残月        byつう






 膳の上に、杯がふたつ並んでいた。
 玻璃の銚子から透明な液体が流れ落ちて、杯を満たす。さわやかな香り。これは、あなたが好きな酒。
 カカシは杯を掲げて、目の前にいるはずのイルカに語りかけた。
「さっき、『喜八』の主人が届けてくれたんです。俺が里に戻ってきたのを、だれかに聞いたらしくて」
 ひとくち飲んで、目を閉じる。
「やはり旨いですねえ。これを飲むと、帰ってきたって感じがします」
 前線では酒はおろか、普段の食事もまともに摂れないことがある。それでも自分たちは戦わなければいけないし、生き残らねばならない。
 カカシは夜着の襟をくつろげて、それを取り出した。
 小さな皮袋に納められた、イルカを。
 あのとき、イルカがただひとつ残してくれたもの。ずっと見ている。ずっと側にいると誓って、カカシに与えてくれたもの。
『切ってください』
 イルカは言った。
『これは、あんたのものです』
 約束の指。カカシはそれを切り取った。
 あのときから、イルカはここにいる。どんなときも、どこにいても、イルカはカカシとともにいる。
「まさか西方の砦で、朱雀に会うとはねえ」
 カカシは皮袋をそっと握り締めて、言った。
「あなたも驚いたでしょ」
 杯をあおる。
「なーんか、やたらと落ち着いちゃって。一瞬、別人かと思いましたよ」
 まっすぐに向けられた焦土色の瞳。昔と変わらぬ強烈な気を内包しながらも、表に現れるものは、なんともゆったりとした流れを作っていた。
「あいつにだけは、会いたくなかったんですけどね」
 遠からず、雲の国との戦が始まるだろう。龍尾連山をはさんで、激しい攻防が繰り広げられることは目に見えている。
「もしかしたら、今度ばかりは……」
 イルカの真摯な顔が見えた。
「ああ、だからって、はじめから諦めてるわけじゃないですよ」
 カカシは杯に酒を注いだ。
「もちろん、いままで通り最善を尽くします。あなたに怒られたくないし」
 皮袋の中身に、囁くように続ける。
「三代目はもう一度、西方の砦を手に入れる気でいますから。朱雀がいなくたって、なかなか厳しい戦いになるでしょうね」
 そうなのだ。西方の砦は雲の国にとって、対木の葉の戦略上、重要な拠点である。木の葉側がそのほかの小さな砦を放棄しても、西方を欲するのはそういう理由からだ。
「まあ、朱雀が出てきたら、部下は撤退させますよ。なにも無駄死にさせることはない」
 そのためには、つねに退路を確保しておかねばならない。龍尾連山の地形と天候をしっかり頭に入れて、確実に撤収できる道を。
 戦が始まるのは、秋の取り入れが終わったあとだろう。それまでに田畑の焼き打ちをされぬよう注意しなければ。兵糧を減らされてはたまらない。
「あのときのように、雪が早いと厄介ですよ」
 イルカが雪山で遭難したときのことを思い出しながら、カカシは呟いた。
 あの年は例年よりも気温が低く、連山の冠雪も早かった。イルカは天候の予測を過って、吹雪に閉じ込められてしまったのだ。
「さいわい、あなたが書いてくれた連山の詳細な地形図もありますし、抜道もわかってますから、逃げるだけならなんとかなりそうですけど」
 この十年のあいだに多少砦の位置や規模が変わったとはいえ、イルカが書いた森の国の地形図と砦や隠れ里の情報は、いまだに十分、役に立つ。村々の風習や里人の気性、いざというときに尽力してくれそうな個人や組織の名。
 むろん、それがそのまま記されているわけではない。カカシにだけわかるように、墨に術を施して書いたのだ。
 あなたにこんなことができるとはね。
 前線に出る直前に、埃をかぶった文箱の中から見つけた巻物と写本。その中には、雲の国と森の国に関する詳細な情報が記されていた。おそらく、それをすべて知っているのは火影だけだ。
 そのとき、わかった。あなたがここにいたあいだに、文机に向かってしたためていたものの正体が。
 ここに置いておけばよそに漏れる心配はない。あなたはきっとそう考えたのだろう。
 特Aランクの機密に類する情報。それを個人の判断で記録に残した。上層部に知られれば、おそらく極刑に処せられる。他国の忍びに感づかれても困る。だから、封印したのだ。
 この左眼によってしか、解読できぬように。
 こんなことをしていたから、ますます回復が遅れたんですよ。
 カカシは心の中で苦笑した。
 でも、俺はうれしかったです。あなたが、俺の側にいてくれたから。
 朝も、昼も、夜も。
 あなたと体を重ねることはできなかったけれど、ずっとあなたを感じていられた。
 あなたに触れて、抱きしめて、息を交わして。あなたの心はいつも、俺の中にあった。穏やかに笑って、俺にすべてをゆだねてくれた。
『それじゃ、静養にならないでしょう』
 夕飯のあとも文机に向かっていたあなたの背を抱いて、そう言ったことがあった。口付けをして、夜具に倒す。
 あのときがいちばん、危なかった。あんな潤んだ目で見上げられて、自分でもよく我慢できたと思う。
 あなたを独り占めできるなら、怪我なんか治らなくてもいい。
 そう思っていたはずなのに。あのままずっと、自分の側に置いておくこともできたのに。
 でも、ね。そんなことをしたら、あなたを失ってしまう。あなたは二度と、俺のもとに戻らない。体はあったとしても、あなたの心は消えてしまう。
 俺はもうわかっていた。あなたがほしい。でも、あなたの体や命だけがほしいんじゃない。俺とともにいてくれる、心をこそ望んでいるのだ、と。
 あなたは応えてくれた。俺のすべてに。
 だから、俺もあなたに応えよう。あなたが側にいてくれるのなら、あなたとともに生きよう。
 あなたとの約束を、きっと守ってみせる。
 蒲団を敷いて、合いの夜着を広げる。
 あのときから、こうすることが習慣になってしまった。イルカの現し身が失われてから。





