『朧月』
〜朧月夜に如くものぞなき〜

byつう

 左足の傷は、結局十五センチほどになった。
 本当に、思いきりよく切ってくれたものだ。もっとも、そのおかげで毒が体に回ることが防げたのだから、文句を言う筋合いはないのだが。
 あれから、まもなくひと月がたとうとしている。この間、イルカはカカシの家にいた。
 もちろん、切開した患部の処置をするために一旦は医療棟に運ばれたのだが、縫合が終わるとすぐに、ここに連れてこられた。
「俺のせいですから」
 カカシはそう言って、傷の手当や日常の看護をした。それは端から見ても実に献身的で、アスマは「この世の終わりだな」とうそぶいた。
 イルカとしては、カカシに消毒や包帯の取り替えなどをしてもらうのは気が引けたが、よく考えてみれば、医療棟よりはいい。なぜなら、イルカの体にはカカシがつけた跡があちらこちらに散らばっていたのだから。
 もしかしたら、カカシもそのあたりを配慮したのかもしれない。
 あとになってわかったことだが、傷の縫合をした医者は、その翌日に退職していた。なにがあったのか想像するのが恐い。
 あのおりに徳樹上人のもたらした情報は、やはりかなり重要であったらしい。伝令でしかないイルカにも報奨金が出たぐらいだ。
「あの……いいんでしょうか」
 賞与の袋を手に、イルカは言った。
「いいっていいって。くれるっつーもんは貰っとけよ」
 見舞いに来たアスマが、からからと笑いながら言った。
「それに、余計な怪我までしたんだし」
 たしかに、そうだ。
 前回の雲の国の任務は、まったくのダミーだった。カカシはナルトたちとともに雲の国に行くと見せかけて、里の近くで岩の国の忍を待ち伏せていた。その作戦にはアスマも参加していて、彼が到着するまでになるべく多くの忍を引きつけておくため、カカシはわざと攻撃の手をゆるめていたのだ。
 そうとわかっていたら、あんな無茶なことはしなかったのに。
 イルカはため息をついた。
 あのとき、カカシの動きに異常を感じて飛び出した。自分の身を構うことすら忘れて……。
「おはようございます、イルカ先生」
 声とともに、からり、と襖が開いた。イルカははっとして、思考を中断した。
「ほんとに、今日から出勤するんですか?」
 カカシが、着替えを持って入ってきた。
「ええ。とりあえず、歩けるようになりましたし」
 イルカは左足を庇いながら、夜具の上に起き上がった。
「いろいろと、お世話になりました」
 居住まいを正して、礼をする。
「食べましょうか」
 カカシが朝食の膳を前に、言った。
 彼はふだん、朝は食べないらしいが、このところイルカに付き合って食べるようになった。飯と汁もの、香のものというシンプルな献立だが、炊き立ての飯はやはり旨い。
「ごちそうさまでした」
 イルカが箸を置く。
「荷物は、あとで取りにきますから」
 着替えや、身の回りの細々したものが結構ある。
「え、いいですよ。置いといてください」
「でも……」
「また、来てくれるんでしょう?」
 藍色の瞳が、見据える。
 イルカは沈黙した。そのことに関しては、ずっと考えていた。取り引きのようにして始まったいまの関係を、このまま続けていいのかと。
 踏みにじられて、逃げたくて、でも逃げられなくて。自分はあえて、檻に入った。体と引き換えに、心の安定を保つ日々を過ごしてきた数ヶ月。それを帳消しにすることはできない。
「来ないつもりですか」
 声が変わる。硬質の、冷たい声に。
「いいえ」
 イルカは微笑んだ。
「逃げませんよ。おれは」
 そう。もうなにも恐くない。この男の盾になれる自分を発見してしまったから。
 殺そうとして、殺せなかった。そしてあのとき、無意識のうちに体が動いていた。葉陰からクナイが投げられたとき。
 自分を納得させるための「理由」など要らない。おそらく、自分はこれからもこの男を見続けていく。それがどんな形であろうとも。
 二人は一緒に家を出た。アカデミーまでの道を、ゆっくりと歩く。
「イルカ先生」
 事務局のある建物の前まできて、カカシは言った。
「今日、お暇ですか」
「……ええ。とくに、用はありませんが」
 長いあいだ留守にしていたので、部屋の掃除をしなくてはいけないが、そんなことは明日でもいい。
「だったら、晩飯食いにいきませんか。あ、もちろん、酒もありで。おごりますよ」
 どこかで聞いた台詞だ。イルカは記憶を辿った。
 そうだ。たしか、これはあのときの……。
「わかりました」
 にっこり笑って、答える。
「ご相伴に与ります」
 それを聞いて、カカシも同じように目を細めた。




