その夜、イルカはなかなか寝つけなかった。
 いつもの時間に床に就いたのだが、まるで体内時計が逆転したかのように目が冴えて眠れない。
 理由は、なんとなくわかっていた。もしかしたら、あの男が来るかもしれない。自分の家にもどるより先に。これまでにも、何度かそんなことはあったから。
「墓参りに行ってきます」
 そう言って、カカシが盆休みを取ったのは四日前だった。
 そして今日は五日目。休暇の理由が文言通りであれば、土産のひとつも下げてアカデミーの事務局に顔を出しているはずだった。
 もっともイルカは、墓参りなどという言葉を信じてはいなかった。おそらく今回も、火影の密命を受けての任務なのだろう。帰還が遅れているということは、何か不都合な事態に陥っているのかもしれない。
 いつぞやのように、手傷を負っていなければいいのだが。
 床の中で、イルカはカカシがはじめてこの家に姿を見せたときのことを思い出していた。




『是則空也』         by つう





 刻は夜明け前。外はいまだ薄い墨色の中にあり、音も光もその力を奪われているかのようにひっそりとしていた。
 カチッ、と、かすかな物音。停滞していた室内の空気が、すうっと動く。施錠してあったはずの戸が、開いたのだ。
 眠ってはいたが、イルカとて木の葉隠れの里の忍である。枕元のクナイを手に、窓際まで飛び退いた。
「お邪魔します」
 イルカが誰何する前に、その人影は言った。
「しばらく……休ませてください」
 ぐらりと上体が傾ぐ。
 イルカは咄嗟に手を差し出した。銀髪がばさりと腕にかかる。
「カ……カカシ先生!」
 侵入者があまりにも意外な人物であったことに内心狼狽しつつも、イルカはがっしりと体を支えて名を呼んだ。
「どうして、こんな……」
 カカシはかなりの深手を負っていた。救護班の者に知らせた方がいいのだろうか。それとも……。
 イルカは、カカシの置かれている微妙な立場をうすうす察していた。彼が時折、架空の報告書を提出していることも知っている。
「とにかく、止血を」
 イルカはカカシの着衣を脱がせ、手早く消毒と止血を施した。カカシはじっと、イルカの手元を見つめている。
 ひと通りの処置を終えて、イルカは汚れた綿布を洗い桶に放りこんだ。カカシの頭にそっと枕をあてがい、
「横になっててください」
 小さく言って、立ち上がる。カカシはわずかに身を起こした。
「そのままで」
 イルカが制した。
「外の様子を見てきます。血の跡も消しておかなきゃいけませんし」
 それを聞いて納得したのか、カカシはふたたび枕に頭を預けた。
 こうして、カカシはそののち五日間、イルカの家にいた。里のだれにも知られずに。
 イルカは傷の手当てをし、薬湯を作り、三度の食事の世話をした。
 これが、はじまりの五日間。平凡な(と言っておこう)中忍の人生を、コペルニクス的に転回してしまった五日間だった。
 そのあとの、さまざまな出来事が脳裡をよぎる。
 明日も早いのだからと何度も眠ろうと努力したが、結局、徒労に終わってしまった。二階棚に置いてある古い時計が、むなしく時を告げる。
 部屋の中はすでに、目の滲みるような朝の光に満ちていた。イルカは観念して、蒲団から抜け出した。




「どうしたんですか、イルカ先生。その顔」
 事務局に着くなり、同僚の一人が近づいてきた。
「え……なんか変ですか?」
「目の下、クマができてますよ」
 同僚は人差指で、自分の目の下をちょいちょいとつついた。
「ゆうべ、ちょっと寝苦しくてね」
 適当に言葉をにごす。なにしろ急いで出てきたので、まともに鏡も見ていない。
「ああ、そういえば、なんだか蒸し蒸ししてましたね。ひところの暑さに比べたら、だいぶ楽になりましたけど」
 今年の暑さは強烈だったなあ、などと同僚たちが世間話を続ける横で、イルカは黙々と受付の準備を始めた。




 睡魔と戦いながら、イルカはなんとか定時まで仕事をこなした。
 徹夜明けのデスクワークはたいそう疲れた。アカデミーの生徒たちと共に演習をしている方がまだマシかもしれない。少なくとも、事務机に額をぶつけて、ひんしゅくを買うことはないだろう。
「お先に失礼します」
 イルカは飲み会の誘いを丁重に断わって、早々に帰宅した。きのうから敷きっぱなしの蒲団の上に、どさりと倒れ込む。
 今日も、カカシは帰ってこなかった。あらかじめ四日と期限を切っていたから、それほど難しい仕事ではないと思っていたのだが。
 もしかしたら。
 イルカはぼんやりと考えた。
 もう帰ってこないのかもしれない。もしそうなら、あれが最後になるのか。
 六日前の、素っ気無い会話が。
「今度は、土産はいりませんからね」
 蒲団の中で、イルカは言った。
「余計なことをされると、迷惑なんです」
「迷惑って、何がどんなふうに?」
 イルカの腰を名残惜しそうにさすりながら、カカシは訊いた。
「あんたがこれ見よがしに名産品を持って来ると、せっかく考えてたネタが無駄になってしまうんですよ」
 イルカは、カカシの報告書を代筆することがよくあった。表沙汰にできない仕事の、隠れ蓑とでも言うべき報告書を。
 しかし、さんざん苦労して架空の報告書を作っても、カカシがそれとはまったく別の場所の土産などを配って歩くと、また一から書き直しである。
「土産を買ってくるんなら、報告書は自分で書いてください」
 これぐらいのことは言っていいはずだ。自分は、この男にいいように使われているのだから。
「わかりましたよ」
 カカシはにんまりと笑った。
「次からは、本物を買ってきます」
「……そんなこと、できるわけないでしょう」
 極秘任務の内容をばらすようなものだ。
「いい加減なことを言わないでください」
「俺は、イルカ先生にはほんとのことしか言いませんよ」
 自分が正直者だと言う人間は、すべからく嘘つきだ。
 イルカはカカシの手が下に滑るのを感じつつ、そんなことを考えていた。
 そう。自分は、カカシを否定したまま別れてしまったのだ。あの朝。
 形容しがたい悔恨の情が沸き起こる。イルカは着替えることもせずに、そのまま蒲団に顔を埋めた。




