ぱしゃり、と水音。
 手についた血をざっと濯ぐ。
 カカシはたったいま、仕事を終えたばかりだった。思ったより『的』は多かったが、ただそれだけのこと。朝霧の立ち込める中、十を超える骸が古寺の周りに残された。
 そして、ここは長い石段を下りたところにある池。ひんやりとした清水が、見る見るうちに汚れを落としていく。そのとき。
 かすかに、なにかが弾けるような音がした。若葉に溜まった水滴がするりと落ちて、小枝を揺らすときのような。
 カカシは目をこらした。左手の奥。池の三分の一を埋めるほどに、大きな円形の葉が群生している。
 葉の上に蛙でも飛び乗ったか……。そんなことを考えながら、立ち上がる。
 霧が風に流されて、薄くなってきた。水に浮かぶ濃い緑。その中に、一箇所だけ真っ白な部分がある。
 カカシは目を見開いた。
 清冽な、白。朝露が真珠のようにほころんでいる。それは、いま開いたばかりの睡蓮の花だった。





眠れる花       byつう





 アカデミーの事務局は、人使いが荒いので有名だ。
 三交代とは名ばかりで、昼にデスクワークをやったあと、すぐに外回りの夜勤などということもざらにある。もっとも、それぐらいの体力がなければ忍など勤まらないのだが。
「じゃ、お先に」
 定時に帰る同僚が、イルカの肩をぽんと叩いて横を通りすぎた。
「おつかれさまでした」
 イルカは報告書を順番通りに並べながら、それに答えた。
 彼は今日、夜勤である。事務局の仕事と夜勤の点呼までのあいだは二時間ばかりあるのだが、いつもまともに休めた試しはない。
「あとは……と。カカシ先生か」
 ふう、と小さく息を漏らす。
 たしか、今朝火影の館に帰還の報告をしていたはずだ。今回は単独の任務。また例によって、架空の報告書が提出されるのだろう。
 ナルトたちを率いての任務とは違い、カカシ一人の場合、暗部にさえ知らされぬ隠密行動であることが多かった。ゆえに表向きの報告書は、当たり障りのないものを自分で創作しなければならない。
「あしたまでに、三枚。お願いですから」
 デスクワークの苦手なカカシに、そう言って頼まれたことも一度や二度ではない。
「いいんですか? カカシ先生」
「何がです」
「なにって……任務のこと、おれなんかにしゃべって。里のトップシークレットじゃないですか」
「イルカ先生は、それをどこかに漏らしたりするんですか」
「そんなこと、するわけないでしょう!」
「だったら、なんの問題もないですね」
 にっこり笑って、イルカの腰に手を回す。ちなみに、これらの会話はイルカの家の、八畳間の蒲団の中で為されていた。
 二人が同衾するようになって、だいぶたつ。きっかけは、里にいるはずのないカカシが傷を負って、未明にイルカの家を訪れたことだった。そのときも極秘任務の最中で、動けるようになるまでの五日間、カカシはイルカの家に身を潜めていた。
 そして、その後。さまざまな経緯があって、今に至っている。
「また代筆かなあ」
 イルカはつぶやいた。この時間になっても報告書ができていないということは、その確率が大だ。
 今度は、どこに行っていたことにすればいいだろう。任務にかかった日数からして、雲の国の属国あたりが適当か……などと、つらつら考えていると、