「あれまあ。こりゃめずらしい」
 店主が入り口近くにまで出てきて、そう言った。
「ずいぶんご無沙汰でしたねえ、先生がた」
 その日の夕刻。
 二人は久しぶりに「喜八」ののれんをくぐった。棚に並ぶ酒の種類が、若干増えたような気がする。
「まあまあ、奥へ入っておくんなせえ。いやあ、ちょうどよかった。じつは今日、いい酒を仕入れましてねえ。これがまた、そんじょそこらの酒とわけが違いまして。蔵元に米やら水やら細かく注文を出して、やっとできあがった逸品なんでさあ」
 あいかわらず、立て板に水だ。
「ま、いっぺん飲んでみてくだせえ」
 卓の上に、銚子と杯が置かれた。
「どうぞ」
 カカシが勧める。イルカは杯を持った。
「いただきます」
 とくとくと、透明な液体が注がれる。
「へえ、こりゃめずらしい味ですね」
 ひとくち飲んで、カカシが言った。
「甘口なのに、しつこくなくて。こういうの、イルカ先生の好みでしょ」
 その通りだった。
 酒の嗜好など、覚えていたのか。イルカは小さく笑った。
「なんですか? 思い出し笑いなんて」
「いえ、べつに。カカシ先生は、もう少し辛い方がお好きですよね」
「いやあ、飲めればいいんですよ」
 そう言いつつも、うれしそうである。
 肴が運ばれてきた。例によって利き酒用の銚子も置かれたが、二人とも全部外してしまった。
「舌が落ちましたかねえ」
 カカシは不本意そうに言った。
「仕方がないですけど。また、ぼちぼち通って覚えるとしますか」
「そうですね」
 なにげないイルカの言葉に、カカシは目を丸くした。
「付き合ってくれるんですか?」
「は?」
「ですから、その……これからも、一緒に飲みにきてくれるんですか」
 なにをいまさら確認しているのだ。この男は。
「カカシ先生のおごりでしたら」
 これぐらいは言ってもいいだろう。
 カカシはまだ、ぽかんとしている。イルカは手酌でおかわりをし、肴に箸をのばした。




 二人がほろ酔い加減で外に出たとき、空にはぼんやりとした朧月が浮かんでいた。
 奇麗だな。
 イルカは空を見上げた。薄い雲のかかった、春の宵。淡い桃色の月。
 無言のまま、ゆるゆると歩く。互いの影が、ときおり重なっては離れる。
「ありがとうございました、イルカ先生」
 分れ道で、カカシが言った。
 まただ。また、同じことを言っている。イルカは無性に可笑しくなった。
「どうかしましたか」
「いいえ。べつに。……カカシ先生」
「はい。なんでしょう」
「ちょっと……寄っていきませんか。お茶ぐらいしかありませんけど」
 カカシはイルカを見据えた。
「それは、どういう意味ですか」
「どうと言われても……言葉通りですよ」
 暫時、沈黙が流れた。ほんのりと花の香のする風が、さわさわと過ぎていく。
「では……お邪魔します」
 カカシはそう言って、イルカとともに路地を曲がった。


