だれが最初に言ったのだろう。石榴の実は人肉の味がする、と。 いや、肉ではなく、血だったろうか。暗紅色の実を潰すと、たしかに鮮血のような汁がにじみ出る。 『あれは、鬼が喰らうものじゃ』 どんなに腹が減っていても、のどが渇いていても、石榴に手をのばすことができないのは、幼いころにそんな言い伝えを聞いたからかもしれない。 何十、何百の命を奪っても、自分はまだ人間だ。そう信じたかった。むろん、それで救われようとは、さらさら思っていないが。 秋の透明な空の下、カサカサと乾いた風が吹く。ぱっくりと口を開けた石榴が、誘うように揺れている。 そのひと粒ひと粒が、自分が手にかけた者たちであるかのような錯覚にかられ、カカシは山路を足早に駆けおりた。 鬼を知る者 byつう 文句なしの秋晴れだ。 イルカは川に面した窓を開け放ち、合いの蒲団を干した。ほぼ十日ぶりの休みだというのに、こんなことしかすることがないのかと言われそうだが、実のところ、男の独り暮しというのは異様に雑用が多いのだ。 忍という仕事上、ふだんはどうしても家にかまってはいられない。必然的に、掃除や洗濯といった雑務は、休日に片付けるしかないのだ。 「先生も、早いとこ所帯をお持ちなさいな」 家主のおかみさんは、顔を合わすたびにそう言う。 「忍が独り身を通すなんていうご時世は、もう終わりましたよ」 たしかに、そうだ。 暗部や一部の上忍を除いては、忍とて伴侶を持つのがあたりまえになっている。現にイルカの同僚もつい最近結婚し、来春には子供も生まれるらしい。アカデミーの同窓生たちから「手裏剣の的は外してばかりだったのになあ」と揶揄されて、真っ赤になって怒っていた。 「所帯といったってなあ……」 イルカは蒲団を叩きながら、ため息をついた。いまの自分には、宇宙の果てぐらい遠い話だ。 イルカとて健康な成人男子である。女性は好きだし、以前はそれなりに遊びもした。ある程度貯えもできて生活が安定したら、働きもので明るい人と一緒になろうかと漠然と考えていた。しかし。 そんな平凡な夢は、ひとりの人間によって跡形もなく粉砕されてしまった。 はたけカカシ。写輪眼を持つ、里一番の手練れである。 とある極秘任務の際に手傷を負った彼を匿ったのをきっかけに、自分はそれまでとはまったく違う道に足を踏み入れてしまった。あのころのことを思い出すと、いまでもきりきりと胸が痛む。が、その痛みがあったからこそ、いまがあるのだ。 「イルカ先生、こんにちはー」 外から、よく知った声がした。窓から身を乗り出して、川縁の道を見る。忍び服を着た銀髪の男が、こちらに手を振っていた。 「カカシ先生! もうお帰りだったんですか」 イルカは玄関に回り、ドアを開けた。 「はい、お土産です」 ドアの前で、カカシは四角い包みを差し出した。イルカはカカシを中に招き、茶をいれた。 「今回は霧の国と聞いていたので、もっと日数がかかるのかと思っていました」 「じつは、そこまで行かなかったんですよ」 にんまりと笑って、カカシはそう言った。 「ほんとはね、ここ」 がさがさと土産の包みを開ける。 「……そういうことですか」 中には、波の国の海産物が入っていた。 「で、また、おれが報告書を書くんですか」 このところ、カカシが極秘任務に就いたときの架空の報告書はイルカが作っている。 「ええ。あとで取りに来ますから、よろしくお願いします」 あとで、か。 イルカは小さく嘆息した。 ということは、カカシは今夜、ここに泊まるつもりなのだ。せっかく敷布の洗濯をしたのに。 いつもの経過を辿るとすれば、また明日、夜具を洗わなければならないだろう。どうせなら、もう少し早く来てくれればよかった。そうすれば二度手間にならずに済んだものを。 「どうかしましたか?」 カカシがイルカの顔を覗き込んだ。 「あ、報告書は、短めでいいですから」 ため息の理由を勘違いしたらしいカカシは、そう言ってイルカをなぐさめた。 その夜。 イルカはカカシによって心身ともに充足を味わった。 この男とこうして枕を交わすようになってだいぶたつが、いつも自分が先に追い立てられてしまう。それがなんとなく悔しくて、いつだったか、カカシが自分に施すような行為を試そうとしたことがあった。 「駄目ですよ」 カカシはイルカの頬を両手で掴んで、言った。 「あなたは、そんなことをしなくていいんです」 そのかわり……と、カカシが口にしたのが、あまりにも無茶な要求であったため、イルカはその後、余計なことはするまいと肝に銘じている。 報告書の下書きは、すでにできていた。