「ギリギリ、セーフっ!」
 壊れんばかりの勢いでドアが開いた。
「あー、よかった。イルカ先生、まだいたんですね。はい、これ」
 カカシは机の上に、書類をばさりと置いた。あいかわらずの癖字である。
「え……ああ、報告書ですね。たしかに受け取りました」
 珍しいこともあるものだ。カカシが当日中に報告書を作成するとは。
 あしたは嵐かもしれない、などと不遜なことを考えていると、その嵐の主がずいっと顔を近づけてきた。
「なっ……なんですか」
 イルカは体を引いた。
「それだけですか」
「え?」
「おかえりなさい、とか、ご苦労さまでした、とか言ってくれないんですか」
 あんた、上忍でしょ。
 ……と、言いたいのをぐっとこらえて、
「おかえりなさい」
 眼前の男に、ぼそりと告げる。
「無事で……なによりです」
 その言葉を聞いて、カカシは破顔した。
「ありがとうございます。いやあ、日中かかって書いた甲斐がありましたよー」
 慣れないことをして肩がこったのだろうか。カカシは両腕をうしろへやって、伸びをした。
「ときに、イルカ先生。上がりは何時ですか」
「明朝四時ですが、それがなにか?」
「じゃ、そのあと、ちょっと付き合ってくださいよ。いい所に連れていってあげます」
「いい所?」
 限りなく、不穏である。カカシのことだ。なにを考えているのやら。
「あー、なんですか、その顔は」
 不本意そうに、カカシ。
「べつに、花街に行こうって言ってるわけじゃないんですから」
「あたりまえです」
 早朝から廓遊びなど論外だが、カカシの場合、一概に冗談とも言えない。なにしろ、前の晩から高級娼館の名妓を買い切って仮眠をとらせ、夜勤明けに遊びにいったという噂を聞いたことがある。
「出かけるのが嫌なら、俺がイルカ先生んちに行ってもいいんだけどなー」
 くだけた調子で、カカシは言った。
 それも困る。なんといっても、昼間の仕事から引き続いての夜勤だ。先の噂の娼妓ではないが、仮眠ぐらいはとりたい。
「どうします?」
 できれば、どちらも遠慮したかった。が、両方とも断っては後々たいへんだ。この上忍はなかなか執念深い性格で、以前似たようなことがあったとき、じつに陰険な報復をされた。
『じゃあ、俺はもう帰ります』
 あらゆる手練手管を使って極限に近いところまでイルカを追いつめておいて、カカシはそう言ったのだ。そしてその言に違わず、じつにあっさりと引き上げてしまった。
 あれは、こたえた。躯の中に火種を抱いたまま、何日も耐えなければならなかった。あんなことは、もうご免だ。
「……わかりました。お供します」
 書類を引き出しに仕舞いつつ、イルカは言った。カカシは我が意を得たりといった様子で、頷いた。
「それじゃ、あとで迎えにきますねー」
 言うなり、カカシはイルカの頤を掴んで唇を重ねた。
「なにするんですかっ!」
 イルカはカカシの胸を押した。ガタン、と机が揺れる。
 仮にもアカデミーの中だ。いつ、だれが入ってくるかわからないというのに。
「何って、約束のキスですよ」
「いりません、そんなもの」
「だったら、定刻に報告書を提出したご褒美、ってことで」
 どこまでも、自分に都合のいいように考える男である。イルカは心の中で深いため息をついた。
 点呼の時間まで、あとわずかだ。


