佇む月 byつう
昼間のあなたは、知らない人のようだ。
時々、そう思う。事務局の同僚やアカデミーの生徒たちと談笑する姿を見ると、なんとなく自分がそこにいてはいけないような気になる。
本当は、俺はあなたに触れてはいけなかったのではないか。
ほしくて、ほしくて、たまらなくて。殺してでも、手に入れたかった。そして、力ずくで手に入れた。でも、それはさらなる渇きを生むだけで。
ねえ、イルカ先生。俺は、あなたのそばにいてもいいんですか。
じっとりと汗ばんだ肌をはなす。
この瞬間は、いつも少し寂しい。名残惜しい、とでもいうのだろうか。以前と違って、行為のあと、すぐに湯を使いに行くようなことはなくなったが。
それでも、イルカの体が褥から離れるときの、いわく言い難い感覚は変わらない。
思わず、腕を取ってしまった。
「……カカシ先生?」
首をかしげて、イルカが問う。
「もう少し、いてくれませんか」
「でも……」
わかっている。あなたの体のことはすべて。それでも、ここにいてほしい。
「いてください」
さらに言うと、イルカは困ったような笑みを浮かべながらも、夜具に戻った。カカシの腕にすっぽりと包み込まれるような格好で、横になる。
「なにか、あったんですか」
イルカが訊く。しかし、決して答えを強要はしない。ただ、訊くだけ。
しばらくの沈黙ののち、カカシは口を開いた。
「今日、つまらなかったんですよ」
「仕事が、ですか?」
「あなたが、忙しそうだったんで」
「はあ?」
昼に事務局を覗いたとき、イルカは握り飯を片手に書類のチェックをしていた。なにやら追い込みの仕事が入ったらしく、同僚たちも昼休み返上で机に向かっている。
「晩飯ぐらいおごろうかと思ってたら、あなたはさっさと事務局の連中と飲みに行ってしまうし」
終業時間にふたたび事務局に行ったら、もう飲み会の話が決まっていて、イルカは済まなそうに「あとで伺います」と言ったのだ。
その言葉通り、それから一刻あまりのちにはカカシの家に来ていたのだが。
「遅くなって、すみません」
イルカは三段重ねの重箱を差し出した。
「夕飯、まだでしょう?」
膳の上に料理を並べる。
「一緒に食べようと思って、店で詰めてもらいました」
アカデミーの中忍たちがよく行く居酒屋の料理らしい。ということは、イルカもまだ食事を摂っていないということか。
カカシは箸を取り、重箱の中の料理をつまんだ。そしてその後、二人は床に入ったのだった。
「今日は、急に書き直しの書類が回ってきたんです」
イルカはカカシの肩に頭をもたげながら、言った。
「それが、もう、半端じゃない量で。なんか、上の人たちが勘違いしてたらしいんですけどね。でも、事務局の管轄だからって、押しつけられまして。仕方なく、通常の受付業務はそっちのけで、直してたんです。今日中にやれって言われたので……。で、なんとか仕上がったんで、みんなで打ち上げしようってことになったんですよ」
そんなことだろうとは、思っていた。そうだ。わかっているんだ。そんなことは。でも、疎外感にも似たもどかしさは否めない。
「非番のやつまで駆り出しましたから、慰労も兼ねて一杯やろうって。急に決まったので、知らせる暇がなかったんです。すみません」
少し声を落として、イルカは続けた。
「でも、今度から、声をかけてくださいね」
「え、ああ……」
気づいていたのか。自分がドアのところから見ていたのを。
「ちらっと覗いて、すぐに行ってしまったから、たいした用じゃないのかと思ってしまいましたよ」
たいした用でしたよ。
カカシは心の中で呟いた。
あなたの顔が見たかったんですから。わけもなく、ただ会いたくなってしまった。会おうと思えば、いつでも会えるのに。なにも、アカデミーの中でなくとも。それでも、ふと、あなたに会いたくなって。
「すみません」
ふたたび、イルカが言った。
「……どうして、謝るんです」
カカシはイルカの顔を覗き込んだ。
「あなたはあなたの仕事をしてたんだから、なにも謝ることはないでしょ」
ああ、嫌だ。言葉に棘が山ほどついている。こんなことを言いたいんじゃないのに。
「それはそうですけど……」
イルカは暫時、思案してから続けた。
「あんたが来てくれたのに、おれはなにも考えてなかったなと思って」
目をわずかに伏せて、イルカは息をついた。
「甘えですよね、これって。安心しすぎて、気遣いを忘れてしまって……慢心もいいとこです。あんたと、こうしていられることを当たり前みたいに思うなんて」
そんなはずはないのに。
言外の声が、聞こえたような気がした。
二人でいること。肌を合わせて、ともに至福を迎えられること。
それはおそろしく、希有なことなのだ。幾度も分れ道はあったのだから。
どこかで、どちらかが違う道を選んでいたら、二人は出会わなかった。出会ったとしても、単なる顔見知りで終わっていただろう。あるいは。
修羅の中でどちらかがどちらかを殺していたかもしれないし、二人とも、とことん壊れつづけて、業火に焼かれながら体を繋いでいたかもしれない。
天文学的な確率で、二人はいま、ここにいる。
イルカが、顔を上げてカカシに口付けた。
ついばむように、何度か唇が触れる。カカシはイルカの体をかき抱いた。
口付けが深くなる。イルカの手がカカシの背に回る。
耳元で、イルカがそっと囁いた。
カカシの心を満たす、やさしい言葉。
そうですね。俺も、そう思いますよ。
同じ心でいる幸福。どうして、いつもこれを信じていられないのだろう。どうして、不安になってしまうのだろう。
気がつくと、彼を探してしまう。目の前にいるのに、確かめたくなってしまう。本当にあなたはいるのか、と。
そのたびに、ひどく傷つけてしまうとわかっているのに。それでも俺は、あなたを切り裂いてしまう。あなたの中が見たくて、あなたの中にいる自分を見つけたくて。
肌を合わせているあいだしか、安心できない。あなたがこちらを見ているときしか、落ち着かない。
あなたを感じられなくなってしまったら、俺はきっと狂うだろう。
自分でもわかる。そうなった自分が、どれほど凄絶な末路を辿るか。
あなたがいないのなら、人でいる必要などないから。今度こそ、たぶん鬼になれる。なんの未練もないから。
「カカシ先生……」
ぐっ、とイルカの手がカカシの背を掴んだ。爪の跡がつくほどに、強く。
「大丈夫ですよ」
ひっそりと、言う。
カカシは目を閉じた。
まったく、あなたは素晴らしい。俺が道を逸れそうになると、いつも連れ戻してくれる。
「……そうでしょうか」
「そうですとも」
抱きしめたまま、抱きしめられたまま、カカシはイルカの声を聞いた。
穏やかな、あたたかい声を。
二人は眠っている。互いの夢の中で互いを思いつつ。
障子に透けた月明りが、彼らの寝顔を照らしていた。
(了)
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