『蒼月』
蒼い月に、侵されてゆく。

byつう

「動かないでくださいね」
 カカシは言った。イルカの首に、クナイをぴったりとあてて。
 圧倒的な恐怖。静かなる殺意。
 クナイなど用いずとも、四肢の自由を奪うのに十分なほどの。
 そして、カカシはイルカを蹂躙した。



 あれから、十日がたった。
「おはようございます、イルカ先生」
 アカデミーの中で、何事もなかったかのように話しかけてくるカカシに、イルカも事務的に挨拶を返す。
「おはようございます」
 それ以上のことはない。その後は、カカシもイルカも、それぞれの仕事に就くだけだ。
 体の傷は、ほぼ完治している。実戦の際の怪我にくらべれば、たいしたことはない。骨折も脱臼も、創傷もない。打撲の痣もめだたなくなったし、擦傷の瘡蓋はきれいに剥がれた。
 考えてみれば、見事な腕前である。最大の苦痛を与えながら、体に残るダメージは最少に抑えたのだから。
 もっとも、ごく一部の箇所は、しばらく後遺症に悩まされたが。
「おまえ、今日も居残りなのか?」
 終業間際、同僚がイルカの手元を見て、言った。
「ああ。切りのいいところまで、やってしまいたいから」
 イルカは報告書のファイルを分類していた。ランク別に分けて、さらに一人一人の任務の達成率や失敗の原因、だれがどんな任務に適しているかなどの統計をとって、今後の資料にするつもりだった。
「久しぶりに、一緒に飲もうと思ってたんだがなー」
「悪い。また今度な」
 イルカは片手を上げた。同僚は、無理するなよ、と言い置いて、事務局を出ていった。
 事務局の継続使用許可は、すでに取ってある。イルカはあれ以来、家に帰っていなかった。
 むろん、着替えを取りにもどったり、掃除や洗濯をするために立ち寄ることはあったが、どうしても家で眠ることができなかった。
 まったく、情けない。
 心の中で自嘲する。もっとひどい目に遭ったこともある。それこそ、命も誇りも、すべてを奪われそうになったことも。
 なぜ、こんなに恐ろしいのだろう。自分でもわからない。理屈ではなく、ただ、恐いのだ。
 日中は、なんとかなる。口布と額宛てで、カカシの顔はその半分以上が隠れているから。
 その姿であれば、廊下ですれ違っても、事務局で会っても、それは中忍として礼を失することのないよう、振舞えばいいだけだ。
 が、もし、またあの素顔を見てしまったら。一対一で対峙するようなことになったら。
 自分は逃げられるだろうか。身のすくむような殺気の中で、同じことが繰り返され、そして……。
 イルカは頭を振った。
 忘れよう。忘れるのだ。それが、きっと最善の道だ。
 そう自分に言い聞かせ、イルカは仕事を続けた。