 あの日、処理班はなにもかも……血を吸った畳までも持ち帰った。
 彼らが引き上げたあと、カカシは玄関の鍵をかけた。もうここを訪れる者はいない。イルカは、ずっとここにいるのだから。
 切り取った指は、印を入れるための小さな皮袋に納めた。ひもを通して首から下げる。
 雨戸を閉ざした暗い座敷の中、カカシは先日イルカが身にまとっていた夜着を広げた。
「イルカ先生……」
 夜着にくるまって、呟く。
 イルカ先生、イルカ先生、イルカ……
 何度も何度も、くりかえす。息をするのが苦しかった。
 夜着をぎゅっと握りしめる。かき抱く。
 いてください。ここに。いてください。ずっと。
 カカシはイルカの名を呼びながら、時が過ぎるのを耐えた。





 今度の戦いは長引くだろう。
 木の葉の国と雲の国。事と次第によっては雨の国をも巻き込んで、しのぎを削ることになる。
 できれば春までに決着をつけたいが、それもどうなるか。
 西方の砦に執着するのをやめて、連山の中ほどにある龍央の砦を拡張すればいいのに。そうすれば、少なくとも龍央以北の砦は木の葉の支配下に入り、西方へのにらみも効くだろう。
 イルカなら、そう考える。カカシは思った。しかし、里の長は火影だ。数年前の停戦交渉のおりに西方を譲ったことを、火影はいまだに後悔している。
 あのときの特使が朱雀だったから、火影は譲歩したのだ。それはわかる。後々、雲の国との折衝に朱雀を使うつもりだったから。
 火影の誤算は、雲の国の丞相が早死にしたことだ。対立していた兵部尚書が暗殺したとの噂もあったが、カカシの知るかぎり、それはない。
 つくづく、巡り合わせが悪かった。兵部が実権を握ってしまっては、朱雀も大きな働きかけはできない。せいぜい、情報を漏らすことぐらいしか。
 もしかしたら、朱雀は自ら間諜の役割を買って出たのかもしれない。そのために、雲の国に与した。
「なんだか、妬けますねえ」
 夜着に口付けて、言う。
「あいつ、いまでもあなたのことが好きなんですよ」
 でも、いい。あの男なら。
 イルカが命を預けた男。「同志」と称した男なのだから。
 いつ、会えるだろう。あの燃えるような朱髪の男に。
 むろん、会いたくはないが、必ず会うという確信のようなものがカカシの頭にはあった。今度、相対したら。
 どこで、どんな状況で会ったとしても、どちらも無傷ではいられまい。そう。もしかしたら……。
「そのときは、お願いしますよ」
 体を丸めて、目を閉じる。脳裡に、イルカの笑顔。
『大丈夫ですよ』
 ええ。そうですね。どんなことになっても、あなたがいれば。
『あんたは、大丈夫です』
 ふわりと、抱きしめられたような気がした。





 眠りに落ちる間際に、文机の前にすわるイルカが見えた。
 わかっていますよ。ちゃんと、いままでのことは記録してあります。今度の戦が始まるまでに、きっちりあいつに教えておきますから。
 あなたが俺に残してくれたように、あいつにしかわからないように。
 そうしておけば、きっといつか役に立つ。あいつが大切なものを守るために、きっと。
 さあ、もう眠りましょう。根をつめると体に毒ですよ。
 俺と一緒に眠ってください。
 朝まで、一緒に。





 有明の空に鳥が啼く。
 白い月がうっすらと、西の山陰に消えていった。



(了)




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