 夜勤は大別して、里の見回りと火影の館の警護とに分けられる。休憩がとれることもあるが、真面目に職務を遂行しようとすれば、たいていは夜食の時間もないぐらいに忙しい。
 イルカは当然、手抜きをするような性格ではない。夜勤のあとはいつも、昼間の倍ほども疲れていた。
 午前四時。引き継ぎを済ませて詰め所を出ると、廊下の隅に銀髪の上忍が立っていた。
「待ってましたよ。行きましょうか」
 カカシはすたすたと歩き出した。外はまだ薄暗い。こんな時間にどこへ行くのだろう。
 自宅に帰って休みたいのやまやまだったが、約束は約束だ。イルカは睡魔と戦いつつ、あとに続いた。


 一時間後。
「……ったく、なんなんですかっ」
 イルカは、けもの道のような鬱蒼とした山路を上りながら、そう言った。
 カカシの言うところの「いい所」は里の中ではなく、猟師でさえもめったに足を踏み入れない、険しい山の上にあるようだった。
 忍の足で一時間ということは、里人であれば半日はかかる距離である。
「間に合うかなあ」
 先を行くカカシが、のんびりと言った。
「間に合うって、なにがですか」
 いくぶん、息が上がってきている。中忍と上忍の体力の差は大きい。
 朝霧が木々のあいだを縫うように滑っていく。夏だというのに、山頂に近いこのあたりはずいぶん気温が低いようだ。
「それは、見てのお楽しみですよ」
 カカシはにんまりと笑った。
「もうすぐですから……ほら、あそこ」
 入り組んだ枝の向こうに、ぽっかりと開けた場所があった。大きな岩を組んだ石垣があり、そこから長い石段が続いている。はるか上の方に、壊れかけた古い門が見えた。
「お寺……ですか」
 こんなところに寺があるとは知らなかった。この山には訓練などで、何度も登っているはずなのに。
「ええ。ここはね、最近まで結界が張られてたんですよ」
「結界が?」
「先代の火影の遺産が隠してありまして。まあ、遺産と言っても大判小判じゃなくて、巻物なんですがね」
 淡々と語られる言葉。イルカは慌てた。おそらくこれも、上層部の者しか知らぬ極秘事項だ。
「でも、それが一人の不届き者のせいで破られた。以来、とある国の忍が巻物を狙って木の葉の国に潜入しはじめまして。俺の今回の仕事は、そいつらの始末だったんです」
 結界が破られたことに気づいたのは、火影一人だった。そして、カカシに密命が下った。
「どうして、そんなことをおれに……」
「夜勤明けのあなたを、ここまで連れてきた理由を説明してるだけですよ」
 話がいまひとつ見えない。
「で……いい所って、あのお寺のことですか」
 先代の巻物。自分などが手を触れることもかなうまいが、木の葉隠れの里の宝には違いない。
「残念でしたー。違います」
 カカシは石段の左手にある、池の辺に立った。
「こっちですよ、イルカ先生」
 ひらひらと手招く。
「なんとか、間に合ったみたいです」
 だから、それはなんの話なのか。
 そう問いかけようとしたとき、イルカの耳に、かすかな空気の振動が伝わった。
 この音を、どう表現したらいいのだろう。長く水の中にいたあと、最初に空気を吸うときのような。深い眠りの中から、いきなり引き戻されたような。
 イルカは音源をさがした。目を大きく開けて、池を見渡す。
「……あれは」
 薄い朝霧の中に、純白の睡蓮が咲いていた。全部で、二十はあるだろうか。深い緑のあいだに、凛として立つ涼やかな花弁が見える。
「まさか、いまのは……」
「聞こえました?」
 カカシが、ひっそりと問うた。
「はい」
 イルカは頷いた。たしかに、聞こえた。花が生まれる音を。
「ここは、もうすぐまた結界が張られてしまうんですよ」
 カカシが言った。
「だから、今日のうちに、あなたをここへ連れてきたかった」
 睡蓮。眠れる花の、目覚める瞬間。
「奇麗ですね。なんだか、この世の景色じゃないみたいで」
「イルカ先生は、あの世を知ってるんですか?」
「……いいえ。そういうわけでは」
 失言だった。イルカは下を向いた。
「俺はね、あの世かと思いましたよ」
「え?」
「はじめて、この池を見たときはね。まあ、実際、死にかかってたんですけど」
「カカシ先生、それは、どういう……」
「先代の火影が施した結界を破った不届き者ってのは、俺なんです」
 イルカは顔を上げた。
 いま、なんと言った? この男は……
 先代の結界を破るなんて、つまりは先代より力が上だということではないか。
「覚えてませんか。俺が、はじめてあなたの家に転がりこんだ日のこと」
「……覚えていますよ」
 忘れるわけがない。あの日を境に、自分の人生はまったく変わってしまったのだから。