 雲の国の草が、木の葉の国に潜入しているらしい。
 その情報を受けて、ナルトたちは国境の町に向かった。
 草とは、一般人になりすまして情報を集める、間諜のことだ。たいていは高齢になって退職した忍か、怪我などによって一線を退いた者がその任に当たるが、実力は中忍以上のつわものであることが多かった。
「大丈夫だってばよ」
 ナルトは張り切っていた。
「なんたって、オレ、Bランクの任務もクリアしたんだぜ。見張りなんて、軽い軽い」
 ナルトたちの任務は、草の動向を探ることだった。
 見張りとひとことで言っても、ただ見ていればいいわけではない。ナルトは、この仕事には向いていない。イルカはそう思った。
 逆に、サクラは監視の任務に適している。情報処理能力は優れているし、引き際も心得ている。サスケの大局を見る能力と合わせれば、今回の仕事もそつなくこなすだろう。
 ただ、不測の事態が起きたとき、突破口を開くのはナルトだ。トラブルメーカーは、最終的にはトラブルシューターになりうる。
 ナルトたちが出発した翌日、イルカは久しぶりに休みを取って家にもどった。
 今日は、心置きなく眠れそうだ。カカシはナルトたちとともに国境に向かっている。内容からして、相当長期になるはずだ。
 ほぼ二週間ぶりに自宅の風呂につかる。ゆっくりと汗を流し、夜着に着替えて晩酌をした。
 冷やのままで、一献。
 帰りに買ってきた安酒だったが、胃の腑に滲み渡るように旨かった。
 あのとき、カカシに出した「喜八」の酒はもうなかった。翌朝、流しに捨ててしまったのだ。
 惜しいとは思わなかった。忌まわしい記憶とともに、それはとくとくと流れていった。
 自分には、これが相応だ。
 イルカは思った。どこででも買える、量販の酒が。
 一合ばかり飲んで、イルカは酒を仕舞った。惣菜屋で仕入れてきた煮物と握り飯が、今夜の夕食だ。
 温めた方がいいかな。
 そんなことを考えていたとき、玄関の戸を叩く音がした。
 こんな時間に、だれだろう。アカデミーでなにか急を要することが起こったのだろうか。
「はい。どちらさまですか」
 扉の前で、訊く。
「開けてください」
 瞬時に、血の気が引いた。
 なぜ、あの男がここにいるのだ。昨日、ナルトとともに任務に就いたはずなのに。
「イルカ先生?」
 ノックの音。イルカはじりじりとあとずさった。
「か……」
 のどが、ひきつる。
「帰って……ください」
 やっと、声が出た。しかし、それが相手に聞こえたかどうかは、はなはだ怪しい。
「開けてくださいよ」
 拗ねたような声。イルカはドアを凝視した。
 開けたら、終わりだ。あのときと同じように、おそらく自分は……。
「帰ってください」
 ほとんど悲鳴に近い声で、イルカは言った。凍りつくような沈黙が流れる。
 しばらくして、気配が消えた。イルカは脱力して、その場にすわりこんだ。
 助かった……。
 そう思った瞬間に、がくがくと全身が震えた。自分ではどうすることもできない恐怖。命の危険を侵して任務についていたときにも感じなかったほどの。
 意のままにならぬ体をなんとか起こして、イルカは奥の八畳間に入った。
 眠ろう。一刻も早く、眠るんだ。
 イルカは自分に言い聞かせた。灯を消して、蒲団を敷いて。そうだ。雨戸を閉めておかなくては。
 防犯意識の低いイルカは、いつもは雨戸を閉めていなかった。なにしろ古い貸家である。こんなところに入る泥棒はいないと思っていたし、よしんば入ったとしても盗られるものなどなにもない。
 しかし、いまは違った。できうるかぎりの防御をして、安心したかったのだ。
 障子を開けようと手をのばしたとき。
 ガシャン、と派手な音がして、続いて、障子の枠がぼきりと折れた。
「ひっ……!」
 イルカは反射的に飛びのいた。障子が破れて、手が突き出している。
「あ……」
 がちがちと、歯が鳴った。突き出た手がゆっくりと下がり、やがて、カチャリと鍵の外れる音がした。
 ガラス窓と障子が、ほぼ同時に横に動いた。青白い月明りが部屋に差し込む。
 右手をぺろりとなめながら、長身の男が窓を乗り越えて室内に入ってきた。音もなく畳の上に足をつく。
「すみません」
 カカシは神妙な声で言った。
「窓、割っちゃいました」
 うっすらとした微笑み。背中に月の光を浴びて、銀髪がゆらめく。