 一カ月も留守にしていたので、部屋の中は少々ほこりっぽかった。
 卓袱台を拭いて、湯呑みを置く。
「ちょっと待っててください。すぐにお湯をわかしますから」
 イルカが台所に立った。
 湯がわき、熱いほうじ茶が目の前に出されるまで、カカシは黙ってすわっていた。
「どうぞ」
 香ばしい匂いが、部屋に漂う。
 お茶をひとくち飲み、イルカは部屋を見渡した。
 久しぶりの我が家だ。取り込んだままの洗濯物や蒲団が、まだ奥の八畳間にある。まさか、こんなに長く家を空けるとは思ってもいなかったから。
 そう言えば、雨戸も閉めていなかった。障子ごしに、月明りが見える。
 大丈夫だ。
 イルカは確信した。
 これだけが心配だった。この家で、ふたたびカカシと向き合うことができるかどうか。
 いや、あとひとつある。
「カカシ先生」
「はい」
「額宛てを、取っていただけませんか」
 これで、本当に最後。
 カカシはしばらくイルカを見つめていたが、やがてゆっくりと額宛てを外した。火の星のような紅い瞳が現れる。



 夜を過ごすたびに見ていた素顔が、目の前にあった。
「……ありがとうございました」
 イルカは言った。カカシはそっと、ひざを進めた。
 カカシがなにを為そうとしているのか、もちろんイルカにはわかっていた。この家にカカシを入れたときから、おそらくそうなるだろうと。
 そしてイルカも、それを望んだ。






 信じられない。
 これが、本当にカカシなのか。あれほど執拗に、自分を追い込んで攻め立てていた男と同一人物だとはとても思えない。
 穏やかな動きと口付け。こちらの様子を窺いながら、少しずつ体を作り上げていく。
 左足がまだ自由には動かない。大腿部の裏の傷はすっかりふさがっていたが、やはり違和感は残る。そのことはカカシにもわかっているらしく、体重をかけないように、体の角度を微妙に調節していた。
「いいですか」
 ひっそりと、訊く。イルカは頷いた。
 ひざが持ち上げられた。熱を持った体がゆっくりと奥へ入り込んでくる。イルカはそれを、充実した気分で受け入れた。



 熱が引いたあとも、二人は体を寄せ合っていた。こんなふうに余韻に浸ることなど、もちろんはじめてだった。
 カカシの家に行き、褥に入り、行為が済めば身仕度をして帰る。そういう日々を続けていたのだから。
「イルカ先生」
 カカシが口を開いた。
「もう、あんなことはやめてくださいね」
「は?」
「俺を庇うなんて、ばかなこと」
 ばかなこととは、何事だ。こっちは真剣だったのに。
 たしかに、結果的には足手まといになってしまったが、そこまで言わなくてもと思う。
「あなたに、わかりますか。あのときの俺の気持ち」
 カカシは声を震わせた。
「恐かったんです」
「恐いって……」
「あなたがいなくなると思ったら……恐くて、寒くて」
 カカシはイルカの肩をぐっと掴んだ。
「俺より先に、死んじゃ駄目ですよ」
 イルカは目を見張った。
 この顔だ。あのとき、自分がクナイを受けて倒れる寸前に見た、泣き出しそうな顔。
 自分も忍である。いつ命を落とすかわからない。そんな約束ができるはずもないのに。
 それでも、ほしいのだろうか。この男は。
 その、たったひとことが。
「わかりました」
 イルカは言った。カカシの望む言葉を。
「ほんとですよ」
 何度も何度も、カカシは言う。そのたびに、イルカは答える。
 わかりました、と。


 春の夜は、まだ明けない。朧月がゆっくりと、空を渡っていった。



   (了)




あとがき>>
皆様こんばんは。つうでございます。
まずは、ここまで読んで頂いてありがとうございました。
イルカに出会ったカカシは、「人」としての一歩を踏み出しました。
二人のこれからを応援してくださいませ。


改めまして、この長い物語を読んで頂き、ありがとうございました。
ここより「月」のカカイルが始まります。皆様どうぞ宜しくお願い致します。
真也拝

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