傾く月 byつう
体を重ねたあとの、心地よい疲労感。
ぴったりと肌を合わせたまま、イルカはその余韻にひたっていた。肩に回された手が、名残り惜しそうにゆっくりと動く。ふた色の瞳が自分を見ているのがわかった。
「どうか、しましたか」
イルカはそっと顔を上げた。
なにか、不安を与えるようなことをしただろうか。カカシがこんなふうに自分を見るときは、心が揺れているときなのだ。
こうして褥をともにするようになって、もう三年になる。すっかり、この男の表情やなにげないしぐさから、その感情を推し量ることができるようになった。ときには、この男がなにを求めているのかも。
この男が求めるものなら、なんでも与えたい。この身でなしうることならば、なんでも。
そう思うようになったのは、死を覚悟したときからだったと思う。任務の帰途、雪山で遭難して凍死しかけたとき。
自分が死ぬことよりも、この男を置いていくことが哀しかった。もう少し、側にいたいと思った。そして。
自分はカカシに助けられた。一命をとりとめて、いまもこうして、ひとつ床の中にいる。
「どうもしませんよ」
カカシはイルカの髪をまさぐりながら、言った。
「ただ……」
「ただ?」
「ちょっとね、昔のことを思い出してしまって」
このごろ、カカシはときどき昔話をするようになった。それは子供のころの話であったり、暗部時代の話であったりした。決して楽しい話ではない。聞いている方もつらくて、悲しくなるような話が多かった。それでも、カカシは話す。
イルカは黙って聞いていた。そしてカカシが話し終わると、「そうだったんですか」と言う。
慰めも励ましも、カカシには必要ないと思うから。ただ、聞くだけ。それだけで、カカシの心は軽くなる。だれにも言えなかった心の澱を吐き出すだけで。
「あなたと、はじめて会ったときのことを」
イルカは首をかしげた。自分と出会ったときのことを思い出して、どうしてこんなに不安定な様子になるのだろう。
「あなたは、覚えてますか」
「はい。もちろん」
「俺とあなたは、いつ、どこで会いました?」
いまごろ、なぜそんなことを訊くのかわからない。が、カカシが訊いているのだ。
「あなたがナルトたちの試験官になったときでしょう? もっとも、事務局では何度も顔を合わしていましたから、厳密に言うと……」
「下田部の荘ですよ」
さらりと、カカシは言った。
まさか。
イルカは目を見開いた。
覚えているのか、この男は。あのとき……ほんの一瞬、まみえただけの自分のことを。
八年前。
当時イルカは、諜報活動に従事していた。火影の密命を受けて雲の国の内乱の情報を集めていたとき、それに木の葉の国の豪族が絡んでいることが判明し、その豪族暗殺のために、とある組織と手を組んだ。
火影が「朱雀」と呼ぶ男を首領とするその組織は、各国の情報機関と通じて水面下の工作を請け負う集団だった。イルカはその首領とともに、雲の国の内乱を陰で幇助していた下田部の国主を暗殺した。そのとき。
カカシは荘園内にいた間者を撤退させるために、下田部の忍を排除する任務に就いていた。暗殺を終えて引き上げようとしていたイルカは、カカシが敵と激しい攻防を繰り広げている現場に遭遇した。
あのときの殺気。
いま思い出しても背筋が凍る。あのままその場にいたら、おそらく自分も巻き添えになって命を落としていたかもしれない。なんといっても、自分は中忍。実力の差は明らかだった。「朱雀」に助けられ、なんとか下田部の荘から脱出できたのは、運が良かったのだと思う。
そのときのことを、カカシは覚えていた。ということは、自分が「朱雀」と行動をともにしていたことも……。
「あなたはずっと、『朱雀』と一緒にいたんでしょ」
迂闊だった。あのとき自分は、この男に火影への文を託してしまった。まさか、文遣いが「写輪眼のカカシ」だなどと思いもしなかったから。
文の内容までは知らなかっただろうが、自分が「朱雀」の組織と深く関わっていたことは容易に察しがついたはずだ。
『やな野郎でねー。もう、相性サイアクよ』
セキヤの言葉が蘇る。
イルカは目を閉じて、当時の自分を思い出した。ひたすらに任務を遂行し、わが身をかえりみることもなかった日々。そんなときに、彼と出会った。燃えるような赤い髪と、焦土のごとき瞳の男に。
自分の進む道を、自らの手で切り開いてきた男。苦しみも悲しみも、すべて受け入れて強さに変えてきた男。
彼はイルカのことを「黒髪さん」と呼んだ。そして、大きな、まっすぐな愛情をくれた。あのころの自分は、それに応えることはできなかったけれど。
自分たちはいくつかの任務をともにし、ゆるぎない信頼を築いた。それは、いまも変わらない。火影でさえも、あの男を信用しているのだ。
いつだったか、セキヤが私用で木の葉の里を訪れたとき、イルカはちょっとした不注意で火影の館の抜道を教えてしまった。その後、この抜道を廃止するよう進言したところ、火影は狂言役者のような笑い声を上げて、それを退けた。
「その儀には及ばぬよ。そなたがこの里におるかぎり、朱雀はわしを討たぬ。そんなことをすれば、そなたに嫌われてしまうからのう」