あとはカカシがそれを清書するだけだ。 のどが渇いたな……。 イルカは蒲団から抜け出して、先刻脱いだ夜着をはおった。ゆるく帯を結んで立ち上がる。 水差しを取ろうとして流し台に近づいたとき、イルカはなにかに足をぶつけた。 「あ……」 ガサッ、と音。 その直後、奥の部屋からカカシが飛び出してきた。手にはクナイを構えている。 「カ……カカシ先生?」 イルカは眼を丸くした。カカシはほっと息をついて、 「あー、よかった。いきなり音がしたから、何事かと思いましたよ」 こんな小さな物音にさえ反応して、瞬時に臨戦態勢がとれるのか。 そんな男が、自分の傍らではまるで子供のように熟睡する。イルカは口元がゆるむのを感じた。 「すみません、起こしてしまって。なにか飲みますか」 「そうですね。じゃ、ほうじ茶を」 「ちょっと待っててください」 やかんに水を入れ、火にかける。カカシは卓袱台の前にすわって、 「それ、なんですか?」 流しの下の紙袋を指す。 「え? ああ、これですか」 ついさっき、イルカがけとばしてしまった袋だ。 「ご近所から頂いたんですよ。たくさん生ったからって」 「くだものですか?」 「よかったら、どうぞ」 イルカは袋から、こぶし大の実を出した。カカシの双眸が見開かれる。 「イルカ先生、これ……」 「甘酸っぱくて、おいしかったですよ」 それは、灰紅色の石榴だった。 「……食べたんですか?」 「は? ええ。それがなにか」 イルカは首をかしげた。カカシは凍りついたような顔をしている。 「もしかして、苦手でしたか。すみません。片付けます」 イルカは石榴を袋にもどそうとした。その手を、カカシががっちりと掴んだ。 「いただきます」 痛いほどの力。 イルカはふたたび、石榴を卓袱台に置いた。カカシはイルカの手を握ったまま、もう一方の手で石榴を取った。 ガリ……。 芯にまでくいこむような音。 カカシはゆっくりと咀嚼した。唇がじっとりと薄紅色に濡れていく。かなり長い時間をかけて、カカシはようやくそれを嚥下した。 「大丈夫ですか?」 イルカは訊ねた。なにしろ尋常ではない。カカシはまだ、イルカの手首を掴んだままだ。 やかんが、しゅんしゅんと音をたてはじめた。 「お茶、いれますね」 そう言って立ち上がろうとすると、カカシはさらに、握る手に力を込めた。 「もう、いいです」 「え……」 「お茶は、もういいです」 見上げる瞳が、なにかを訴えている。イルカは頷いた。 「わかりました。でも、火を止めないと」 「……ああ、そうですね」 カカシはようやく、手をはなした。 イルカはやかんを外して、火を止めた。水差しとコップを持って、卓袱台にもどる。カカシは石榴を見つめたまま、じっとしていた。 いったい、どうしたのだろう。石榴に、なにか悪い思い出でもあるのだろうか。 「……ください」 ぼそりと、カカシは言った。 「え? お水ですか?」 反射的に聞き返すと、カカシがふたたび強い力でイルカの腕を掴んだ。そのまま、畳の上に押し倒される。 「ください。あなたを」 真摯な瞳が近づいてきた。ゆっくりと唇が重なる。 苦い。 石榴の甘さとともに、鉄の鈍い味がした。 帯が解かれる。名残りを留めた肌に手が滑る。 なにを求めているのだろう。この男は。 カカシの心を推し量り、イルカはそのまま体を委ねた。 「ありがとうございます」 汗ばんだ肌をはなし、カカシは言った。イルカはうっすらと目を開けて、息をついた。 広げられた夜着の上で行なわれた二度目の交わりは、たいそう密やかで厳かなものだった。壊れ物を扱うかのように触れる指。じんわりと熱を伝える唇。そして、中に到達したあとも、カカシは決して急がなかった。 ゆるやかに体を巡る陶酔感。イルカは、まるで眠りの途中にいるようだと感じた。 「これで、鬼にならずに済みそうです」 「鬼?」 イルカは夜着を腰のあたりに寄せて、起き上がった。カカシの顔が目の前にある。 「あなたがいてくれるなら、俺は……」 石榴と鬼。昔話の不思議な符合。 イルカは合点した。普通の子供には単なるおとぎ話であっても、六歳で中忍となったこの男にとっては、強迫観念を植え付けるに十分な物語だったのだろう。 「なに言ってるんですか」 イルカは微笑んだ。 「鬼は、自分が鬼だなんて思ってないんですよ」 「それじゃ、俺はなんです」 「あんたは、あんたです」 イルカは自信たっぷりに、そう断言した。 鬼は、人の顔をして人を喰う。自分が鬼であることすら知らずに。 だから、あんたは大丈夫。 自分の中にいる夜叉を知る者は、決して鬼道へは堕ちない。 (了) |