蝕の月 byつう
睦言というのは、文字通り、睦まじく交わす言葉のことだ。あらためて、そう思う。
熱が鎮まるまでのあいだ、互いの体温を感じ合って、他愛もない話をする。こんなふうに過ごすようになったのは、いつからだっただろう。
体の関係を持った当初は、むろんそんなことはなかった。なにしろ、カカシはイルカの首にクナイを当てて、行為を強要したのだから。
「動かないでくださいね」
あのときの恐怖。なぜ、自分がこんな目に遭わなくてはいけないのか。わからなくて、恐ろしくて、でも逃げられなくて。
どうしても逃れられないものならば、せめて心だけは守りたかった。体を供して、日々の平安を保つ。あれは、ぎりぎりの選択だった。
そして幾度かの季節を経て、いま、自分はここにいる。カカシの腕の中に。
肩を抱くカカシの、長く形のいい指。薄すぎない掌。房事のさなかとは違い、ゆったりと動いてイルカに安心を与えている。
カカシはこのごろ、昔の話をするようになった。ぽつりぽつりと、記憶を辿るかのように。それは任務の話であったり、なにかの折に見たり聞いたりした話だったりした。
むろん、カカシの過去に、そうそう楽しい思い出があるわけではない。六歳で中忍になったこの男は、人生のほとんどを忍の修業と任務に奪われてきたようなものだ。
「……で、結局、ガキの俺だけが生き残ったんですよ」
暗部に入る直前に、チームを組んで当たった任務。生還したのは、彼ひとりだったという。
「英雄なんかになったって、だれも誉めちゃくれないのにね」
十になるやならずの子供が、数限りない死を経験した。もちろん、自らの手も血に染めて。
そのときは、なにも感じなかったとカカシは言う。死んだ者は弱かったのだ。あるいは、たまたま強い相手に当たって、運が悪かったのだ。そう思っていたという。
「それで、いまは?」
先を促す。
「俺を逃がすために、囮になったやつもいたんですよ」
だれかが生きて、復命を果たさねばならない。そのために、いちばん生還の確率の高い者を皆が援護したのだ。
「弱かったわけでも、運が悪かったわけでもないですよね」
二十年ちかくたってから、やっとわかった真実。
気がついて、よかったですね。心の中で、イルカは言う。
人は決して、ひとりで生きているわけではない。意識するしないに関わらず、だれかに、あるいはなにかに助けられ、生かされているのだ。「偶然」などというものは、おそらくこの世に存在しない。
「なんか、暗いですね。すみません」
カカシは苦笑した。イルカは小さくかぶりを振って、
「いいえ。もっと話してください。おれは、知らないんですから」
出会う前のあんたのことを。
「それは、俺も同じです」
カカシはイルカの顔を覗き込んだ。
「なにか、話してくださいよ」
「そうですねえ。たいした話はありませんが」
イルカは記憶の奥に仕舞った思い出を掘り起こしつつ、言った。
「あなたが話してくれるなら、全部『たいした』話ですよ」
言ってくれる。
イルカは口元をゆるませた。まったく、なんという男なのだろう。
多少、語句の使い方に疑問は残るが、言いたいことははっきりとわかる。本当に、よくここまで来たものだ。
出会ったころは、二人とも互いの気持ちを伝える術を知らなかった。言葉はただ表面上のものにすぎず、思いを口にすることもできなかった。
そのせいで、ずいぶん回り道をしたと思う。辛くて、苦しくて、一度はこの男を殺そうとさえ思った。それがいまは、どうだ。
心も体も、こんなにも循環している。互いのあいだを行き来して、充足と安心と、あるときは陶酔を与え合っているのだ。
カカシの求めに応じて、イルカは子供のころの話をした。
夏のある夜、月蝕があって、それを親に黙って見に行ったときのことを。
「家からも見えたんですけどね。だれかが上流の河川敷まで行こうって言い出して、五、六人で、夜中にこっそり出かけたんですよ。で、大騒ぎになって。あとで、しこたま怒られましたね」
庭の木にくくりつけられて、さんざん泣いたっけ。
ごめんなさい。もうしません、と。
あのときばかりは、母もかばってくれなかった。自分のしたことを、よく考えなさいと言って。
夜中に子供がいなくなる。親にとって、どれほどの衝撃だったか。
神隠しの伝説は、いまでも生きている。あの日は月蝕。迷信深い里人の中には、子供らは月に喰われたのだと噂した者もいたという。
「そりゃ、たいへんでしたねえ」
カカシはしみじみと言った。
「でも、それ、俺も行きたかったですね」
「え?」
「あなたと一緒に、月蝕を見に」
「……そうですね」
あのころ、会えていれば。
一緒に夜中に抜け出して、行ったかもしれない。
「ま、俺には、叱ってくれる親はいなかったけど」
ぼそりと、カカシは言う。
とくに感慨もないような口調に、イルカは突然、哀しくなった。そうだ。カカシはなにも持たなかった。愛情のひとかけらさえも。
「もし……」
イルカは言った。
「一緒に河原へ行ってたら、きっとうちの親父があんたも木に縛り付けてたと思いますよ」
そして、二人して泣いただろうか。いや、カカシは意地でも泣かなかっただろう。そして、二人でいれば恐くないとばかりに『このクソ親父、覚えてろ!』とでも叫んでいたかもしれない。想像ははてしなく続く。
「それもいいですねえ」
くすくすと笑いながら、カカシは言った。
「ああ、そうだ。今度、見に行きましょうよ」
「え?」
「月蝕ですよ。次は、いつあるのかな」
「さあ、そこまでは……」
「うーん。たしか、雲の国の学者が書いた本に、日蝕や月蝕の詳細な予想が載ってましたよ。うちの書棚に、あったはずです」
カカシは、もぞもぞと起き上がった。
いまから本を探しにいくつもりなのか。次の月蝕の日を調べるために。
……次の?
イルカの思考が、ある一点に集中した。
カカシが、未来のことを話している。過去を打ち捨て、現在のみを生き急いでいたようなこの男が。
「カカシ先生」
イルカは反射的に、名を呼んだ。
「はい?」
ふっと、カカシが振り向く。
「どうしました」
頬にのびてくる手。イルカはその手をそっと掴んだ。
どうしてそんなことをしたのか、自分でもわからない。ただ、なんとなくうれしくて。カカシが「これから」のことを考えてくれた。それだけで、自分はこんなにも満たされる。
過去は変えられない。取り戻せない。しかし、いまから作ることはできる。未来の自分が思い出す過去を。
イルカはカカシの指に口付けた。先刻まで自分の上を彷徨していた、長い指に。
「……いいんですか?」
ひっそりと、カカシが訊く。わずかに声がかすれている。腰骨のあたりに当たる感覚から、カカシの体が変化していくのがわかった。
「はい」
カカシの掌に唇をつけ、そのまま、手を首筋に導く。
二人の影が、ふたたび重なった。
いつか、行きましょう。二人で。河を上って、蝕の月を見に。
少しずつ欠けて、そしてまた、満ちていく月を。
イルカは、不確かな未来の夢の中を、ゆるゆると漂っていった。
(THE END)
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