火影はイルカを、「朱雀」に対しての保険のように考えているらしかった。イルカ自身は、自分にそれほどの価値があるとは到底、思えなかったのだが。
『ごめんね』
抜道を教えたときの、セキヤの顔。心底、申し訳なさそうな。
『余計な心配、させちゃったね』
細やかな心遣い。はじめて会ったときから、変わらぬ心で接してくれるあの男のことを、いま、カカシにどう伝えようか。
「朱雀は、おれを助けてくれたんです」
イルカは、あえて彼のことを「朱雀」と呼んだ。
「下田部の件よりも前に……おれがまだ中忍になったばかりのころに」
「高坂の城攻めのときですか」
「よくご存じですね」
イルカは苦笑した。そのころ、カカシは暗部にいたはず。城攻めの本隊には暗部は加わっていなかったというのに。
もっとも、あの城攻めは急なことだったから、進軍に先んじて、暗部になんらかの下知があったのかもしれない。
「結構、話題になったんですよ。新人の中忍が、城攻めのお膳立てをした、ってね。俺も、面白いやつがいると思って見てたんです」
「それは……知りませんでした」
「当然です。俺は暗部の人間でしたから」
表には出ない。表の者には気取らせない。それが暗部の掟。
高坂のことを知っているのなら、話は早い。イルカは続けた。
「そのあと、下田部のときも協力してもらいました。朱雀があの仕事を受けてくれたので、国内の不祥事を公にせずにすんだんです」
あれは、大きかった。
セキヤが所司から下田部の情報を引き出してくれなかったら、どうなっていたことか。もしかしたら、国を挙げての戦になっていたかもしれない。
「黒髪さん、でしたっけ」
「え?」
「あなたのことを、そう呼んでたでしょ。朱雀のやつ」
やつ、と来た。やはり、カカシもセキヤのことを「サイアク」だと思っていたらしい。
「ああ、そうでしたね。おれ、自分の名前を教えませんでしたから」
もっとも、向こうはとっくに知っていただろうが。
「いろいろな呼ばれ方をしてましたよ。『坊や』とか『お客人』とか」
事実だった。イルカは彼らに、名前で呼ばれたことはない。
「で……実際はどうだったんです」
「どうって……」
聞き返そうとしたとき、カカシはがばっと起き上がって、イルカの上にのしかかった。
「朱雀と、こういうことをしたんですか」
訊かれると思った。イルカは両手を夜具の上に押さえ込まれたまま、カカシを見上げた。
「……妬いてるんですか」
ひっそりと、問う。
「はい。少し」
拗ねたような顔。イルカは目をそらさずに、続けた。
「命を預けたことは、あります」
忍としての自分を賭けて、あの男と向き合った。それで殺されても仕方ないとさえ思った。
あれはまさしく、真剣勝負だった。少しでも逃げたり、ごまかしたりしていたら、おそらくセキヤはイルカを殺していただろう。
「それって……もっと、妬けますね」
わずかに口の端を歪めて、カカシは言った。
「朱雀は……同志のような存在でした」
「同志?」
「ひとつの目的のために、互いに力を尽くしましたから。……あの男だけは、間違っても敵に回したくないですね。なにしろあの男がその気なら、少なくとも三回は火影さまの首を獲っていますから」
機会はあった。しかし、セキヤはそれをしなかった。
『んなことしたって、楽しくないじゃん』
そう言って笑うセキヤの顔が、容易に想像できる。
「なんか、面白くないですね。そういうのって」
「そうですか?」
「そうですよ。俺の知らないところで、あんなやつと」
「知らないところと言われても……」
カカシとこういう関係になる五年も前のことである。それでも、嫌なものなのだろうか。
「たとえ仕事でも、俺は、面白くないです」
カカシの顔が近づいてきた。荒々しい、深い口付け。
息苦しさのあまりかぶりを振ったが、カカシはそれを許さなかった。
「ん……っ……」
頭の芯が熱くなる。カカシの手がふたたびイルカの上を彷徨しはじめた。
先刻の感覚が鮮やかに蘇る。わずかな刺激でも、イルカの体は妖しく色めいた。指が、舌が、唇が、執拗なほどにイルカを責め立てていく。
喘ぎがうわ言のような嬌声に変わるまで、それからいくらもかからなかった。
二度目の交わりのあとは、なにかを考える余裕はなかった。ぐったりと夜具に顔を埋めて、息を整える。
「……すみません」
カカシが、ぼそりと言った。
「ちょっと、無茶をしました」
たしかに無茶でしたね……。
イルカは心の中で苦笑した。しかし、カカシの気持ちもわかる。自分はセキヤと関係を持たなかったが、そうなってもいいと思っていた。おそらく、カカシはそれを察したのだろう。
『ほんとに好きな相手には伝わるから』
セキヤの言葉。まったく、その通りだ。
「いいんです」
イルカは言った。
「よく……わかりましたから」
そろそろと、カカシの頬に手をのばす。
「イルカ先生……」
カカシはその手をとって、そっと口付けた。やっと、安心したかのように。
ひとつひとつ、彼らは互いの道を繋いでいく。丹念に言の葉を紡ぎながら。
外では、今年はじめての雪がちらちらと舞いはじめていた。
(了)
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