青の碑 byつう









 懲罰房から出てきた次の日に、カカシは「アオ」を土に還した。
『アリガトウ』
『サヨナラ』
 ふたつの思いをこめて。
 しばらく行李の中に入れっぱなしにしていたせいで、アオにはカビがはえていた。洗濯をして半日ばかり干したあと、部屋の窓から見える場所に穴を掘り、そこにきちんとたたんだアオを入れた。土をかけるとき、ほんの少し迷ったらしい。でも。
「ちゃんとお別れしなくちゃ、って思ってさー」
 そのときのことを思い出したのか、カカシは視線を宙に飛ばした。
 カカシにとって、アオはシェルターだった。つらいとき、苦しいときに逃げ込むための。
 しかし、それは結局は幻影でしかない。いつまでたっても。どこまで行っても。
 そしてカカシは、幻と決別した。




 その話を聞いたのは、イルカがはじめてカカシの家に泊まった日のことだった。
 夏のはじめ、カカシは里のはずれに家を買った。その家は、かつてこのあたりを治めていた庄屋の別邸で、庄屋が若い妾のために贅を尽くして建てたものだった。
 庄屋の死後に売りに出されたものの、なかなか買い手がつかず、二十年以上も空き家になっていた。というのも、森の国や雲の国からも職人を集めて作らせただけあって、古いながらも相当な値がついていたからだ。
 その屋敷を、カカシが買った。それも即金で。
「だって、お金、あったから」
 本人は、平然としてそう言っていたが、アカデミーではしばらくその話で持ち切りだった。
 さすがは「写輪眼のカカシ」だとか、暗部の俸給はそんなにいいのだろうか、とか。一足先に家を買っていたアスマなどは、「俺でもローン組んだんだぞ」とぼやいていたが。
 里に帰ってきてしばらくは、カカシは火影の館の奥殿に居候をしていた。スリーマンセルの教官になるにあたって、いろいろと下準備があったから。
 うずまきナルト。うちはサスケ。このふたりを受け持つとなれば、それもあたりまえだろう。正式に七班の担当になってから家を探しはじめ、何軒かを見て回った挙げ句、郊外にある屋敷を選んだ。
「だーって、町中だとご近所付き合いとかジャマくさそうなんだもん」
 イルカが隣近所と行き来しているのを見て、そう思ったらしい。
 たしかに、ここならいわゆる「近所付き合い」はしなくていい。なにしろ、隣家まで一キロ以上離れているのだから。
「それにさあ、ここだったら結界張らなくても、いっくらでも声、出せるし」
 まさか、それがいちばんの理由なんじゃないだろうな。
 玄関を入ったところで、ふと隣を窺ってしまった。その気配を感じたのか、カカシはぺろりと舌を出した。
「じょーだんだよ。……怒った?」
 覗き込むようにして、言う。イルカは苦笑した。
「いいえ」
「よーかった。んじゃ、お風呂、入ろっか」
 にこにこしながら、続ける。
「ここ、お風呂も広いんだよ。ゆっくり、入ろうねー」
 やはり、そのあたりに基準があったのかもしれない。ため息まじりに、イルカは履物を脱いだ。





 ゆっくりと……本当にゆっくりと風呂に入ったあと、イルカは倒れ込むようにして夜具に横たわった。
 目眩がする。耳鳴りがする。全身がだるい。とくに下半身が。
 わかってはいたが、カカシは寝室まで待ってはくれなかった。湯船の中で体を作られ、昂められ、貫かれた。いつもとは違う感覚。天井に響く声も、むろん常とは異なる。倒れる寸前に、カカシはようやくイルカを解放してくれた。
「イルカー。水、持ってきたよ」
 畳の上に、コップが置かれた。なみなみと注いできたのか、いくらかこぼれて畳を濡らしている。
「あれ、起きられない?」
「……ええ」
 まぶたの裏に銀色のものがちかちかしている。
「ごめんねー。ちょっと長引いちゃったから」
 どこが「ちょっと」だ。もう少しというところになってから、さんざん焦らしたくせに。もっとも、それがあったから、自分も痺れるほどの悦楽を味わうことができたのだが。
 いつも、そうだ。この男は限界まで求めてくる。そして自分もそれに応えてしまう。ときには、こちらもさらに多くを欲して。
 互いに熱を出し切らないと、落ち着かないのかもしれない。なにもないところから始めたふたりだから。
 そっと、あごに手がかけられた。薄く目を開ける。ふた色の瞳がすぐそこにあった。
 濡れた唇が押しつけられた。流れ込んでくる液体。ごくり。喉元を通り過ぎていく。
「飲めた?」
 うれしそうに、カカシが訊いた。
「もうひと口、どーぞ」
 同じことが繰り返され、イルカは目を閉じたままそれを受けた。
 まずいよな。そう思う。こういうことをしているうちに、きっとまた……。
 わかっていた。十分に。それでも、やはり自分は受容するのだろう。この男のすべてを。
「イルカ……」
 声。甘えるような、ねだるような。
 いいですよ。
 言葉のかわりに、深く唇を繋いだ。




 その話を聞いたのは、眠りに落ちる直前だった。懐かしそうに、カカシは言葉を紡いだ。
「ちゃんとお別れしなくちゃ、って思ってさー」
 どれほどの勇気が要ったことだろう。たったひとつの支えだったものと決別するのは。
 土に汚れて、よすがとしていた匂いが失われていたとしても。それでも「アオ」は、そのときまでカカシにとって特別に存在だったのだから。
 アリガトウ。
 サヨナラ。
 それが、言えたんだな。
「あれえ、どしたの」
 カカシの指が頬に触れた。なんのことだか判然とせず、イルカは顔を上げた。視界が歪んでいる。
「あ……」
 涙。その向こうで、カカシが首をかしげている。
「オレ、なんか悪いことでも言った?」
「……いいえ」
 うれしくて。
 あのときすでに、カカシがそれほどまでに心を決めていたなんて。
 自分は驕っていた。思い上がっていた。カカシを導くことができるなどと、一瞬でも思ったのだから。
 愛すればいい。ほかにはなにも要らない。
 この男は自分で道を見つけるだろう。愛することを、愛されることを知ったから。
 不安げに、カカシがこちらを見ていた。イルカはカカシの手をとった。そっと、てのひらに口付ける。
 愛している。愛している。愛して……。
 眠りが訪れるまで、イルカはその言葉を繰り返していた。



(了)



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