切ってください。 イルカは言った。 約束ですから。これは、あなたのものです。 うっすらと微笑んで、左手を差し出す。左手の小指。指切りをした、約束の指。 カカシは愛しげに、その指に口付けた。 氷月 byつう それにしても、遅すぎる。 カカシは自宅の座敷で、杯を片手に考えていた。酒の味などわからないのだが、なにか持っていないと落ち着かない。 イルカが火影の文遣いに出て、今日で五日目である。片道に一日とかからぬ距離だから、遅くとも三日目の朝には帰ってきているはずなのに。 国境地帯の紛争に関係する文であったらしいので、各方面からマークはされているだろう。無事に届けたとしても、その返書を狙ってくる輩もいるはずだ。 それらをかわして、遠回りをしているのだとしても、遅すぎる。復命は今日まで。火影はそう言い渡していたという。 今夜のうちに帰還しなければ、追い忍部隊に出動命令が下る。カカシは、夜明けとともに里を出るつもりでいた。追い忍部隊よりも先に、イルカを見つけるために。 もしものことがあったとき、ほかの者にイルカを渡すのは絶対に嫌だった。忍の死体は、髪の毛一本残さずに徹底的に処分されるのが常であったから。 死体。イルカの、冷たい骸。 かん、と、杯を置く。 考えたくもなかった。イルカがいなくなるなどと。 『帰りますから』 いつものように、イルカは言った。左手で指切りをしながら。 『待っていてくださいね』 文遣いに出る前日、ここで、二人は肌を合わせた。丹念に互いの体を愛しみ、細部に渡るまで脳裡に刻み込んだ。そして、ここから、イルカは出立していったのだ。 目を遣ると、まだそこに彼がいるような気さえする。夜着を直し、俯き加減でこちらを見ている姿が。 あなたはいま、どこにいるんですか。 幻に、問いかける。 と、そのとき。 かたん、と、なにかが戸にあたる音がした。 カカシは膳を蹴飛ばして、座敷を出た。長い廊下を一気に走る。 「……ああ、よかった。いてくれて……」 玄関の戸口に、忍び服を着たイルカがいた。顔は真っ青で、服はあちらこちらが破れている。どこか大きな傷を負っているらしく、足元に新しい血が流れ落ちていた。 嘘だ……。 一瞬、カカシは思った。 これは、だれかが見ている夢だ。 「帰って……きましたよ」 イルカの体から、力が抜ける。 「イルカ先生!」 慌てて、その体を抱き止めた。背中が、ぐっしょりと血で濡れている。左側の真ん中あたりにかなり深い傷があるようだ。カカシはイルカを抱き上げて、座敷に運んだ。 そのあいだにも、出血は続く。廊下は、点々と血の道ができた。 夜具の上にイルカをおろし、とりあえず、止血の術を施す。息が、ほんの少し穏やかになった。 カカシはクナイでイルカの衣服を切り裂き、取り除いた。右を下にして横たえ、傷の具合を見る。 背中の傷は、どうやら脾臓あたりまで達しているようだった。ほかの傷もかなりひどい。 「……どうして、止血をしなかったんです」 とくに、背中の傷は一刻を争うものなのに。 「……手当……してるうちに、追いつかれたら……困ると……」 苦しげに、言う。 「少しでも早く、あんたのところに……帰ってきたかったんです」 カカシは唇を噛んだ。 約束したから。必ず、帰ると。 声にならぬ、思いが届く。 イルカの顔も体も、すでに色が失われていた。失血の多さは、火を見るよりも明らかだ。止血の術も、もはや意味を為さない。 医者を呼んでも、あるいは医療棟へ運んでも、結果は同じだろう。 カカシは突然、全身が震えるのを感じた。 消えてしまう。 イルカが、いなくなってしまう……。 いままで、何度かこんな気分を味わったことがあった。岩の国の忍との戦いのさなか。雪山で消息を断ったとき。ほかにも、イルカが単独の任務に就くたびに。 しかし、そのいずれも、イルカは生きて帰ってきた。自分のもとに。 それなのに。 いま、イルカは、行ってしまおうとしている。決して手の届かない場所に。 「カカシ先生……」 イルカはカカシを見据えた。 「お願いが、あります」 「なんですか」 なんでも叶えよう。あなたが、望むなら。 「切ってください」 はっきりとした口調で、イルカは言った。 カカシは目を見開いた。 いま、なんと言ったのだ。切って……? 「約束……ですから」 イルカは自分の左手を差し出した。カカシはイルカの言わんとしていることを察した。 左手の小指。指切りのときの、約束の指。 「これは、あなたのものです。だから……いまのうちに、切ってください」 うっすらと微笑んで、イルカは言った。 絶命してから切っては、生体反応が残らない。処理班に追求されれば、指を取り上げられるかもしれないのだ。 「ここに来たときには、もう、指はなかったと言ってくださいね」 落ち着いた声だった。すでに意識も朦朧としているはずなのに。 「わかりました」 カカシは答えた。その手を取って、小指にそっと口付ける。 愛しいもの。自分だけのもの。イルカが残してくれる、唯一のもの。 もう痛みも感じないだろうが、術で痛覚を抑えてから、カカシはその指を付け根から切り取った。 「……ありがとうございます」 ほうっ、と息をついて、イルカはカカシに頭を預けた。その肩を抱いて、上体を起こす。 カカシの腕にすっぽりと包まれて、イルカは安心したように微笑した。 「すみません……こんなことになって」 「ほんとですよ」 カカシはイルカの髪をなでた。 「俺より先に行かないでくださいって、あれほどお願いしてたのに」 わかりましたと、あなたは言ったのに。 