『沈月』

byつう
ACT 5 〜寒月編〜
馬鹿な。
カカシは咄嗟に、そう思った。
突然、目の前に現れた、見慣れた顔。
唇にうっすらと笑みすら浮かべて、イルカの体が徐々に傾ぐ。
差し出した手に、すがるように倒れ込んでくる。その大腿部の裏には、クナイが深々と突き刺さっていた。
カカシがナルトたちとともに里を出発したのは、きのうの朝だった。
「えー、雲の国に行くんじゃねえの?」
国境に向かわず、里にほど近い山に入ったカカシに、ナルトが訊ねた。
「敵を欺くには、まず味方からってねー」
ひょいひょいと岩場を上りつつ、カカシは答えた。
「なんだよ、それ」
「バカ」
「ウスラトンカチ」
サクラとサスケの声が重なる。
「あんた、ほんとになんにもわかってないのねえ」
ため息まじりに、サクラ。
「成長のないやつだな」
サスケも、にべもない。
「あーっ、なんだよ、二人して。オレだけ、のけもんかよ」
「はいはい。おまえは頭使わなくていいからね」
カカシがナルトの髪をがしがしと撫でる。
「まあ、このへんで網張っとこうか」
「網ー?」
また、ナルトが訊ねる。サスケとサクラは、委細承知とばかりに草の陰や木の上にトラップを作りにかかった。
「なんで、こんなことやんの」
「うまくいけば、あしたの朝には獲物がかかるはずだよ。そのときは、ひと暴れしてもらうからね」
「獲物?」
「そ。まあ、十人そこそこってとこかなあ。中忍レベルだと思うけど、おまえ、一人でイケるか?」
「一人で十人やれっつーの?」
ナルトは怖じ気づくどころか、目をらんらんと輝かせて、
「おっしゃーっ、やってやろーじゃん。未来の火影をなめるなってばよっ」
「バーカ」
木の上から下りてきたサクラが、ガツンとナルトの頭を小突いた。
「だれもあんたに、十人斬りやれなんて言ってないわよ」
「足手まといにならずにすむかと訊いてるんだ」
あいかわらず、サスケも手厳しい。
「ま、そーゆーこと」
カカシが止めを差す。ナルトはむくれたが、それでもなにやら、楽しそうにしている。
「んじゃあさ、それまではなんにもやることないわけ?」
「休息も、任務のうち」
「えー、だって、まだ日も高いし、じっとしててもつまんねえじゃんか」
「動き回って、敵に気取られるような真似はするなよ」
「そうよっ。あんたが余計なことするから、あたしたち、苦労してんだから」
「今日のところは、やめときなさいね」
カカシは地図を広げて、今後の作戦を伝えた。
「見張りは、三時間交代。サクラ、サスケ、ナルトの順。異状を感じたら、自分だけで動かずに、すぐ俺に報告する。わかったな」
そして、山中で待つこと半日。
予想通り、岩の国の忍が木の葉の里を目指して集まってきた。とりあえず、ここで時間を稼がねばならない。
カカシはナルトたちに応戦させ、自分も何人かを相手に攻防を繰り広げた。あと少しで、アスマたちが到着する。そこでまとめて、すくい上げればいい。
そう思っていたとき。
いきなり大きな爆音がして、ナルトが崖下に吹っ飛んだ。瞬時に移動して、その体を受けとめる。岩に激突する寸前で、なんとか間に合った。
「いってーっ」
どうやら、足を傷めたらしい。カカシはナルトの腕を引っ張った。
「ほれ、行くぞ」
「わかってるってばよっ」
いつもの口調で、ナルトが言う。
何歩か上ったところで、二度目の爆発が起こった。カカシは咄嗟にナルトをかばった。土煙とともに、体が横に飛ぶ。
態勢を立て直そうと、顔を上げた直後。
カカシは、信じられないものをその目で見た。
忍び服に額宛て。常の任務のときの姿で、イルカはカカシの前にいた。
馬鹿な。なぜ、ここにいるのだ。
頭が、真っ白になった。馬鹿な。そんな馬鹿な……。
それしか、言葉が出てこない。
なぜ、自分など庇ったのだ。あなたは、俺を殺そうとしたじゃないか。
俺は殺されてもいいと思っていたのに。それで、あなたの中に永遠に残れるのなら。
それなのに、なぜ、あなたが俺を庇うんだ。
イルカはカカシの顔を認めて、安心したように微笑んだ。
『カカシ先生』
唇が、そう動いたように見えた。そして。
イルカの体はぐらりと横に傾いた。カカシは慌てて手をのばし、がっしりとイルカを抱きとめた。
「イルカ先生っ!」
ナルトが叫んだ。
「しっかりしてくれよっ! イルカ先生ってばよっ」
「どけ!」
カカシはナルトを押しのけた。
岩場の陰に、イルカを抱えて移動する。
「ナルト、敵を近寄らせるな!」
カカシの切羽詰った様子に、ナルトは無言で飛び出した。自分がいま、なにを為すべきか、ようやく察したらしい。
カカシはイルカの傷を調べた。左大腿部の裏。かなり深い傷だ。出血はもとより、呼吸の様子から、クナイに神経毒が塗られていたようだ。
まずいな。
一刻の猶予もない。カカシは小柄で患部を切り開いた。圧迫して、毒をしぼり出す。
「……つっ……!」