「あのときの仕事は、結構きつくてね。読み違えもあって、もう俺、ぼろぼろだったんですよ。で、追手を振り切るのに、つい余計な力を使っちゃって。気がついたら、山の結界吹き飛ばしてまして」
 恐ろしいことを平然と言う。イルカはごくりと唾を飲んだ。
「やっとのことでこの池までやってきて、一休みしようとしたら、花が咲いてましてね」
「睡蓮が、ですか?」
「ええ。それも、紅いのが」
「赤い花?」
「そう。睡蓮が開く時間でもなかったのにね。薄暗い池に、やたらと毒々しい色の花が咲いてて……まるで、俺みたいだって思いましたよ」
 何人もの血を浴びて、自身の血も流して。体の芯まで赤黒い血に染まって狂い咲く。
「けど、きのう、ここで見た花は真っ白で」
 だから、あなたに見せたかった。
 カカシはそう続けた。緑の池に浮かぶ、清廉な白を。
 イルカは、カカシの言葉を全身で聞いていた。
 闇に咲く紅蓮の花と、明けに開く白い花。
 ここから見たところ、紅い花はない。もしかしたら遅咲きの種類かもしれない。それが、傷ついたカカシには、彼岸に咲く花のように見えたのだろうか。
 イルカはふと、つれづれに読んだ書物の中の一文を思い出した。
「カカシ先生、その花は……」
「はい?」
「夜咲きの睡蓮だったんじゃないですか」
「夜咲き?」
 ひと口に睡蓮といっても、何十種類もあって、中には夜咲きのものもある。
「もしそうなら、睡蓮が夜に咲いたって珍しいことはありませんよ」
 ただ、自然の摂理に従っているだけなのだから。
 カカシはしばらく、イルカを見つめていた。まばたきすらせずに。
「……カカシ先生?」
 尋常ではない様子に、イルカはカカシの顔をのぞき込んだ。その途端。
 カカシはがばっ、とイルカに抱きついた。いきなりのことに、イルカはバランスを崩して尻餅をついた。
「なんですか、急に!」
「もうー、イルカ先生ったら、犯したいほどかわいいですね」
 すっかりいつもの調子で、カカシはイルカにのしかかった。
「かわいいなんて言われても、うれしくありません。……ちょっと、どいてくれませんか。服が濡れます」
 水辺の草は、朝霧を吸ってしっとりと湿っている。
「だったら脱いで、そこらへんの枝に掛けとけばいいでしょ」
「冗談はやめてください」
「俺は本気ですよ」
 先刻までの殊勝な態度が嘘のようだ。カカシは口布をずらして、イルカの首筋に顔を近づけた。
「ここなら、どんなに声を出してもかまわないし」
 耳元で囁かれ、イルカは顔をそむけた。
「あんた、最初からそのつもりだったんですか」
「違いますよ。純粋に、あなたと一緒にこの花を見たかったんです。でも……」
 言いながら、襟を開く。
「あなたが、あんまり嬉しいことを言ってくれるから」
「それで、なんでこうなるんです」
「嬉しいと、元気になるタチなんです」
「勝手な人ですね」
 そう。そんなことはもう、わかっている。自分勝手で、わがままで、いつも何かをさがしているような、不安定な心の持ち主だと。
「ひとつだけ、訊きますけど」
 イルカはカカシの愛撫を受けながら、言った。
「なんですか」
「こんなことをしているうちに、結界を張られてしまったらどうするんです」
 またぞろ、結界破りをするつもりか。
 前回は不可抗力だったが、今度そんなことをしたら大問題になるだろう。
「あ、それは大丈夫です。俺が里にもどるまで、結界を張らないでくれって頼んでおきましたから」
「頼むって……火影さまに?」
 いくら上忍とはいえ、無茶苦茶なことをする。
「そう。今回の報酬の代わりにね。だから、心配は要りませんよー」
 結局、機会があればこうするつもりだったんじゃないか……。
 カカシの指が動きを早める。
 帰りのために、体力を温存しておかねば。イルカはカカシが導くままに、態勢を変えた。


 夜が白々と明けてきた。東の空が淡い朱色に変わっている。霧はいつのまにか晴れていた。小鳥の声と、木々を渡る風の音。
 いまだ火照りの残る体を夏草の上に投げだし、イルカはふと池に目をやった。
 水面がさざめいている。睡蓮が笑うように揺れている。朝の光が幾筋か差し込んできて、水鏡を煌らかに照らす。その、刹那。
「カカシ先生……」
 思わず、名を呼ぶ。
「なんですか?」
 見下ろす瞳。左目を髪で隠した素顔を確認して、再び視線をもどす。と、そこにはもう、先刻認めた景色はなかった。
「イルカ先生?」
「……いえ、なんでもありません」
 錯覚だったのか。あるいは……
 イルカは、白い睡蓮が鮮やかな紅に染まるのを見た。
 あれは、眠れる花の、残像だったのかもしれない。





   (了)

カカシ睡蓮
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