 いつのまに、眠っていたのだろう。ほんの少し横になるだけのつもりだったのに。
 イルカは鉛のようになった体をかろうじて起こし、部屋の明かりをつけた。
「うわっ……!」
 素っ頓狂な声を上げて、射程距離から飛び退く。
「な……なにやってんですかっ」
 イルカは蒲団の側であぐらをかいていた銀髪の男に向かって叫んだ。
「ごあいさつですねえ、イルカ先生」
 カカシは口布を下ろして、イルカを見上げた。
「あなたの寝顔を見ていただけですよ」
「いったい、いつからそこにいたんです」
「ええと……一時間ぐらい前かな」
 一時間だと?
 イルカは時計を見た。まだ宵の口だ。とすると、この男は自分が不覚にも寝入ってしまってからいくらもたたぬうちに、ここに来たことになる。
「なんで、起こしてくれなかったんですか」
「起こしてもよかったんですか?」
 不穏な笑みを浮かべて、カカシは訊いた。
「え……いや、それは……」
 イルカは口ごもった。
 カカシが「その気」なら、無理矢理にでも起こしただろう。もしかしたら、自分だけ先に始めてしまい、嫌でも目が覚める破目に陥ったかもしれない。
「いつまで、そんなとこに突っ立ってんですか」
 カカシは紙袋の中から、四角い包みを取り出した。
「はい、どうぞ」
 すっと、畳の上に置く。
「……なんですか、これ」
 イルカは、そろそろと膝を折った。
「お土産ですよ」
「はあ?」
「うちの田舎の、隠れた名物でしてね」
 隠れた、というところが怪しい。とんでもないゲテモノか、あるいはカカシ御用達の玩具の類か。
 イルカの疑念に気づいたのか、カカシはくすくすと笑いながら包みを開けた。紙箱の蓋に「一口憧」と書いてある。
「いっこうどう、って読むんですけどね。硬焼きの饅頭なんですよ。ま、ひとつどうぞ」
「……いただきます」
 イルカはおそるおそる、饅頭の包みに手をのばした。たしかに硬い。和紙の包みを解くと、蕎麦粉で作った焼き餅のような色の饅頭が現れた。
 中は粒餡かな。
 そんなことを考えながら、なにげなくふたつに割る。
「え……」
 イルカは手元と呆然と見つめた。
 中身が、ない。
 本来、餡が入っているはずの場所には何もなかった。煎餅のように硬い皮の中は、ただの空洞だった。
「これ、なにかの冗談ですか?」
 イルカは訊ねた。カカシはいたずらが成功したときの子供のように、のどを鳴らして笑った。
「冗談なんかじゃありませんよ。このお菓子はね、もともと中身がないんです」
「……めずらしいですね」
「ええ。変わってるでしょ。まるで、俺みたいで」
 自嘲ぎみに、カカシは言った。
 外側は立派な体裁を整えているくせに、中はからっぽ。肝心なところが抜けていて、夢も希望もあったものじゃない。
「そんなこと……ないですよ」
 イルカは饅頭を見ながら、言葉を繋いだ。
「どんなものであっても、意味を持たずに生まれてきたものなんてないと、おれは思います。これを作った人も、きっとなにか理由があって中を空洞にしたんですよ」
「イルカ先生……」
 カカシは目を見開いた。
「それに」
 イルカは顔を上げた。まっすぐに隻眼を見据える。
「中身のない人が、あれほどにナルトたちを伸ばせるはずがありません」
 ナルトにしても、サスケにしても、生半可な者では指導はおろか、その本来の力を制御することすらできなかっただろう。カカシだったから、できた。重い枷を負った彼らを導くことが。
「まったく、あなたって人は……」
 カカシはかぶりを振った。
「かないませんね」
 言いながら、イルカの肩を掴んで畳の上に押し倒す。菓子のかけらが、あたりに飛び散った。
「ちょ……ちょっと待ってください」
 背中に菓子箱の蓋が当たった。必死になって体をずらす。
 しかし、すでに足は絡め取られ、衣服の胸は左右に開かれていた。いつものことながら、手際がいい。
 カカシがするりと額当てを外す。真紅の瞳がかすかに揺らいで……
「埋めてくださいね」
 額に、頬に、唇を這わせながらカカシは言った。
「俺の中身……イルカ先生が埋めてください」
「……なに言ってんですか。あんたは十分……」
 皆まで言えず、イルカは顔を背けた。
「お願いしますよ」
 くぐもった声。カカシの舌が、イルカの上を移動していった。



 無と空は、根本的に違う。
 無はいつまでたっても無だが、空はそれを満たすなにかを求めているのだから。
 求める心。
 是則ち、空なり。



(了)





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