約束        byつう





ACT3



 夜に入り、また吹雪が激しくなった。
 なんとか岩場の陰に小さな濠を掘り、イルカはその中に身を潜めた。できるだけ体をまるめて、体温の低下を防ぐ。
 明朝までは、もつだろう。問題は、明日の夜だ。
 運良く吹雪が止んだとしても、夜までにこの山を越えられるかどうか。体力はすでに、限界に近い。
 まったく、つくづく間が抜けている。
 熟考は大事だが、肝心なときに迷って決断の時期を逸すると、取り返しのつかないことになる。現に、いまがそうだ。
 もしカカシだったら、きっと何日でも体力を温存して、好機を待っただろう。上忍と中忍の体力差はあるにしても、なぜ自分はそれができなかったのか。
 満足に働かなくなった頭で、懸命に考える。なにか考えていなければ、意識を保つのが難しい。
『帰りますから』
 そう約束したからか。だから……いや、違う。
『ほんの、十日ほどのことじゃありませんか』
 イルカは自嘲ぎみに笑った。ああ、そうか。おれは、自分で自分の首を締めたんだ。
 期限を切ってしまったから。
 だから、帰りをことさら急いだ。急いだから、待てなかったのだ。いちばん重要なことは、「帰る」ことだったのに。
 さらに言えば、山越えのルートを選んだこと自体、適切ではなかった。多少、遠回りになっても、リスクのより少ない道を選ぶべきだったのだ。任務は無事に完了したのだから。





 山越えをするとイルカが言ったとき、セキヤは目を丸くした。
「へえー、そんなに好きなの」
「え?」
「だからさあ、ほんのちょっとでも早く帰りたいほど、そのヒトのこと、好きなんだ。いや、もう、黒髪さんてば、すっかりオトナになったんだねえ」
 セキヤはイルカの首のうしろに手をやって、髪をくしゃくしゃとかき回した。
「口だけはご立派な、背伸びしてるボーヤだと思ってたのに」
「あれから何年もたってるんですよ」
「だよねー。もう、ヒトのもんになっちゃったなんて、すっごく残念だわ」
 セキヤは顔を近づけた。
「ねえねえ。内緒にしといてあげるから、ご褒美、くんない?」
 セキヤの焦色の瞳に、自分の顔を認める。イルカは、くすりと笑った。
「駄目です」
「えーっ。どーしてよ。手伝ってあげたじゃん」
「失いたくないですから」
「へ? なにを」
「大切なものを」
「うわー、お熱いねえ。あんまりそーゆーこと言うと、オレ、帰してやんないかもよ」
 ぎらり、と瞳の奥が光る。冗談に本気を乗せる、セキヤの声音。
「わかんなきゃ、いいでしょ」
「わかりますよ」
「なんでよ」
「あなたにも、わかると思いますけど」
 触れれば、わかるはずだ。この身の中に、あの男が浸透していることが。
「……言うねえ」
 セキヤは目を細めた。いつもの笑みとは違う、空気の流れが止まるような冷たい微笑。
 ぐっと、首のうしろを掴まれた。一瞬、脳内の酸素量が減る。
 セキヤの唇がイルカのそれに重なった。なにかを確かめるような口付け。イルカは抗わなかった。
「なるほど、ね」
 唇を離したときには、もういつものセキヤだった。
「なんか、オレっていっつも、貧乏クジだよなー。前んときもそうだったじゃん。もう、やってらんねえったら」
「すみません」
「はあ? ああ、もう、いいのいいの、黒髪さんは。さっさといいヒトんとこ、帰んなよ。あ、でも、チューしたことは内緒だよん」
 いたずらっ子のように片目を閉じて、セキヤは言った。
「山越えするんなら、南のルートの方がいいよ。壁が少ないから」
 そして、イルカはセキヤと別れた。
 あれから、何日たったのだろう。





 失いたくないもの。大切なもの。
 口に出してみて、はっきりとわかった。あの男が自分に執着するのと同じくらい、自分もあの男に執着しているのだと。
 セキヤの求めに応じたら、自分はあの男を失う。殺されるぐらいは、どうということはない。が、そうなれば、あの男はおそらく壊れてしまうだろう。そして、周りのものすべてを道連れにして修羅の道を進む。救いのない、闇の中を。
 そんなことは嫌だ。やっと、ともに歩けるようになったのに。
 ああ、でも……。
 このままでは、結局、カカシを失ってしまう。
 急速に、眠気が襲ってきた。まずい、と思ったときには、もう遅かった。
 疲れと寒さで、イルカは意識を失った。





 あと少しだったのにな。
 本当に、馬鹿だ。ちょっとぐらい遅れても、あの男は待っていただろうに。無事に帰れば、それで十分だったのに。
 カカシ先生。おれはもう少し、あんたの側にいたかったよ。
 この身で、あんたを包みたかった。あんたの望むものを、あげたかったよ。
 ……そうだ。
 この指。あんたにあげなくちゃいけない。約束のしるしだから。
 大丈夫かな。処理班に跡形もなく始末されてしまったらどうしよう。
 まいったな。どこまでも、おれは間が抜けている。



「……っ……!!」
 強烈な痛みが、左大腿部の裏に走った。焼けるような、びりびりとした痛み。
 傷口が開いたのかもしれない。それほどに激しい痛みだった。
 朦朧とした意識の中で、イルカは雪の中で揺れる眩しい銀色を見た。そして、空よりも青い藍色。
 形をなさぬ色彩のイメージが、何度も現れては消えていく。激痛がイルカを現実に引き戻した。自分を抱え上げる、力強い腕。
 助かった。
 そう悟った瞬間、イルカはふたたび意識を手放した。



 次に視界に入ってきたのは、見覚えのある薄茶色の天井だった。
 以前、脚を怪我したときに運ばれた、医療棟の一室。ゆっくりと頭を振ると、枕元に銀髪の上忍がいた。
「……なんか、言うことはないんですか」
 怒ったような声で、カカシは言った。
「すみません」
 小さな声で、イルカは答えた。
「それだけじゃ、駄目です」
「心配を、かけました」
「それから?」
「遅くなって……申し訳ありません」
「こんなことは、もうご免です」
 カカシはイルカの手を取った。小指に口をつけて、軽く噛む。
「返してもらいましたよ」
 何度も何度も、口付ける。
「この指……これからも、俺のもんですよね」
 約束のしるし。ほかのだれでもない、この男との約束。
「ええ。もちろん」
 イルカは微笑した。
「あんたのものですよ」



 指だけじゃない。あげますよ。全部。あんたが望むなら。
 心の中でそう続け、イルカは指先から伝わるカカシの体温を全身で感じた。



(了)



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