「そう……ですね。でも……帰ってきたんですから……許してくださいね」 イルカはカカシの腕をぎゅっと掴んだ。 「おれ……いつも、あんたを見てますから。いつも……あんたの声……聞いてますから……」 でも、もう触れることはできない。熱い体を、交わすことはできない。 「いつまでも……覚えてますから……ちゃんと……」 そう。全部、覚えてますよ。あんたのことは、全部。 イルカの思念がカカシに伝わる。カカシはイルカに口付けた。血の味のする、深い口付けを。 長いあいだ、カカシはイルカを抱いていた。夜具は血を吸い込んで、赤黒く染まっている。 何度か、小さな痙攣のような動きがあって、イルカの体から力が抜けていった。先刻、指を切り取った左手が、だらりと敷布の上に滑る。 ああ。ほんとうに、あなたはいってしまうんですね。 カカシは腕に力を込めた。 いかないで。 ねえ、いかないで……。 千度唱えても、万度くりかえしても、あなたは戻らない。 冷たい唇に、カカシは最後の口付けをした。ぽつり、と、イルカの頬に雫が落ちる。 カカシは、そのときはじめて、自分が泣いていたことを知った。 夜明けとともに、うみのイルカが「英雄」になったことが里中に知らされた。 ナルトはどうしてもそれが信じられなくて、火影の館に怒鳴り込んできた。 「イルカ先生が、死ぬわけねえだろっ。ほんとに死んだってんなら、証拠見せろよっ!」 忍の遺体は、処理班によって骨も残らぬように処分されるのが通例である。ナルトとて、それを知らぬわけではない。 「オレは信じねえからなっ。ぜーったい、信じねえ!」 顔をぐちゃぐちゃにして、ナルトは叫んだ。 習わし通り、葬儀は忍服に花を捧げる方式で行なわれた。当日の朝まで「ぜーったい行かねえ」とゴネていたナルトも、中忍の礼装でアカデミーの講堂までやってきた。 「見られた顔じゃないな」 サスケが言った。 ナルトの顔は、目が腫れ上がって、見るも哀れなものだった。 「うるせえ。てめえだって、そのクマ、なんだよ」 「精神的衝撃の為せるわざだよ」 「けっ。すかしてんじゃねえ」 ナルトたちは、講堂に入った。正面に遺影が飾られている。 「ちゃんと見ろ」 思わず目をそらしたナルトに、サスケが言った。 「先生は、ずっとおまえのこと、見てたんだからな」 その言葉に、ナルトはぐっと奥歯を噛み締めて。顔を上げた。 ちょっと恥ずかしそうに笑っている、イルカの顔がそこにある。 そうだよな。先生は、いつもバカばっかりやってたオレを、はじめて認めてくれた人だもんな。 これからも、オレのこと、見ててくれよ。オレ、絶対、火影になるから。 ナルトたちは忍服の入った棺の前で花を捧げた。サスケが何事か呟いたが、それはナルトには聞こえなかった。 この日、カカシは十日の休暇を取って、里を離れていた。 「ったく、どこ行ってんだか」 講堂の隅で、アスマがぼやいた。 「ま、わかんねえでもないけどよ」 「まさか、戻ってこないなんてこと、ないでしょうね」 紅が真剣な顔で、言う。 「戻ってくるよ。心配しなさんな」 にんまりと、アスマは笑った。 「あの先生が、ちゃんと連れて帰ってきてくれるさ。な?」 やさしげなイルカの遺影に、片目をつむってみせる。 カカシはイルカによって、救われたはずなのだ。だから、きっと帰ってくる。イルカとともに生きた、この場所に。 『大丈夫ですよ』 いずこからか、そんな声が聞こえたような気がした。 アスマの言葉通り、カカシは十日の休暇が終わると、平常の業務に戻った。 ナルトやサクラは、そのあまりにも変わらぬ様子に、しばらくは反感を抱いたようであったが、アスマや紅は、それがぎりぎりのところで引き返してきたカカシの、精一杯の虚勢であると感じていた。 そして。 その後、はたけカカシは常に最前線で活躍し、生きながらにして英雄に準じる扱いを受けるようになる。 彼が国境の山岳地帯で壮絶な殉職を遂げるのは、それから約十年後のことだった。 (了) あとがき>> 『月』シリーズでのイルカ先生の人生は、この『氷月』をもって終了致しました。享年27才です。 人の一生は長くても短くてもその人にとっては大切な生命。イルカは自分の身をもって、そのことをカカシに教えたのだと思っています。 イルカは自分の『体』が失われた後のカカシの『心』を案じて、自分の分身を残していきます。 これは、カカシが『人』として生きてゆく為に必要だとイルカが判断したから、敢えてそうしたのであって、決して最善の方法ではありません。本来、人は苦しみや悲しみに自分一人で耐えて行かねばならないと思うから。 物語の性質上、あのような展開になりましたが、以上の点をお含み置き下さいますよう、よろしくお願い致します。 追記>> イルカの同意があったとはいえ、カカシが行なった行為は『傷害』の罪に該当するそうです。念のため、申し添えます。 つう拝 真也黙祷を捧げます> ついにこの日が来ました。 自分たちが決めたクセに、胸が痛いです。 イルカ先生は命がけでカカシ先生との約束を守りました。 これからカカシ先生には、『人』として生きるという、彼にとってはこれ以上はない試練が待っいます。 きっと、カカシは『人』より『鬼』になることの方が簡単だから・・・・。 僭越ですが、カカシの十年、セキヤルートと並行して、サスケとナルトの視点で『鳥』シリーズとして書かせて頂きます。 不束ですが、宜しくお願いします。 |