 イルカは玄関を窺った。逃げ道は、そこしかない。しかし、いまここで背を向けてしまったら、瞬時に飛びかかられるだろう。
 こめかみから、冷たい汗が流れ落ちた。口の中はもう、からからに乾いている。
「玄関を壊すよりはいいかと思って」
 悪びれもせずに、言う。
「今度から、ちゃんと開けてくださいね」
 カカシの左手がずいっとのびて、イルカののどにがっちりと食い込んだ。
「……!」
 持ち上げられるように首を圧迫されて、イルカは視界が銀色になるのを感じた。
 苦しい。息ができない。
 ひざの力が急速に抜けていく。ブラックアウトの直前に、カカシはイルカの体を横に投げた。
 先刻、敷いたばかりの蒲団の上にどさりと崩れ落ちる。イルカはのどをおさえて、激しく咳き込んだ。
 なんとかまともに息ができるようになったと思った直後、延髄のあたりをがっしりとつかまれて、イルカは夜具に顔を押しつけられてしまった。左腕は体の下敷きになり、両脚はカカシに封じられている。かろうじて自由の利く右腕も、敷布をむなしく掴むだけだ。
 カカシの右手が、下肢にのびた。
「今日は、余計なことをしなくてすみそうですね」
 夜着の裾をたくしあげ、下穿きの中に指を進める。
「……やめてください!」
 イルカは体をねじって抵抗を試みた。
「いいんですか」
 耳の横で、カカシがつぶやく。
「窓、開いてるんですよ」
 騒ぎを起こして人目についてもかまわないのか。カカシは暗に、脅しをかけている。
 窓は川に面していて、人通りはまったくといっていいほど、ない。隣家に対面している玄関とは違う。カカシもそれを見越して、窓を破ったのだろう。
 とはいえ、月明りが皓々と差し込むほど開かれているのだ。不審に思って様子を見に来る者がいないとも限らない。
 カカシの指が、その場所に宛てがわれた。内部を押し開くように、ゆっくりと侵入を始める。
 イルカはきつく目を閉じた。
 もう逃げられないのだ。それなら、せめて……。
 右腕で口をふさぎ、必死に声を押し殺す。指が中でうごめくたびに、胃を押し上げるような不快感がこみあげてきた。
 まだだ。まだ、こんなものではない。
 イルカは前回の記憶をたどりつつ、これから為されることに対処できるよう、自分を励ました。
 なにもわからないよりは、ましだ。そう思う反面、またあの苦痛を味わうのかと思うと、全身がこわばるほどの緊張を覚える。
「駄目ですよ、イルカ先生」
 ぐいっと腰を引き上げて、カカシは言った。
「そんなに意地を張ってると、怪我をしますよ」
 無理強いしているのは、そっちじゃないか。
 イルカはかっとなって、カカシをにらんだ。首を押さえつけられているので、直に顔を見ることはできなかったが。
 高く掲げられた腰から、下穿きが乱暴に引き下ろされた。指が抜けた場所に、脈脈と息づくものが食い込んでくる。
 打ち付けられる熱と痛み。背中を這い上がってくる痺れに耐えつつ、イルカは少しでも早く、解放されたいと願っていた。



 せっかく休みを取ったのに。
 また今日も、ゆっくり眠れそうにない。洗濯したばかりの敷布はぐちゃぐちゃに汚れてしまったし、窓は割れたし、障子は破れたし。
 とりあえず、今夜は雨戸だけ閉めておくとして、明日一番に建具屋に連絡しなくてはいけない。給料日前だというのに、この出費は痛い。
 鉛のようになった体を横たえて、イルカはそんな埒もないことを考えていた。カカシは自分だけさっさと体を拭いて、身仕度を整えている。
「じゃ、今日は帰りますね」
 前回と同じ台詞だ。イルカはちらりと、カカシを見上げた。
「……ひとつ、伺いたいんですけど」
「はい。なんでしょう」
 カカシはイルカの枕元に腰をおろした。
「任務の方は、どうなったんですか」
 カカシはナルトたちとともに、間諜の動向を探りに行ったはずだ。それなのに、なぜいまごろ里にいるのか。
「ああ、そのことですか。いやあ、スパイの見張りなんて、今日明日にどうこうしなくちゃいけないもんでもないですからねえ。ナルトたちには、相手が動いたら、すぐに里に連絡しろって言っておきました」
 要するに、本当に「見ている」だけでいい仕事だったというわけか。
「そんな仕事……どうして受けたんです」
 仮にも、上忍が出張るほどのことではない。
「どうしてって……そうでもしないと、イルカ先生、なかなか家にもどってくれないでしょ」
 カカシはにっこりと笑った。
「いくらなんでも、アカデミーの仮眠室では、ね」
 イルカは唇を噛んだ。
 はめられたのだ。自分は。カカシが不在だからと安心して、ここに帰ってきたのに。
「それじゃ、おやすみなさい」
 自分が破った窓から、カカシが帰っていく。
 蒼白い月影を背に、イルカは己の甘さをひしひしと感じていた。



『蒼月』  終  



物語は『月落』へ続きます。

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