イルカが呻き声を上げた。よかった。意識がもどった。
「すみません」
カカシは言った。ことさら、こともなげに。
「切っちゃいました」
「……なにを……したんです」
途切れ途切れに、イルカは訊いた。
「なにって……患部を切開して、毒を出したんですよ」
手持ちの解毒剤を塗布しながら、説明する。
「傷口、だいぶ広がっちゃいましたけど、ここで死ぬよりはマシだと思って、諦めてくださいね」
そうだ。死ぬよりは、いい。たとえ足一本なくなったとしても。あなたが生きていてくれるのなら。
「……ひどいですね。あんたは……ほんとに、いつも……」
泣き笑いのような顔。ふたたび意識が朦朧としてきたのか、イルカはカカシの腕に頭をもたげた。
ひどい、か。その通りだ。俺はあなたに、ひどいことしかできない。
傷口の応急処置を終えて、カカシはイルカの体を担ぎ上げた。ナルトたちのこの場を任せて、里にもどらねば。
岩場の陰から出ようとしたとき、上から声が降ってきた。
「あーっ、先生! アスマのおっさんが来たぜっ」
ナルトが、こちらに向けてVサインをしている。
「ああ、なんとか間に合いましたねえ」
地獄に仏って、こんなときに使うんだな。地獄ばかりで、ホトケさんは山ほど見たけれど。
カカシはそんなことを考えながら、岩場を駆け降りた。
アカデミーの医療棟で手当をしているうちに、アスマも里にもどってきた。ナルトたちは教室で待たせているという。
「どうだい、様子は」
「患部の縫合が終わったところだ」
「ふーん。……で、医者は?」
処置を終えたばかりだというのに、医者も看護士もいない。寝台の向こう側に、血のついたガーゼや絆創膏や消毒薬が落ちたままになっている。
「おまえ、なんかしたの」
「医者の守秘義務について、丁寧に教えてやっただけだよ」
「はあ。丁寧に、ねえ」
アスマはちらりと、寝台に横たわるイルカを見た。
病衣の襟元からのぞく、紅い跡。知らぬ顔をしていればいいものを、なにか余計なことでも言ったかな。
アスマは医者に同情しつつ、ため息をついた。
「このぶんじゃ、まだ目は覚めんだろうなあ。ガキどもには、今日は帰れって言っとくよ。どうせ、今回の仕事は報告書、出さねえし」
カカシの肩をぽん、と叩いて、アスマは病室を出ていった。
「やめてください」
拗ねたように言って、身をよじる。その姿がなんとも色めいていて、カカシはますます執拗に跡をつけた。
「今度は、十日やそこらでは消えませんよ」
意地悪な言葉とともに。
あれは、ほんの二日前のこと。
あのとき、ほんのりと染まった体も顔も、いまは白くて頼りない。毒が回るのは防げたが、大きく切開したのでかなり出血した。止血の術では追いつかぬほどに。
このまま、目を覚まさなかったらどうしよう。
そんなことはありえないのに。それでも、つい考えていまう。
手が、わずかに震えていた。
寒い。体ではなく、心が。
こんな感情が自分の中にあるとは、思わなかった。わけもなく、ただどうしようもなく、恐いのだ。イルカがいなくなる。そう思っただけで。
殺してしまえば、自分のものになる。ずっと、そう思っていた。いまもそう思っている。しかし。
自分以外のものによって奪われるのは耐えられない。しかも、自分の身代わりになるなんて。
イルカは自分を庇って、飛び出してきた。あんなクナイの一本や二本、ナルトを抱えてたってよけられたものを。
「どうしてですか」
つい、言葉に出した。
「ねえ、イルカ先生……」
俺は、あなたに盾になってもらえるような人間じゃないですよ。あなたを奪って、壊して、縛りつづけている。そんなやつなのに。
期待させないでほしい。やっと自分を納得させたのだから。
抱いているあいだだけでいい。あなたが俺を見て、俺を感じてくれるなら、それだけでいい、と。
「……」
イルカの唇が、かすかに動いた。まぶたも、ほんの少し震えている。
「イルカ先生?」
声をかける。イルカの顔が、ゆっくりとこちらを向いた。
双眸が少しずつ開く。
「わかりますか。俺ですよ」
顔を近づけて、カカシは言った。イルカはしばらく、ぼんやりとしていたが、やがて視点がはっきりしたらしく、カカシの顔をじっと見つめた。
「ご無事で……なによりです」
ほっとしたように、微笑む。カカシは暫時、それに見とれた。
「……そりゃ、こっちの台詞ですよ」
ややあって、ようやくカカシは言葉を返した。
「ああ、そうですね。でも……よかったです」
そう言って、ふたたび目を閉じる。薬が効いているのだろう。すぐにまた、うつらうつらとしはじめた。
『よかったです』
カカシは胸の底に、あたたかいものが広がっていくのを感じた。
信じてもいいのだろうか。本当に、信じても……?
カカシは枕元に額をつけて、いつまでもその問いを繰り返していた。
(了)
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