星月夜 byつう
終わり良ければすべてよし、だと思うんだけどな。
夜、厨の床を水拭きしながら、刃は独白した。
加煎は、うちは一族の血を引く者を敵に回したことを危惧していたが、あのあとだれも追ってこなかったところを見ると、とりあえず今回のことは不問に伏されたと思っていいだろう。
だいいち、うちはの末裔だという黒髪の上忍が本気でかかってきていたら、自分など生きて帰れたかどうかわからない。セキヤは醍醐にさえも「逃げろ」と言ったのだから。
むろん、これからのことはわからない。今回は木の葉と雲の和議が成立したが、これとて未来永劫続くものではない。早ければ数年で崩れうる。それは、いままでの歴史が如実に物語っていた。
「まだ、いたんですか」
戸口から、声がした。加煎が夜着の上に肩布を羽織った姿で、立っている。
「セキヤが、お待ち兼ねじゃないんですか?」
「なんか、取りにきたの」
問いには答えず、逆に訊く。
「ええ、まあ……寝酒をね」
飲んでも酔わないくせに。
「強いのは、やめた方がいいよ」
加煎がかなり度数の高いにごり酒を手にしたのを見て、刃は言った。
「ひとりで飲むんなら」
「ふたりですよ」
「だったら、いいけど」
刃は洗ったばかりの杯をふたつ、盆に乗せて差し出した。加煎は一重の目をわずかに細めて、それを受け取った。
「セキヤには、お酒なんか持っていかないでくださいね」
「いかないよ。空きっ腹に酒なんて、最悪じゃんか」
「夜食も、ね」
やんわりと、釘を差す。
「ほんとに三食、あの粥にする気かよ」
「小屋に籠めて、絶食させてもいいぐらいですよ」
加煎はきっぱりと言った。
「セキヤは個人的な理由で、仲間を危険にさらした。あまりにも短慮だったと思いませんか。どうしてもというなら、国境を越えてからこっそり引き返せばよかったんです。なにも、影を仕立ててまで里に残らなくても」
たしかに、そうだ。だが、それではあの金髪の青年と一対一で会えないと思ったのだろう。
セキヤがずっと心の中で大切にしている「黒髪さん」の教え子。しあわせなのかどうか、直に訊きたいとセキヤは言った。それを止めることは、刃にはできなかった。
それにしても、ずれている。刃は心の中で苦笑した。
二人ともセキヤのことを第一に考えているのは同じなのに、加煎がなによりも大事にしているセキヤと、刃が大事にしたいセキヤとはまったく別なのだ。
「まあ、過ぎたことを云々しても仕方がないですけど」
加煎は嘆息した。
「今後、あのようなことがないよう、あなたも気をつけてくださいね」
「おれが?」
「最終的に、あなたの言うことしか聞かないでしょうからね、セキヤは」
刃は加煎をにらんだ。
「おれはあんたの駒じゃないよ」
「わかってますよ、そんなこと。でも……」
口の端が持ち上がる。
「セキヤの命には替えられないでしょう?」
脅しにしては、真実味がありすぎる。刃は憮然としながらも頷いた。
「わかっていただけて、うれしいですよ」
「おれはうれしくないよ」
「それは残念です」
微笑を浮かべたまま、加煎は厨から出ていった。
刃が房に戻ると、床一面に夜具が敷きつめられていた。
セキヤがこうして奥から蒲団を引っ張り出すのは、なにか精神的に参っている証拠だ。
刃は履物を脱いで、房の奥に進んだ。
「大丈夫?」
セキヤは牀の横で、蒲団に埋もれて丸くなっていた。
「ん。……ああ、おかえり」
うたた寝をしていたのか、それとも意識的に休息をとっていたのだろうか。目をしばたたかせてセキヤは起き上がった。
「ずいぶん遅かったな」
昼間とは違う口調。おそらく自分だけに見せる素の顔。刃はセキヤのとなりにすわった。
「厨の床、洗ってたから」
「そんなことは、あしたの当番にやらせればいいのに」
「おれ、朝も厨の当番だもん。いま洗っておけば、夜のうちに乾くだろ」
時間の節約にもなるし、調理のときに濡れた床で足を滑らせる危険もなくなる。一石二鳥だ。
「おまえは働きものだな」
「やれって言われたことをやってるだけだよ。はい、これ」
懐から包みを取り出す。セキヤは首をかしげた。
「なんだ?」
「干し芋。水屋にあったから持ってきた」
「助かる。さっきから腹の虫がうるさくて」
セキヤはさっそく、芋を口に運んだ。
「だと思った。加煎には差し入れするなって言われたんだけどね」
