっきりとは意識が覚醒していないのか、しばらくのあいだ、ぼんやりとこちらを見ていた。
 焦点の定まらぬ、潤んだ目。なんとも言えず、艶めいている。
 ダメだぞ。
 自分に向かって、必死に言う。今日は、もうダメだ。イルカはあした、夜勤なんだから。しかも通常の事務に引き続いての夜勤。実質的には二十四時間拘束のようなものだ。
「どうか、したんですか」
 ようやく、イルカが言葉を発した。ひどく掠れた声で。
 先刻までのあれこれが脳裏をかすめる。自分の下で、あるいは上で、イルカはこの声を散らしていたのだ。
 だーかーらー……ダメだって。
 自分で突っ込みを入れる。カカシは大きく息をついた。
「カカシ?」
「んー。べつに、なんでもないよー」
「でも、涙が」
「へ?」
 ちゃんと拭いたはずだけど。
「なにかあったんですか」
 手がのびてきた。体温。イルカの、生きている証し。
 ああ、もう、いいや。イルカには悪いけど。……イルカが悪いんだからね。
 ばっと毛布を蹴って、カカシはイルカを組み敷いた。驚いたような顔。でも、もう遅いよ。
「くれるんでしょ?」
 否と言わないのを百も承知で、訊く。イルカはじっとカカシを見つめた。
「目が……」
「え?」
「赤いですね」
 赤い? そりゃ、左眼は赤いよ。それがなんなのだろう。イルカの言葉の真意が掴めず、カカシは首をかしげた。
「……いいですよ」
 ひっそりとした声。それが自分に対する答えであると気づくのに、数秒かかった。
 イルカの手が力なく肩にかかる。カカシはイルカの体を呼び起こすため、首筋に唇を近づけた。




 結局、ガマンできなかったけど。でも、だいぶセーブした。
 ほんとは、もっといろいろ動きたかったし動いてほしかったけど。声も聞きたかったけど。
 これ以上、わがまま言うのはやめよう。イルカはいつだって、オレのいうことを聞いてくれるんだから。
「……悲しい夢でも、見たんですか」
 うつらうつらとしながら、イルカは言った。もう半分は眠っているだろうに。
「ちがうよ」
 短く、否定した。
「悲しいこともあったけど、いまはすっごくしあわせだなーって思って。そしたら、なんでだかわかんないけど、涙が出てきてさー。ヘンでしょ」
「変じゃ……ないですよ」
 うっすらと、イルカは笑った。
「よかったですね」
「え?」
「うれしいときに、泣けて……」
 消え入りそうな語尾。カカシは目を見開いた。
 そうか。人間って、うれしいときにも泣くものなんだ。
『よかったですね』
 うん。よかったよ。イルカに喜んでもらえたんだもの。
 あ、まただ。
 じん、と目の奥が潤む。
「イルカ……」
 静かな寝息が聞こえてきた。もう起こしてはいけない。カカシは毛布にくるまった。
 涙がこめかみを伝って落ちていく。あたたかな、やさしい涙が。



 これも、あんたがくれたもの。あんたがくれた、心の雫。
 その雫に洗われて、記憶の中の暗く冷たく哀しいものが、どんどん溶けていくような気がした。



(了)


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