「小姑みたいなやつだな」
セキヤは露骨に嫌な顔をした。
「あいつ、厨の見張りでもしてたのか?」
「それはないと思うけど……」
語尾が弱くなる。なにぶん、ないと言い切る自信もない。酒を取りに来たと言ってはいたが、頃合いを見計らって、刃がなにか食べ物を用意していないかどうか、様子を窺っていたのかもしれないのだ。
「旨かった」
干し芋を六切れ胃に収めて、セキヤはようやく人心地ついたようだった。
「一時はどうなるかと思ったよ」
「大袈裟だな。一食や二食抜いたって、平気なくせに」
仕事で外に出ているときは、まともに食事が摂れる方がめずらしい。一日に一食だけということもザラだ。それでもセキヤはたいして空腹を感じないらしく、以前、雪の国の砦で籠城したときも、携帯用の固形食料や糖蜜だけで何日も過ごしていた。
「それは非常時の話。今日はやっとひと仕事終わって、おまえとゆっくりしようと思っていたのに」
セキヤは刃の腰を抱いて、引き寄せた。今回の仕事は下準備や根回しが大変で、もう二週間以上、自分たちは共寝をしていなかった。
「べつに、今日じゃなくてもいいよ」
セキヤも疲れているだろう。なにしろ、国と国の仲介をするような大きな仕事だった。セキヤ自身も「朱雀」の名を公にしたことで、今後かなりの重圧がかかってくるはずだ。
「本当に?」
セキヤは刃の顔を覗き込んだ。
「え……」
「本当に、要らないのか」
焦色の瞳が近づく。唇が、触れ合う直前で止まった。
「刃?」
最後の確認。
「……ほしいよ」
小さな声で、しかしはっきりと答える。
二人はそのまま、夜具の上に倒れ込んだ。
セキヤとこうして夜を過ごすようになって、もう何年もたつ。
最初は「酒姫」と客として。それから身請けされてここに来て、「仲間」になった。セキヤのために、自分にできることはなんでもしてきた。ときにはこの身さえ道具にして。
つらい時期もあった。セキヤに応えようとすればするほど空回りして、心が壊れていくような感覚を覚えたときもある。
でも、あきらめなくてよかった。セキヤの心を、求め続けてよかった。深い淵に封じられていたセキヤを、見つけることができたのだから。
いま、セキヤは自分のすべてを見ていてくれる。たとえ離れていても、ともにいるのだと信じられる。
一瞬たりとも忘れない。顔も、声も、触れ合う肌も。
息が、まだ荒い。余韻が隅々に残っていた。もう少し、このままでいてほしい。汗が熱を奪うまで。
「だいぶ、のびたな」
セキヤが刃の髪を撫でた。首すじや肩にはりついた黒髪を、そっとほぐす。
鬼火山の一件以来、刃は髪を切っていなかった。長い方が、なんらかの細工をするときに都合がいい。
現に今回は役に立った。雲の国の文官は束髪が原則である。
「あんたもね」
一時期、短髪にしていたセキヤも、ここ二年ほどはまた髪をのばしている。理由は刃と同じだ。長ければ切れるが、短い髪を急にのばすことはできない。
「昔と同じぐらいになった」
「昔?」
セキヤは複雑な表情をした。
「どうかした?」
「なんだか、自分がずいぶん年をとったような気がする」
「そんなこと、言ってないよ」
くすりと刃は笑った。
「あんたは、変わってない」
そうだ。最初から、セキヤは必要なものをくれた。生きていくためにいちばん大事なものを。それはいまも変わらない。
「いや、変わったよ」
セキヤは上体を起こした。
「いまは、おまえがいる」
囁いて、唇を近づける。二人の息が、深く溶け合った。
翌日。
セキヤは朝食の時間になっても起きてこなかった。刃も厨当番に遅刻して、強面の仲間に盆で頭をはたかれていた。
「おやおや。困ったものですねえ」
まったく困ったふうでもなく、加煎は言った。
「やはり、セキヤにはもう一日、粥で過ごしてもらいますか」
「おまえ、このごろ性格悪くなってないか?」
醍醐がおそるおそる訊ねた。もっとも、昔から決して「性格がいい」わけではなかったが。
「そうですか? 私はいつも、セキヤのことを第一に考えてますよ」
「おまえの愛情は歪んでるからなあ」
「お互いさまでしょ」
あいもかわらぬ不毛な会話を交わしつつ、醍醐と加煎は朝食の席に着いた。
(了)
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